第16話 古木

 奇人街の中央にそびえる古い大木に、ふらふらした足取りで黒一色の男が寄りかかる。

「はあ、猫が食べたい……。しかしまあ、博士にも困ったものだねぇ。泉嬢、本当に死んでなきゃいいけど」

「ううううう……重いぞ、ワーズ」

 古木を遠く取り巻く街灯が照らす人影は、ワーズ一人。

 他に人影は一切ない。

 だというのに、掛けられた他者の呻きへワーズは何の反応も示さず、ため息をつく。

「死体が無かったから生きてるはずだけど。いやー、困った困った」

「お主、老体を気遣おうとは思わんのか?」

 またしても掛けられる、恨みがましい声。

 独り言を邪魔するような話しぶりが気に障ったのか。へらり口の端を引きつらせたワーズは、無視を止め、これ見よがしに盛大な舌打ちをした。

「幽鬼に襲われる心配のない、喰ったところで不味いと即分かる、肉どころか骨も血もないヤツを気遣う必要あるかい?」

 古木から離れるなり、足裏でげしっと蹴る。

「第一、人間じゃないし」

 容赦など欠片もない凶行に、古木の一部が破損した。

 途端に古木から、老いを感じさせる男の悲痛な叫びが上がった。

「ひ、酷いのぉ。痛覚がなかろうとも、壊されると、こう、胸の内がヒビ入るが如く傷ついて」

「すぐ回復するクセに甘えたこと抜かすな、ラオ・ヤンシー」

 ワーズはもう一度、先程より力を込めて蹴った。

「大体、このボクがここに来た理由を察せよ。でなけりゃ、誰がお前なんかと無駄に言葉を交わすか」

「われとて、同じ気持ちじゃて……せっかく良い心地で寝てたというに。それに、お主が探せという従業員がどんな輩かの説明も」

「人間だよ、に・ん・げ・ん! 前に探したのと同じ子! 分からない? 知るもんか、お前は黙って人間を探してればいいんだ!」

 苛立つワーズに、ラオと呼ばれた古木からいじけたような声が上がった。

「人間ったってなぁ……われにゃ、何の関係もなしに。そりゃあ街には根を張っておるが、把握はかなり難しい」

 最後にムムムと唸った古木は、ふとからかうようにワーズへ尋ねてきた。

「にしても、随分執着しとるなぁ。なんぞ心でも打たれたか?」

「馬鹿を言うな。執着なんて上等な感情は持ち合わせてないよ、ワーズ・メイク・ワーズはね。でも、従業員と人間は好きだから、死ぬまで心配するのは当たり前だろ? もっとも、死んでたらどうでもいいんだけど」

 へっと両手を挙げ、肩を竦めるワーズ。

「相変わらずとんでもないのお……ふおぉう」

 やれやれ言いながら、寝起きを語った古木から今頃になって欠伸が聞こえてきた。

 合わせ、ぐぐぐ……と木の根が地面から持ち上がる。

 と、その根から乾いた音が響いた。小気味よく折れてしまったらしい。

 それだけに留まらず、

「きゃあっ!?」

 という短い悲鳴が付属する。

 先ほどまで誰もいなかった地に、右腕を庇う格好で少女が転がっている。

 どうやらタイミング悪く、持ち上がった根に足を引っかけてしまったらしい。

「おやおや大丈夫かね、お嬢ちゃん」

 古木から干からびた腕状の枝が伸びたなら、痛みに呻いていたクセ毛の少女が、申し訳なさそうにこれを掴んだ。

「あ、ありがとうございま――ぅえ……?」

 礼の途中で先程と似た、先程よりも大きい乾いた音が鳴る。

「おっと。またか」

 呑気な諦め声は古木から。

 少女が掴んだ古木の手は、掛かる力のない内に、肘から先が折れてしまった。


* * *


 痛みにかまけていたせいで、反応まで間が開いた。

「ひっ!?」

 ざらざらした手触りにも驚いたが、支えきれず折れた木の手に混乱した泉は、ソレを思い切りあらぬ方向へと投げる。

 ぽちゃん……と遠くから響く水音。

 雨など滅多に降らない奇人街と教わったから、ある程度深いと分かるそれに目が丸くなる。音源を探しても、遠い街灯に囲われた広場と判明しただけで、水場のようなものは見当たらない。

「おぅ。お嬢ちゃん、酷くないかね?」

「あ……ご、ごめんなさい」

 途方に暮れた老人の声に、水音に気を取られていた顔を上げるが、そこにあるのは暗がりの木目肌。どこからどう見ても古木が一本立っているだけ。

 怪訝に首を傾げると、古木から枝のような腕が一本、にゅっと伸びてきた。

 声を忘れて目を見開く。

「ほほほほほ。久々の反応にわれはちょいと、ときめいたわ」

「えと……おじいさんは、木、ですか?」

 我ながら間の抜けた質問だが、目をこらせば分かった、人のような顔を持つ古木に、他の表現が思いつかなかった。

 これを「ほっほっ」と笑い、

「初対面で核心迫る疑問とはこれまたときめくが、まあその前に自己紹介してくれぬか? われはラオ・ヤンシーじゃ」

 皺、もとい、年輪を刻んだ、木目ながら柔和な老人の顔と温かな声。

 間違いなく奇人街の住人であるはずなのに、つい警戒を解いてしまう。

 流されるまま答えようとして、眼前に差し伸べられた黒いマニキュアの白い手に驚いた。

「ワーズ……さん?」

 見上げると、確かにシルクハットと笑んだ赤い口。

 ずっと、助けを求めて探していた姿がそこにある。

「泉嬢、立てる?」

 知らぬ内、慣れ親しんでしまった気だるげにも聞こえる、不安定な声音。半日も経っていないはずなのに、久しぶりに聞いたような気がして、勝手に涙腺が緩んだ。

 こくん、と頷く泉。

 しかし、差し伸べられた手に触れる寸前で、いや、ワーズの姿に完全に気を許したからこそ、蜜の正体に気づいたがための怒りが再燃してきた。

「……騙しましたね?」

「ん? 何のこと?」

 不思議そうに銃で頭を小突くワーズ。

 主語がない以前に、ワーズが何かを目論んであの蜜を使用した訳ではないと、普段の泉なら察せただろう――感情は別にしても。だがいかんせん、碌でもない目に合い続けてきたせいで、八つ当たりにも似た恨みが先にきてしまった。

 泉は白い手を除けると、呑気な胸倉を立ち上がった勢いのまま両手で掴み、

「あっくぅ……!」

 零れたのは、右腕の激痛から来る喘ぎ。

 結局座り込んでは、熱を持った腕を触れるか触れないかの距離を保って押さえる。

「泉嬢!? 怪我してたのかい?」

 直前までの調子がいつも通りだったせいだろう。今になって泉の腕の包帯に気づいたワーズが、正面でしゃがんだ。傷を心配する白い面に、似ても似つかないはずなのに、愛くるしい子どもの姿が重なる。

 すぐに蜜の衝撃は緩和され、含めて経過した時間をなぞり、泉の顔が色を失くしていく。シイの傷は泉より深かったと思い返しながら、鈍痛が響くのも構わず、黒い袖に右手で縋った。

 途端、ぽた……と涙が一つ零れた。

「っシイちゃんが! 助けないと……!」

 後から後から、堰を切って溢れる涙に顔を上げると、ワーズの不快な表情が歪んで映る。

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