第2話 知らない街・中編

 走って、走って、走って、走って――――

 一体どこまで走れば逃げられるのだろう。

 この、奇怪な街から……


「っふ、はあ、はあ、はあ……」

 しかめた顔の先に建物の陰を見つけ、逃げ込むように入ったなら、壁を背にして荒い呼吸を繰り返す。陸上部どころか体育系全般とほとんど縁がなかった。

 数回咳き込み、深呼吸。

 冷や汗混じりの顎に伝う滴を拭い、酸素不足で鳴り響く頭痛と腹の痛みに少しだけ目を閉じる。それが少しでも落着いてきたなら荒い息のまま辺りを見渡した。

 限界を越えたに等しい距離を走ったおかげか、あの不気味な店は異様に黄色い光の中で霞むほど遠い。店主を名乗る男が追って来ている様子のないことに、少しだけ安堵する。

 だが、状況は依然として芳しくない。

 見知らぬモノは、あの店だけではなかった。

 この場所全体が、泉の知る場所とはかけ離れている。

 最初に気づいたのは、大気の色。

 空は雲一つない晴天なのだが、目の前の光景には全て、黄色の薄い靄が掛かっている。夕焼け間近にも似た空の色では、時間を計るのも難しい。

 陽が黄色いのか、この街の空気が悪いのか。

 恐らく後者だろう。一息吸う度、咽かえる不快感が喉を衝く。

 地面一つとってもアスファルトではなく、踏み固められた砂利混じりの土で形成されている。

 そして建物。

 アパートやマンションのようなモノはなく、全てが屋根付きの家は、どんな建て方をすればこうなるのか、家と家が折り重なっているようだ。色とりどりの瓦屋根と漆喰の壁で出来た古風な家の造りは、三階建てがほとんどのようだが、一番下から上を測れば高さは六階以上あるかもしれない。加えて各階には、ところどころ橋のようなみちが広がっており、その形状は誰が通るのか不明な細いものから、下の迷惑も顧みない巨大なものまで様々だ。路も真っ直ぐのようでいて曲線だったり、降りているつもりで上がっていたり、方向感覚が狂わされてしまう。

(出口なんてあるのかしら?)

 もう少し情報を引き出してから逃げれば良かったかもしれない。後悔しつつも、あれ以上あの店に居れば、命の保障はなかったのだと納得させる。

 それに、と通りに目をやる。

 鈍い陽を受けた通りに映るのはまばらな人影で、拍子抜けするほど平和ボケした空気が流れている。警戒するような凶悪さとは無縁だった。

 一歩外に出れば――あの男はそんな風に言っていたが、デタラメだったのだろう。自分を食材に使うための、店から出さないための方便。

 泉はそう解釈し、比較的落着いた呼吸に物陰から再び通りへ出た。

 外に出てからというもの、ちらちら向けられる視線はあるが、どちらかと言えば物珍しさから見られているように感じる。人間は珍しい、これは本当だったようだ。通り過ぎる者のほとんどが作り物と評するのが馬鹿らしいほど、本物染みた人間外の姿をしている。

 異世界に召喚される物語はそれなりに知っているが、所詮はフィクション――だったはずなのに。しかも現状は、それらの物語の冒険とは程遠い。

 理解も理由もとりあえず諦め、路が続く限り、真っ直ぐ歩く。曲線を知らず描く路は極力避けて、街の出口を目指す。

 出られたとして自分の元居た住まいに帰れるかは、なるべく考えないようにしながら。


*  *  *


 しばらく歩いていると、濃紺の紳士服を着た中年男が、前方の道の真ん中で鳥頭に絡んでいるのが見えた。

 どこからどう見ても人間だが、オールバックの髪色は燃える赤でにやけた目は綺麗な青。指に付けた指輪は尋常ではない数だ。着こなしは様になっているものの、ケバケバしい装いは、あまりお近づきにはなりたくない人種である。

 かといって、あからさまに避けるようにして歩くのも、無用な因縁を呼びそうだ。仕方なしに目を合わせないように気をつけ、みちの端に寄りつつ通り抜けることにした。

「若いピチピチのお肌! う~んいいねぇ、おじさん羨ましい!」

「黙れ! 気色悪ぃんだよこのジジイ!」

(……遠回りした方が良かったかしら)

 つつつ……と鳥頭の腕に指を這わせる中年男に、自然と肌が粟立った。声音と人に似た身体から鳥頭は男なのかもしれないが、性別が何であれ、中年男の誘い方はいちいち気味が悪い。

 泉は急いで、しかしなるべく注意を引かないように通り過ぎようとして、

「さっさとくたばれ!」

「きゃっ」

 最悪のタイミングで、中年男を振り払った鳥頭に突き飛ばされた。巻き込んだ相手を一瞥もしない鳥頭はそのまま逃げ去り、地面に残された泉には大きな手のひらが差し出された。

「やれやれつれないなぁ……大丈夫かね、お嬢さん?」

 心配する声に、反射で「あ、はい大丈夫です」と掴まる泉。手のひらの主が避けるはずだった中年男だとに気づく前に、ぐっと一息に引っ張られ、身体が簡単に立ち上がった。遅れて気づく相手の正体もさることながら、中年男の思わぬ力に驚いていると、いきなり尻をぱぱっと払われる。

「ひゃあっ!?」

「おおっと失礼。土を払っただけなのだが。大丈夫。おじさん、女性に興味はないからね」

 ぐっと親指突きつけられ、誇るようにそう言われても「はあ」としか返す言葉がない。

 自分が男だったらどうなっていたんだろうか。

 考えて、止める。

 不毛だ。

「まあそれはともかく、お嬢さん?」

「はい?」

 触られた感覚を払うついでにスカートを払う泉は、改めて中年男に向き直る。そうして(そうだ、お礼を言わないと)と思った矢先。

「君、人間だね」

 にやりと向けられた会心の笑みと中年男の派手な装飾品に、あの男の言葉が蘇った。

 ――剥製なんかもありかな?

 大丈夫と言い聞かせていたものの、やはりどこかであの男の言を信じてしまう。

「あ、の、ありがとうございました!」

「え? いや、どうってことは――あれ、お嬢さん!?」

 慌てて礼を述べた泉は中年男の静止を振り切り、また走り出した。


 *  *  *


「えぇー……おじさん、女性には親切よぉ?」

 みちに一人残され、どこかしらショックを受けた節の中年男。周囲が遠巻きに見ているのも構わず立ち尽くすその頭へ、不意に硬い物が突きつけられた。

「おい変態。この辺を可愛らしい人間の娘が通らなかったか?」

「これはこれは芥屋シファンクの店主じゃありませんか」

 おどけた口振りで中年男が振り向いた先には、銃を構えたワーズがいる。

「ふむ。彼女は従業員だったのかな?」

「通ったってことか……どこに向かった?」

「ふふふ、さしずめ逃げられたのかね? 君の勧誘は少し強引だか――分かった分かった、あっちに走ってしまったよ」

 突きつけられた物の正体を視認しようと、それにより銃口が眉間を狙う位置に変わろうとも、変わらぬ調子で喋る中年男は、急かすように再度頭を小突かれ、泉の走った先を正直に指した。

 ちらりとその方向を横目で確認したワーズは、銃口を中年男に向けたまま、近くの建物の扉を無造作に開けた。

 短い邂逅を経て再び一人になった中年男だが、そこに先ほどまでの哀愁は感じ取れない。

「あの店主が直々に、ねぇ? いやはや、面白くなりそうで」

 茶化す口調に微かな笑みを浮かべ、中年男は頭を掻きながら一人ごつ。


*  *  *


 どこをどう走ったものか。

 パニック寸前の頭でも、直線を意識していたはずだが、気づけば暗がりの小路こみち

 広がる空は黄色から橙色に変わっていた。

(夕方、なの?)

 靄に霞む陽の位置が家々の陰に消えようとしている。明確な時間の目安を読み取ったせいか、長時間出口を探して歩きっぱなしだった足が殊更重く痛んでくる。

(ちょっと休憩しよう)

 そう決断するや路地裏の壁に寄りかかり、ずるずると地べたに座り込んだ。

くきゅるるるるるる……

 途端、腹の音が鳴り出した。

(そういえば、起きてから何も食べてないや)

 思い出した途端、胃の辺りが今まで忘れていたツケを払うよう、痛みを訴えてくる。

「いたたたた……お、お腹が……」

 これが家なら冷蔵庫を漁れば何か出てくるのだが、生憎外どころか見知らぬ場所。制服のポケットには小銭がいくらか入っているものの、この街で使えるかは不明だ。

(なんでこんな目に?)

 今更ながら現状に涙が浮かんでくる。

 目が覚めれば知らない部屋。出会った男は人間を食材と言う。彷徨う街は出口を一向に見せてくれない。――しかも制服には渋色のシミ。

 誰にどう恨まれればこんな目に合うのか。

 背中を壁に預けたまま身を縮め、溢れそうになる涙を腕で拭う。

 と、

「お姉ちゃん、大丈夫?」

 甲高い子どもの声がうなだれる頭に降ってきた。

 自分より幼い声の気遣う様子に、情けなさからなけなしの自尊心を守るように顔を上げた泉は、心配そうにこちらを見つめる、夜色の瞳とかち合った。

(わ……綺麗な子)

 煤けたオーバーオールも気にならないほど、ふわふわした光のような短い髪と愛らしい容姿。そこへ加わる、声の通りの気遣う表情は、疲れ切った心に温かな思いを抱かせた。

「あ――――」

 すっかり子どもに魅せられた泉が、何かしら声を上げようとした、その時。

くきゅるるるるるる……

 代わりとばかりに、腹の虫が返事をした。

 何というタイミング。

 子どもの姿に救いを見たはずの心は、瞬時に現実へと引き戻され、無意識に自分より幼い子どもへ頼り掛けた分、増して守るはずだった自尊心に傷がついた。

 たとえその子どもの耳が少し尖っていて、口元から覗く牙が鋭かったとしても、何の慰めにもならない。

 固まる泉をよそに、腹の音に少しだけ目を丸くした子どもは、次いでにっこり笑顔になると、安心させるように小さな胸を一つ叩いた。

「待っててください! シイが何か持ってきます!」

 唐突な宣言に反応する間もなく、素早い動きでいなくなった。

 と思えば、同じくらいの素早さで戻ってきた子ども。

 その手には、先ほどまでなかった、湯気立つ大きな白い饅頭があった。鼻をくすぐり腹を誘惑する香ばしい匂いは、肉か魚介の餡だろう。

 一瞬、あの食材店に陳列されていた、おどろおどろしい食材が浮かばないでもないが、今の泉の空腹に勝るものではなかった。見知らぬ子どもが持ってきたということすら警戒の外だ。

 「はい」と手渡されたそれに感動しながら、何度も「いいの?いいの?」と確認し、口にしようとして、

ぐーぎゅるぎゅるぎゅる……

 自分よりも数倍上の腹の音に驚いて子どもを見る。

 頬を赤らめ頭を掻きつつ照れる子どもに、泉は少し間を置いてから、饅頭を半分にして渡した。割ったことで更に芳しい香りが鼻腔を刺激するが、ここは我慢。

「半分こ、しましょう?」

「……お姉ちゃん……」

 買ってきたのは自分だろうに、泉の申し出に感動した様子で目をウルウルさせた子どもは、しかし申し訳なさそうに言う。

「ありがとうです。でもごめんなさいなのです。シイはこれではお腹が膨れないのです」

 しゅんと半分の饅頭を手に子どもがうなだれる。自分よりも大きな腹の音を思い、(半分じゃやっぱり足りないのかしら)と泉が悩むと、「でも」と続けた。

「お姉ちゃんの血を少し分けてくれると、シイのお腹はいっぱいになれるのです」

(…………………………)

 潤んだ瞳でこちらを見る子どもに、泉はショックで声も出ない。

 半分でもかなりの重量を感じる饅頭。これより少しの血が欲しいという子ども。

(……少しって、どういう意味でしたっけ?)

 いくら明るい方向で考えようと、半分以上自分の血が抜かれる様を想像し、手にしたもう半分の饅頭をポンッと無言で子どもに渡した。

「……じゃっ!」

くきゅるるるるるる……

 抗議する腹の音を叱咤しながら、良い笑顔で子どもから脱兎の如く離れる。

 一人残された子どもは半分半分の饅頭を両手に持ち、

「血ぃー、くださいよぉー……」

 涙声で叫んでいた。


*  *  *


 結論、ここにはまともなヤツなんて一人もいない。

 直に接した相手は店主を入れても三人だけだが、結論を出すには充分だと考える。

 逆にこれ以上、妙な連中に関わられる方が嫌だ。

 全く収穫にならない事実を胸に、再度すっかり暮れた夜の中を走る泉だったが。

「ううううう……お腹空いたぁ」

 せめてあの饅頭を貰っておけば……いやいや、半分貰った礼に血を寄越せと追いかけられれば、あの素早さに勝てる自信はない。今だって、追いかけて来ないのは饅頭を食べなかったからで――。

 自分の腹に言い訳をしながら、ふらふら人ごみを走り抜ける。

 夜の奇人街の様子は、昼とは全く違っていた。

 まばらだった人の数はみちを狭めるまでに溢れ、気をつけなければ幾人にもぶつかってしまいそうだ。すでに掠めた身体はあったかもしれないが、絡まれるのを恐れて必死に走っているため、詳細は不明だ。

 遠くで悲鳴と嬌声が聞こえる。

 視覚を刺激する明かりは、ネオン街と市場のそれを合わせた混沌。

 ついでにもれてくる美味そうな匂い。

「ううううう……じ、地獄だわ」

 それでも止まることなく人ごみを抜け、通りを曲がる。

 幾分涼しい風が頬を撫でた。日中とは違い、不快を伴わない澄んだ夜風。

 ほっと息をついたのも束の間、痛む足を何かに取られ、路地裏へ盛大に転んでしまった。

「いったぁ……な、なに?」

 地べたに座り、火花の散る頭を擦りながら、足が取られた方へ視線を向ける。

 まるで透明な壁で仕切られているかのように、賑わいから外れた闇夜の路。

 街灯の青白い明かりを背に、路地裏の壁から五つの、背格好から男と分かる影が抜け出てくる。その内の一つが、泉の足をわざと引っかけたと気づくのに、そう時間はかからなかった。

 泉からは影としか見えず、影からは泉の姿がよく見える状況に、空腹以外の気持ち悪さが胃に下りてくる。

 急いで逃げようと飛び出した腕が、無造作に引かれて壁に叩きつけられた。

「っ――!」

 背中に衝撃。仰け反る首に刃の感触。

 くつくつやらケタケタやら笑う声がとても近い。

「おやおや珍しい。人間のお嬢ちゃんじゃありませんか」

「こんなところで何してるんですかぁ?」

 しかめた目を無理やりこじ開けて前を見たなら、絞め付けるでもなく首に寄せられたのが、鋭い爪を持った獣の手だと知る。至近の影から分かる輪郭は狼そのもの。

(これが人狼……!?)

 確かに二足歩行の狼という表現がぴったりの相手は、恐怖に見開かれる目を愉しむように、泉の首を片手で絞める。その手を外そうと両手で掴むがびくともしない。足掻く度、絞首を悪戯に試みる手の、滑らかとは言い難い毛が指にまとわりつく。

「くぅ……」

「ひひひ、可愛らしい声じゃねぇか。このまま喰っちまうのもいいが……」

 後ろに同意を求めるように、

「やっぱ、ちゃんと“喰って”やらなきゃ、可哀想だよなぁ」

 舌をべろりと舐める音と共に、嘲笑が肯定として上がる。

 太ももの素肌に、もう一方の手が這わされた。

 顔は獣だというのに、爪と共に撫でる手は、毛に包まれていようと無骨な男の物。

「ひっ、や、やめて……」

「良い声だぁ……骨の髄まで可愛がってやるから安心しなぁ?」

 にやついた顔が周囲を固める。中には人間のような顔もあり、泉の恐怖を更に駆り立てる。

 想像もしたくないこの先の運命に、目を瞑ることもできない泉の視界は、街灯の光を歪め――

 地に叩きつけられた。

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