第6話 知らない獣

 一瞬だけ、身体が浮いた気がした――


 どさりと地に落とされ、開放された首を押さえて咳き込むこと数回。

 間に生温い風を嗅いでも、絞められた反動は咳のみを泉に強要する。

「ま、マオ――!」

 そんな耳を、悲鳴に似た短い叫びが突いた。咳はまだ落ち着かないが、異常を確認するため浮かんだ涙を拭う。

 同時に、隣にぼとりと何かが落ちた。

 地面を映すばかりの目が、自然とソレへ吸い寄せられる。

 ――鋭い爪が伸びる、毛むくじゃらの腕。

 先ほどまで泉を拘束していたと思しきソレの、身体を持たない姿に目を見張れば、青白く照らされた地面の視界外から黒い染みが滲んでくる。

 何と理解するよりも先に、伏せていた身体を振り返らせた。


 瞬間、泉の目に飛び込んできたのは、獣の影が逃げ惑う人影に襲いかかる場面。


 太い前肢を振りかざした巨体が、近くの人影に重なり、過ぎれば噴出する何か。

 ソレが倒れる合間にも、散り散りに逃げていた人影が次々襲われていく。

 一つを狩り、沈める勢いを殺さず、けれど音の一切も殺して、流れのまま淘汰する様。その、しなやかで俊敏な動き。

 眼前、街灯の明かりを背景に、滑稽な影芝居が繰り広げられている。

 少し前までそこにいたのは泉で、弄ばれようとしていたのも自分。

 それが巨大な影に成り代わった今、相対する構図は変わらないというのに、役割がまるきり変わってしまっている。

 目の前で展開されようとも、呑み込めない光景に混乱する。

 と、その頬を涼しい夜風が撫でた。

 以前は雑踏の熱気を払い、心地よさだけを届けてくれた風。

 だが今は、むせ返る鉄錆の臭いを多分に含む。

 ひと嗅ぎでも堪えられない臭気に、顔をしかめた泉は両手で鼻と口を覆った。

(なに、このニオイ……?)

 咳き込む最中に嗅いだ、生温い風と同じニオイ。

 生存本能を揺るがすようなそれに、惚けていた現実が徐々に戻ってくる。

 同時に、男たちに囲まれた恐怖が思い出されるが、繰り広げられる影の舞に、立ち上がることもできない泉は後ずさるのみ。背中が壁に着いても、しばらくは足が無意味に地面を掻く。

「な、なんでマオがこんな!」

 人影が残り二つになったところで、どちらかが慄いた。

「まお……?」

 知らず、小さく呟いた。

 すると、戯れるように人影へ襲い掛かっていた巨大な影が、こちらを向く。

 人影より更に濃い影の中、金色の双眸とまともに目が合う。

 それだけで息が詰まった。

 何の感情も見出せない獣の瞳に、喉がひくつく。

 しかし、強烈な邂逅も一瞬のこと。

 四つ足の獣は動かないモノには興味がないのか、顔を背けると、この隙に逃げようとした残りを追う。軽やかな足運びで近くの背を一掻き。影絵の中、泉の目でも追える攻撃は速度に比例せず、掻いた人影を留まらぬ速さで壁に叩きつけた。

 表現が難しい複雑な音が響く。生きていれば奇跡だろう。

「ひぃっ――た、助けてくれぇえええ!」

 音のみで現状を把握した、先行する人影が悲鳴を上げた。

 泉に向けた下卑た声と同じ口から発せられるには、あまりにも情けないその声音に、泉の強張りがすとんと抜けてしまった。

 その間にも獲物との距離を悠々と詰めた獣は、まだ狩りの終わりを望まず、人影を追い越す。てっきり後ろから襲われると思っていた人影が、呆けたように走りを歩みへ変えた、矢先。

 人影の前に現れたと同時に、獣はその巨体を人影にぶつけた。

 ――否、側面を通り抜け、垂れていた腕を引き千切る。

「――――っっ!!」

 声にならない叫びが上がった。

 ぐらり傾く人影に獣はひざまづくことすら許さず、影絵の最後の惨劇は泉の前で、飛沫と悲鳴を幾度となく上げ――唐突に終わりを迎えた。


*  *  *


ぺろぺろ……

 獣の影が己の前足を舐める様を呆然と見つめる。

 手にぬるりと絡みつくものを感じて、自身がいる地へ視線を落とせば、街灯をてらてら反射する鈍い赤。足や手、制服や乱れた髪にも乾いた、似た朱。

 地を擦る小さな音が鼓膜を揺らしたなら、そろそろと巨大な影へ目を戻す。

 ゆっくり、弄るように近寄る姿。

 明かりを受けてもなお影を纏う、虎に似た獣。

 次は、自分の番……

 逃げようとは思わなかった。思えなかった。

 繰り広げられた圧倒的な暴力。

 結果、平坦な地面を散り散りに盛り上げる、夜風に遊ばれるだけの塊が獣の背後に転がっている。その塊にさえ無力だった小娘では、力も走りも、到底敵わない。

 それでも目だけは閉じないでいようと、今度は自分の意思で近づく獣を射る。

 涙は浮かびもしない。

 瞳が乾くのを感じた。

 涼しい風が痛い。

 声も上げない泉に興味を失くすことなく獣はゆっくり、ゆっくり近づき……


 ぴたり、寸前で止まった。 


 手を伸ばせば触れられそうな距離で、獣は泉に向かい合ったまま座ってしまった。

 猛獣の一掻きで死ぬのだ、と変に殊勝な心がけでいた分、呆気にとられる。

 と、その気配を察したように、座った姿勢のまま、獣が前足を持ち上げた。

 今度こそ殺される――そう思っても泉は獣から目を逸らさず、最後の時を待つ。

 だからこそ振り下ろされた前足が、ぽんっと柔らかく頭に乗せられたことに、反応が遅れてしまった。

「…………へ?」

 再度ぽんっと頭に、肉球の感触。

ぽんっ、ぽんっ、ぽんっ……

 安心しろとでもいうような、柔らかく温かい感触。

 何故そう思うのか判らないが、次第にじわりと視界が歪み始めた。ぼたぼたと滴が幾つも頬を伝う。渇き切った目に、それはとても優しく染みた。

「泉嬢っ! 大丈夫かい?」

 いきなり名を呼ばれて獣越しに見れば、駆け寄る黒一色にシルクハット、手には銃の奇怪な男の姿。転がるモノには目も向けず、相変わらずふらふらした足取りで、しかし真っ直ぐこちらへ走ってくる。

「……あなたは……ワーズ、さん……?」

 そういえば、自分はこの男から逃げていたのだ。

 逃げて逃げて逃げて逃げて――だが捕まったのはこの男ではなく、この男が忠告していた連中で。それを蹴散らした目の前の獣はあまりに優しくて……

 急に戻ってきた感覚に、ぐらりと身体が倒れかける。

「おっと」

 それを支えたのは黒い腕。命のやり取りに疲れ果て、目にした惨状も意識の外に、半ば投げやりな気持ちで頭をその胸に擦りつける。

 先に何があろうと知るものか。

「お、お腹空いた……」

くきゅるるるるるる…………

 いの一番にそんな主張が発せられれば、やっと思い出したかと腹の音が呼応した。

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