第3話 知らない街・後編

 一瞬だけ、身体が浮いた気がした――


 どさりと地に落とされ、開放された首を押さえて咳き込むこと数回。

 間に生温い風を嗅いでも、絞められた反動は咳のみを泉に強要する。

「ま、マオ――!」

 そんな耳を、悲鳴に似た短い叫びが突いた。咳はまだ落ち着かないが、異常を確認するため浮かんだ涙を拭う。

 同時に、隣にぼとりと何かが落ちた。

 地面を映すばかりの目が、自然とソレへ吸い寄せられる。

 ――鋭い爪が伸びる、毛むくじゃらの腕。

 先ほどまで泉を拘束していたと思しきソレの、身体を持たない姿に目を見張れば、青白く照らされた地面の視界外から黒い染みが滲んでくる。

 何と理解するよりも先に、伏せていた身体を振り返らせた。


 瞬間、泉の目に飛び込んできたのは、獣の影が逃げ惑う人影に襲いかかる場面。


 太い前肢を振りかざした巨体が、近くの人影に重なり、過ぎれば噴出する何か。

 ソレが倒れる合間にも、散り散りに逃げていた人影が次々襲われていく。

 一つを狩り、沈める勢いを殺さず、けれど音の一切も殺して、流れのまま淘汰する様。その、しなやかで俊敏な動き。

 眼前、街灯の明かりを背景に、滑稽な影芝居が繰り広げられている。

 少し前までそこにいたのは泉で、弄ばれようとしていたのも自分。

 それが巨大な影に成り代わった今、相対する構図は変わらないというのに、役割がまるきり変わってしまっている。

 目の前で展開されようとも、呑み込めない光景に混乱する。

 と、その頬を涼しい夜風が撫でた。

 以前は雑踏の熱気を払い、心地よさだけを届けてくれた風。

 だが今は、むせ返る鉄錆の臭いを多分に含む。

 ひと嗅ぎでも堪えられない臭気に、顔をしかめた泉は両手で鼻と口を覆った。

(なに、このニオイ……?)

 咳き込む最中に嗅いだ、生温い風と同じニオイ。

 生存本能を揺るがすようなそれに、惚けていた現実が徐々に戻ってくる。

 同時に、男たちに囲まれた恐怖が思い出されるが、繰り広げられる影の舞に、立ち上がることもできない泉は後ずさるのみ。背中が壁に着いても、しばらくは足が無意味に地面を掻く。

「な、なんでマオがこんな!」

 人影が残り二つになったところで、どちらかが慄いた。

「まお……?」

 知らず、小さく呟いた。

 すると、戯れるように人影へ襲い掛かっていた巨大な影が、こちらを向く。

 人影より更に濃い影の中、金色の双眸とまともに目が合う。

 それだけで息が詰まった。

 何の感情も見出せない獣の瞳に、喉がひくつく。

 しかし、強烈な邂逅も一瞬のこと。

 四つ足の獣は動かないモノには興味がないのか、顔を背けると、この隙に逃げようとした残りを追う。軽やかな足運びで近くの背を一掻き。影絵の中、泉の目でも追える攻撃は速度に比例せず、掻いた人影を留まらぬ速さで壁に叩きつけた。

 表現が難しい複雑な音が響く。生きていれば奇跡だろう。

「ひぃっ――た、助けてくれぇえええ!」

 音のみで現状を把握した、先行する人影が悲鳴を上げた。

 泉に向けた下卑た声と同じ口から発せられるには、あまりにも情けないその声音に、泉の強張りがすとんと抜けてしまった。

 その間にも獲物との距離を悠々と詰めた獣は、まだ狩りの終わりを望まず、人影を追い越す。てっきり後ろから襲われると思っていた人影が、呆けたように走りを歩みへ変えた、矢先。

 人影の前に現れたと同時に、獣はその巨体を人影にぶつけた。

 ――否、側面を通り抜け、垂れていた腕を引き千切る。

「――――っっ!!」

 声にならない叫びが上がった。

 ぐらり傾く人影に獣はひざまづくことすら許さず、影絵の最後の惨劇は泉の前で、飛沫と悲鳴を幾度となく上げ――唐突に終わりを迎えた。


*  *  *


ぺろぺろ……

 獣の影が己の前足を舐める様を呆然と見つめる。

 手にぬるりと絡みつくものを感じて、自身がいる地へ視線を落とせば、街灯をてらてら反射する鈍い赤。足や手、制服や乱れた髪にも乾いた、似た朱。

 地を擦る小さな音が鼓膜を揺らしたなら、そろそろと巨大な影へ目を戻す。

 ゆっくり、弄るように近寄る姿。

 明かりを受けてもなお影を纏う、虎に似た獣。

 次は、自分の番……

 逃げようとは思わなかった。思えなかった。

 繰り広げられた圧倒的な暴力。

 結果、平坦な地面を散り散りに盛り上げる、夜風に遊ばれるだけの塊が獣の背後に転がっている。その塊にさえ無力だった小娘では、力も走りも、到底敵わない。

 それでも目だけは閉じないでいようと、今度は自分の意思で近づく獣を射る。

 涙は浮かびもしない。

 瞳が乾くのを感じた。

 涼しい風が痛い。

 声も上げない泉に興味を失くすことなく獣はゆっくり、ゆっくり近づき……


 ぴたり、寸前で止まった。 


 手を伸ばせば触れられそうな距離で、獣は泉に向かい合ったまま座ってしまった。

 猛獣の一掻きで死ぬのだ、と変に殊勝な心がけでいた分、呆気にとられる。

 と、その気配を察したように、座った姿勢のまま、獣が前足を持ち上げた。

 今度こそ殺される――そう思っても泉は獣から目を逸らさず、最後の時を待つ。

 だからこそ振り下ろされた前足が、ぽんっと柔らかく頭に乗せられたことに、反応が遅れてしまった。

「…………へ?」

 再度ぽんっと頭に、肉球の感触。

ぽんっ、ぽんっ、ぽんっ……

 安心しろとでもいうような、柔らかく温かい感触。

 何故そう思うのか判らないが、次第にじわりと視界が歪み始めた。ぼたぼたと滴が幾つも頬を伝う。渇き切った目に、それはとても優しく染みた。

「泉嬢っ! 大丈夫かい?」

 いきなり名を呼ばれて獣越しに見れば、駆け寄る黒一色にシルクハット、手には銃の奇怪な男の姿。転がるモノには目も向けず、相変わらずふらふらした足取りで、しかし真っ直ぐこちらへ走ってくる。

「……あなたは……ワーズ、さん……?」

 そういえば、自分はこの男から逃げていたのだ。

 逃げて逃げて逃げて逃げて――だが捕まったのはこの男ではなく、この男が忠告していた連中で。それを蹴散らした目の前の獣はあまりに優しくて……

 急に戻ってきた感覚に、ぐらりと身体が倒れかける。

「おっと」

 それを支えたのは黒い腕。命のやり取りに疲れ果て、目にした惨状も意識の外に、半ば投げやりな気持ちで頭をその胸に擦りつける。

 先に何があろうと知るものか。

「お、お腹空いた……」

くきゅるるるるるる…………

 いの一番にそんな主張が発せられれば、やっと思い出したかと腹の音が呼応した。


*  *  *


 支えられながら、どこをどう通ったのか、逃げていた時よりも随分早く芥屋シファンクについた。

 この間、ワーズから様々な情報を得た。

 奇人街は昼と夜でかなり顔が違うこと。

 奇人街を移動するにはコツがいること。

 芥屋は確かに食材店だが人間は取り扱ってないこと、等々。

 空腹に虚ろな頭では、多くは理解できなかったものの、

「……私は、食材ですか?」

 と尋ねた時の、心底嫌そうに否定するワーズの顔は面白かった。 


 「二階にバスルームがあるよ?」と言われたが、空腹感が勝った。

 食卓や椅子が汚れるのも構わず、血塗れ泥濡れのままで、ソファと向かい合う席に座って突っ伏す。

 台所ではふらふら調理する黒い背中。

 腹の音はほとんど虫の息で、胃が縮むような痛みが襲ってくる。

(お腹が空いてるのに吐き気がするなんて)

 漂う台所からの良い匂いに、涎ではなく不快な気分が込み上げる不思議。

「御免くださいよっと……おおっ!?」

 わざとらしいその声に、億劫ながらも店側へ顔を向けると、どこかで見たようなオールバックの中年が、曇りガラスの間でにやついている。

「どうやら掴まってしまったようだね、お嬢さん。なんて不運! おじさん、変わりに泣いちゃう!」

 クネクネ動く中年男に、(ああ、剥製……)と思い出した。浮かべたキーワードは物騒だが、動く気も起きず、胡乱気な視線を投げる。

パンッ

 直後に、クラッカーに似た軽い音が大きく鳴ったが、反応して身体が震えることもなかった。そんな泉の無関心を補うように、芝居がかった動作で「うひゃあ!?」と慄いた中年の足元には、小さな穴がぽっかり開いていた。

 それが何か、考えることすら面倒と投げ出していれば、台所にいた黒い姿が視界に入る。その手に持つ銃口からは、煙が薄く上がっていた。

(あの銃、使えたんだ)

 それ以上の感想はなかった。それよりご飯、である。

「て、店主! 君ねぇ、会う度会う度、銃を向けるのをやめなさい! 本当に当たって死んじゃったらどうするの!?」

「結構じゃないか。当てるつもりで撃ってるのに、当たらない不幸を嘆くね。で、なんの用だ、キフ・ナーレン?」

「全く、君の射撃の腕には救われるよ……ほら、これが必要じゃないかと、ね」

 意味ありげに「ふふふふふ」と翳した手が持つのは白い紙切れ。

 引っ手繰ろうとするワーズの手を鮮やかに逃れた紙切れの持ち主は、これをひらひら振りながら、

「おっとその前に土下座して謝って貰おうか?“キフ様申し訳ありませんでした、どうかこの愚かな私めに、貴方様の素晴らしいお力をお貸し願え――”」


パンッ


 発砲されたのは、キフの眉間、至近距離。

 青い顔をしながら素早くこれを避けた頭に、今度は逃さないとばかりに銃口がめり込んだ。

「さくっと終わらせたいな、ボク。泉嬢の料理を作ってる最中なんだ」

「はっはっはっ……冗談に決まってるじゃないか」

 怯えを浮かべながら紙片を渡したキフは、途端火を吹いた銃からあっさり逃げてみせた。

 完全に姿が消失した中年男に大きく舌打ちしたワーズは、紙片をポケットに入れると、泉の視線に気づいて苦笑混じりに言う。

「全く腹立たしいことこの上ない変態だよ。もう少しで出来上がるから、待っててね」 


*  *  *


 一口掬い、飲み込む。

 空腹に伴う吐き気に、食べて大丈夫かと心配したのが嘘のように、あとは考えもせず、出されたスープを掻き込んだ。人参やタマネギ……に似た、多種に渡る野菜の他、すり身も入った具だくさんな薄味のスープは、普段なら食べきれないほどの量。

 けれど、げに恐ろしきは取り戻した食欲かな、物の数分で平らげてしまう。

 スプーンを置いて、無作法にも深皿に口をつけ、残るスープの全てを飲み干す。

「っぷは! ……た、助かった……」

 味の感想より先に、率直な思いが口をついた。

「おぉー。お見事お見事。初めて見たよ、そこまでがっついて食べる人」

 感動した口振りで空になった皿を下げるワーズ。

 皮肉とも取れる言葉に、しかし、泉はただ礼を述べた。

「ありがとうございます。美味しかったです」

「それは何より。でも、少しは残るかと期待してたんだけどなぁ」

 台所へ向かいつつぼそり呟いた背中に、泉は眉根を寄せる。

(食べ残しを食べるつもりだったのかしら? 作って貰ってなんだけど……変な人)

 徐々に正常に巡り出した頭で、改めてワーズをおかしな者だと認識する。食器を洗うために、右手の銃を躊躇なく水に浸からせる辺り、やはり常識の通用しない相手だ。それとも防水加工でも施している、とか。

 魔法――という単語が出てきた辺りで思考を笑う。

 信じられない、信じたくない状況だが、やはりここは泉の居た場所とは違うのだ。住人の奇異さもさることながら、戯れのように殺戮を愉しむあの猛獣の存在は、殊更に泉の常識から外れていた。

(……そういえば)

「あの、さっきの虎は……?」

 突然現れ、突然凶行に及んだくせに、泉やワーズには何もして来なかった獣。空腹が満たされれば、いつの間にかいなくなっていた存在が気になって仕方なかった。

「トラ?……ああ、マオのことかな」

「まお……?」

「なー」

 泉の呟きに、食卓に一匹のネコが上る。影色の靄を纏うネコの瞳は、あの獣に似た金色だ。

「え……あの?」

 あまりに似過ぎた双眸が、困惑する泉と同調して斜めに傾ぐ。

「察しの通り、ソイツが泉嬢が言うところのトラだよ。名をマオという。芥屋の猫さ」

「シファンクの、マオ……」

 「撫でて」というように、そろそろ近づく背を恐る恐る触る。

 ふわり、影色の靄が舞った。

「毛が、抜けちゃった……?」

「ただの靄だよ。猫は身体が不安定でね。だからこそ馬鹿でかい生き物にもなれるんだけど」

 言葉の半分も理解できない。

 それでも温かい手触りに、確かにあの虎はこの小さな獣なのだと理解する。不思議としっくりきている自身の理解度には首を傾げつつ、どういう経緯かは知らないが、助けてもらった事実だけを頼りに礼を口にした。

「さっきは……ありがとね」

「うーな」

 返事を求めていなかった泉だが、猫は気にするなとぺろり、彼女の指先を舐めた。人の言葉が分かる、そんな素振りに驚いた。

「ところでさ、泉嬢? お腹も落ち着いただろうから、汚れ、落とした方が良いんじゃない? 一応着替えられそうなの見繕って、ソファに置いたから」

 後片付けに勤しむワーズから自分の身体に視線を移す。

 はっきりした頭で見ると、思った以上の惨劇の後だ。

 惨めな気持ちにもなった茶の染みなど、可愛いものである。

 青褪めながら「お言葉に甘えて」と黒い背に声を掛け、ソファ上の黒い服を取る。拍子にぽろっと何かが落ち、拾おうとした手が止まった。

「あの…………ワーズさん? これってワーズさんの、なんですか?」

「ああ御免ね。急いでたから、良いの見つからなかったんだ。明日までには何とかするから」

「はあ、ありがとう……ございま……す」

 答えになっていない返しに礼を述べつつも、増して混乱する頭で拾い上げたのは、ショッキングピンクの水着。それも女性用。

(この人……女装趣味? いや……濃過ぎる。もしかして、背丈は男の人でも……女の……人? にしては声が低すぎるような?)

 本人を前にして「女装お好きですか?」や「女性だったんですか?」と尋ねるのも失礼な気がする。

 ここは静かに、あまり深く考えないで、厚意に甘えておこう。

「あ、バスルームは階段上ってすぐ左だから」

 付け加えられた呑気な言葉に泉はどもりながら返事をし、逃げるように足早に二階へ上って行った。


*  *  *


 結局、深く考え込んでしまい、温かなお湯にしっかり一時間は浸かってしまった泉。茹で蛸よろしく真っ赤な顔に加え、筋肉痛で重い足を引きずり、ふらふら階段を降りた。

 借りた服は男物で少し大きめ。下着代わりの水着は若干……緩い。特に上が。借り物なのだから仕方ない。とはいえ、妙に負けた気分を味わう。

 色んな要素の具合悪さによろめく視界が、ソファを捉える直前、ある異変に気づいた。けれど、気分の悪さから座ることを優先する。

 ワーズと猫は食卓と床で食事を摂っていた。並ぶのは先ほどのスープとは程遠い、例えるなら残飯のような……。

 人の食事内容を勝手に酷評した挙句、更に悪化する気分。

 ソファにぐてっと身体を預けた泉は、自分の意識を逸らすように、先程気づいた異変を尋ねた。

「ワーズさん……あの、う……えきばち、どうしたんですか?」

 さすがに腕と言うのは抵抗があった。

 だがワーズは、そんな泉の気持ちなど知らず、あっさり口にする。

「腕のことかい? あれならもうないよ?」

「そう、ですか……」

 眩暈に目を瞑るが、どうも何かが引っかかる。

 止せばいいのに、ふと浮かんだ疑問が、考えなしの口を開かせた。

「ワーズさん、さっきのすり身、とても美味しかったです……」

「それは良かった」

「一体、何のすり身だったんですか?」

 なぜ、そんな話の流れを作ってしまったのか。無意識に地雷を踏んだのをぼんやり自覚するが、熱にかまける頭では無理からぬこと。

 碌に回らない頭を抱え、潤んだ瞳で答えを待つ泉に対し、残飯染みた食事の手を止めたワーズが、ぱっくり赤く笑った。

「もちろん――」 


 ――あの腕さ。

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