第18話 冴えた熱
急く気持ちはあっても、泉の中には異様に冷めた部分があり、これによって未だ徘徊する幽鬼を避けることができた。不思議な現象だが、答えの出ない考えに沈むくらいなら、速度を落さず走り続けた方が良い。
ワーズがもたらした靴は、驚くほど足運びをスムーズにしており、靴下のみの時、どれほど無理していたのかを知った。足裏はひりひり痛むものの、しっかりした靴底に支えられ、ぐらつく心配がない。
軽く振るだけでも、波のように押し寄せる右腕の鈍痛は、けれど、自分で行ったぞんざいな処置の時より遥かにマシだ。熱っぽい、そう評された体温は更に上がっているようで、歪む視界と夜気の纏わりつく寒さが鬱陶しい。
「……コート、掛けたままの方が良かったかしら?」
すぐに首を振っては、甘えを否定する。
充分だ。
靴と、治療と、ワーズの存在だけで。
理由はどうあれ、自分を心配してくれる相手がいるのは、心強い。
何も望まれていなくても――泉自身を必要とされていなくても。
己が身を案じ、認めてくれるなら、これ以上の幸せはない。
それは、矛盾が多分に含まれる話ではあるが。
高望みをしてはいけないと、幼き頃に教えられ、実感して学んできた。
なのに、先ほどは望み過ぎてしまった。
押しつけと言われて、気づかされてしまった。
自分は、他人の手を頼るほど弱くなってしまったのだと。
利用するだけに留まらず、期待し、絶たれては傷つく程に、依存していたと。
世の仕組みは複雑で、本当に一人で生きるというなら、今着ている物も全て放り、無人島にでも住み着くべきだろうが、そんな生き方はできない。だから、必要なら人の手も借りるべきで、けれど、先ほどの頼り方は違う。容易く安寧を手に入れるような無様な真似をして、縋りついて払われてはワーズを責めて。こんなことではあの目標――自分を知らない地で居場所を獲得する、泉にとっての切実な願いは達成できない。
「……あーでも、ここも私を知らない地になるのかしら? 私の方も知らないけど」
でも、居場所は用意されていた。
獲得の手間もなく。
「そっか……だからか」
呟いて、いっそう足に力を込めて地を蹴った。
居場所があったから、期待が生まれ、頼ってしまったのだ、きっと。
結論付け、知らず笑みが零れた。
どうせ一ヶ月で去る地だというのに、命の危機に幾度となく晒されているというのに、どっぷり浸かってしまったらしい。嫌悪する食材が並ぶ芥屋の従業員、否、ワーズの庇護下の人間という居場所に。
危険だ。非常に危険だ。
こんな得体の知れない街、順応だけは絶対しないと誓っていた。
ある程度の妥協は必要だと、ここでの知識を嫌々ながら教わっていた。
だけど、なんてことはない。
手遅れだったのだ。
泉はもう、居場所を定めてしまっていた。
いつから?
きっとワーズに迎え入れられてから――最初から。
でなければ、わざわざ何かを誓う必要も、嫌だというのに教わる必要もないだろう。全て拒絶し、人間の為す事を許容するワーズの下で、時が来るのをただ待つだけで良かったのだから。
それを是とせず、あっさり頼ってしまうようになった自分。
では一ヶ月経ち、帰る場面で居場所を失うことを恐れて縋るのか。
「絶対、嫌」
そこまでなし崩しで在りたくはない。
例え、元いた場所に、泉の居場所などないと知っていても――。
新たな決意を込め、更に力を込め、地を蹴った矢先。
「ぐへぇっ!?」
突如現れた壁に突っ込んだ泉は、頭上から降ってきた苦悶にぎょっとする。
* * *
弾かれたように飛び出した少女の身体は、熱があるとは思えぬほど軽やか。
投げつけられたコートに視界を奪われた男が動けぬ内に、コートごと胴を枝で巻き、よろけた足を軽く払う。面白いくらい簡単に転がった黒一色は、途端に吠えてきた。
「どういうつもりだ、このっっ耄碌ジジイ!」
怒鳴りながらラオの枝を易々引き千切り、コートを乱暴に剥がしたワーズへ、迎えた木目の翁はしてやったりと笑う。
「耄碌とは酷いのぉ。否定はせんが」
軽口への憤りもそこそこに、ワーズが泉の去った方角を見るが、それらしき姿はどこにもない。そのまま探しに行こうとする足首に、地面から持ち上げた根を絡ませる。
「このっ!? 寝たかようやくくたばったかと思いきや! 余計なことを!」
枝よりも丈夫な根を荒々しく蹴るワーズに、ラオは呆れ声を掛けた。
「くたばったとは無茶なことを。それが出来んことは、お主が誰より知っておろうに」
「お前のことなんか知るか! 気色悪い!」
言葉の終わりと共に、大きな音を立てて根が裂けた。
これにより再び走り出そうとする身体を、「まあ待て」と枝で引き留める。
「われはただ、お主の手当てが終わるのを待っとっただけじゃ。あんな雑な処置と足で、走らせるなぞ出来んじゃろう?」
だから何だと苛立つ舌打ちへ、やや演技がかった溜め息を付け加えた。
「余計というがな、ワーズ。われはこんなナリでも立派な男子じゃ。女人を泣かせたままにしておくなど、幽鬼に勝る非道は出来んよ」
おお可哀想に、とまで言ってやればワーズの頬がヒクついた。
(ほお? こやつにも少しは後悔ってもんがあったのか)
新しい発見にラオがときめいていると、またしても力任せに枝が折られる。
だが、今度はすぐに走る真似をせず、黒いコートを羽織り直すワーズ。
「おや、どうした? 追うのは止めたか?」
急に大人しくなった態度にラオが尋ねれば、背を向けたままのワーズが鼻を鳴らした。
「うるさい。どの道、あんな身体で無理させるわけにはいかないだろうが、クソジジイ」
(ふむ? 追うのは変わらんが、何ぞ考えを改めたか)
土埃を払い、わざわざ体裁を整える姿をラオは興味深く見つめた。
(にしても、さっきまでは死んでたらどうでも良いとぬかしておったくせに、生きてると分かった途端にこれか。まあ、殊勝な心がけではあるが……)
腐れ縁により昔から知る男の、昔にはなかった姿に、ちょっとした悪戯心が湧いた。
こちらの存在を完全に無視し、去ろうとするフラフラした背中へ声を掛ける。
「ところでな、ワーズ。史歩の嬢ちゃんじゃが、今絶賛大ピンチ中じゃぞ? 泉ちゃんよりそっち行ったらどうだ?」
実は史歩のいる場所は猫より先に分かっていた。ラオの探査能力は自身を中心に広げていくため、史歩の方がここから近い位置にいることになる。それでも猫の場所だけを泉に伝えたのは、つまりは他を構える余裕が史歩にはないと判断したため……なのだが。
「気安く泉ちゃんと呼ぶな! 史歩嬢がピンチだ? 下手な嘘も大概にしろよ」
唸りながら、泉が去ったのとは別の方向へ行き、そこにある建物の扉を開ける。広大な奇人街を渡るための”道”を用いて、先回りをするつもりなのだろう。
取り残され、動ける身ではないラオは一人呟く。
「実際ピンチっぽい感じなんじゃが。史歩の嬢ちゃんの強さと、われへの不信感ゆえの選択とはいえ……優先順位ついてる時点で立派に執着だろうが、愚か者め」
楽しそうな笑い声が、幽鬼が蠢く奇人街に響いた。
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