第4話 知らない街

 走って、走って、走って、走って――――

 一体どこまで走れば逃げられるのだろう。

 この、奇怪な街から……


「っふ、はあ、はあ、はあ……」

 しかめた顔の先に建物の陰を見つけ、逃げ込むように入ったなら、壁を背にして荒い呼吸を繰り返す。陸上部どころか体育系全般とほとんど縁がなかった。

 数回咳き込み、深呼吸。

 冷や汗混じりの顎に伝う滴を拭い、酸素不足で鳴り響く頭痛と腹の痛みに少しだけ目を閉じる。それが少しでも落着いてきたなら荒い息のまま辺りを見渡した。

 限界を越えたに等しい距離を走ったおかげか、あの不気味な店は異様に黄色い光の中で霞むほど遠い。店主を名乗る男が追って来ている様子のないことに、少しだけ安堵する。

 だが、状況は依然として芳しくない。

 見知らぬモノは、あの店だけではなかった。

 この場所全体が、泉の知る場所とはかけ離れている。

 最初に気づいたのは、大気の色。

 空は雲一つない晴天なのだが、目の前の光景には全て、黄色の薄い靄が掛かっている。夕焼け間近にも似た空の色では、時間を計るのも難しい。

 陽が黄色いのか、この街の空気が悪いのか。

 恐らく後者だろう。一息吸う度、咽かえる不快感が喉を衝く。

 地面一つとってもアスファルトではなく、踏み固められた砂利混じりの土で形成されている。

 そして建物。

 アパートやマンションのようなモノはなく、全てが屋根付きの家は、どんな建て方をすればこうなるのか、家と家が折り重なっているようだ。色とりどりの瓦屋根と漆喰の壁で出来た古風な家の造りは、三階建てがほとんどのようだが、一番下から上を測れば高さは六階以上あるかもしれない。加えて各階には、ところどころ橋のようなみちが広がっており、その形状は誰が通るのか不明な細いものから、下の迷惑も顧みない巨大なものまで様々だ。路も真っ直ぐのようでいて曲線だったり、降りているつもりで上がっていたり、方向感覚が狂わされてしまう。

(出口なんてあるのかしら?)

 もう少し情報を引き出してから逃げれば良かったかもしれない。後悔しつつも、あれ以上あの店に居れば、命の保障はなかったのだと納得させる。

 それに、と通りに目をやる。

 鈍い陽を受けた通りに映るのはまばらな人影で、拍子抜けするほど平和ボケした空気が流れている。警戒するような凶悪さとは無縁だった。

 一歩外に出れば――あの男はそんな風に言っていたが、デタラメだったのだろう。自分を食材に使うための、店から出さないための方便。

 泉はそう解釈し、比較的落着いた呼吸に物陰から再び通りへ出た。

 外に出てからというもの、ちらちら向けられる視線はあるが、どちらかと言えば物珍しさから見られているように感じる。人間は珍しい、これは本当だったようだ。通り過ぎる者のほとんどが作り物と評するのが馬鹿らしいほど、本物染みた人間外の姿をしている。

 異世界に召喚される物語はそれなりに知っているが、所詮はフィクション――だったはずなのに。しかも現状は、それらの物語の冒険とは程遠い。

 理解も理由もとりあえず諦め、路が続く限り、真っ直ぐ歩く。曲線を知らず描く路は極力避けて、街の出口を目指す。

 出られたとして自分の元居た住まいに帰れるかは、なるべく考えないようにしながら。


*  *  *


 しばらく歩いていると、濃紺の紳士服を着た中年男が、前方の道の真ん中で鳥頭に絡んでいるのが見えた。

 どこからどう見ても人間だが、オールバックの髪色は燃える赤でにやけた目は綺麗な青。指に付けた指輪は尋常ではない数だ。着こなしは様になっているものの、ケバケバしい装いは、あまりお近づきにはなりたくない人種である。

 かといって、あからさまに避けるようにして歩くのも、無用な因縁を呼びそうだ。仕方なしに目を合わせないように気をつけ、みちの端に寄りつつ通り抜けることにした。

「若いピチピチのお肌! う~んいいねぇ、おじさん羨ましい!」

「黙れ! 気色悪ぃんだよこのジジイ!」

(……遠回りした方が良かったかしら)

 つつつ……と鳥頭の腕に指を這わせる中年男に、自然と肌が粟立った。声音と人に似た身体から鳥頭は男なのかもしれないが、性別が何であれ、中年男の誘い方はいちいち気味が悪い。

 泉は急いで、しかしなるべく注意を引かないように通り過ぎようとして、

「さっさとくたばれ!」

「きゃっ」

 最悪のタイミングで、中年男を振り払った鳥頭に突き飛ばされた。巻き込んだ相手を一瞥もしない鳥頭はそのまま逃げ去り、地面に残された泉には大きな手のひらが差し出された。

「やれやれつれないなぁ……大丈夫かね、お嬢さん?」

 心配する声に、反射で「あ、はい大丈夫です」と掴まる泉。手のひらの主が避けるはずだった中年男だとに気づく前に、ぐっと一息に引っ張られ、身体が簡単に立ち上がった。遅れて気づく相手の正体もさることながら、中年男の思わぬ力に驚いていると、いきなり尻をぱぱっと払われる。

「ひゃあっ!?」

「おおっと失礼。土を払っただけなのだが。大丈夫。おじさん、女性に興味はないからね」

 ぐっと親指突きつけられ、誇るようにそう言われても「はあ」としか返す言葉がない。

 自分が男だったらどうなっていたんだろうか。

 考えて、止める。

 不毛だ。

「まあそれはともかく、お嬢さん?」

「はい?」

 触られた感覚を払うついでにスカートを払う泉は、改めて中年男に向き直る。そうして(そうだ、お礼を言わないと)と思った矢先。

「君、人間だね」

 にやりと向けられた会心の笑みと中年男の派手な装飾品に、あの男の言葉が蘇った。

 ――剥製なんかもありかな?

 大丈夫と言い聞かせていたものの、やはりどこかであの男の言を信じてしまう。

「あ、の、ありがとうございました!」

「え? いや、どうってことは――あれ、お嬢さん!?」

 慌てて礼を述べた泉は中年男の静止を振り切り、また走り出した。


 *  *  *


「えぇー……おじさん、女性には親切よぉ?」

 みちに一人残され、どこかしらショックを受けた節の中年男。周囲が遠巻きに見ているのも構わず立ち尽くすその頭へ、不意に硬い物が突きつけられた。

「おい変態。この辺を可愛らしい人間の娘が通らなかったか?」

「これはこれは芥屋シファンクの店主じゃありませんか」

 おどけた口振りで中年男が振り向いた先には、銃を構えたワーズがいる。

「ふむ。彼女は従業員だったのかな?」

「通ったってことか……どこに向かった?」

「ふふふ、さしずめ逃げられたのかね? 君の勧誘は少し強引だか――分かった分かった、あっちに走ってしまったよ」

 突きつけられた物の正体を視認しようと、それにより銃口が眉間を狙う位置に変わろうとも、変わらぬ調子で喋る中年男は、急かすように再度頭を小突かれ、泉の走った先を正直に指した。

 ちらりとその方向を横目で確認したワーズは、銃口を中年男に向けたまま、近くの建物の扉を無造作に開けた。

 短い邂逅を経て再び一人になった中年男だが、そこに先ほどまでの哀愁は感じ取れない。

「あの店主が直々に、ねぇ? いやはや、面白くなりそうで」

 茶化す口調に微かな笑みを浮かべ、中年男は頭を掻きながら一人ごつ。

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