第6話 幽鬼

 怒りか嘆きかは判別しがたい渦巻くものが、発散場所もなく泉の内をぐるぐる巡る。

 奇人街では珍しい、同じ人間だからと従ったのが悪かったのか。それを別にしたとて、ここ数日、一つ屋根の下で寝食を共にした仲だというのに。しかも食事を作ったのは他でもない泉である。

 ……まあ、ワーズから奪い取った役割という事実には、この際目を瞑るとして。

 あまりにもあんまりなスエの身勝手さに、ただただ茫然と立ち尽くす。

 と、その鼻に、埃でもカビでもない異臭が届いた。

 瞬間的に状況を思い出した頭が振り向けば、腕を引いた幽鬼がそこにいる。

「っ!?」

 反射的に動いた身体が、倒れるようにして横に転がれば、爆ぜたような音と振動が響く。

 絡みつく埃とカビに苦しみつつ、すぐさま身を起こしたなら、先ほどまで泉がいた床に、伸びきった腕が深々と突き刺さる様が目に入った。

 威力はそれだけに留まらず、余波により陥没した周囲が泉の喉を鳴らした。

 ぱっと見、スエの部屋は芥屋と同じく木造のようだが、床のひしゃげ具合は金属のそれであり、部屋の主を鑑みれば頑丈な素材に張り替えていると想像できる。想像はできるが、そんな床を貫き陥没させる力など、目前にして喜ばしい点は一つもない。

 しかも、ずるっと引き抜いた白い腕には、かすり傷一つついていないのだ。

 肉のない、ぞろりと光る歯が、避けた泉を褒めるかの如く、にぃと笑みを象った。

「――――っ!」

 慄く泉。

 拍車をかけるように扉の影から、目の前の個体とは違う指が壁を掴んだ。

 腕同様伸びきった指の関節は、人のソレより遥かに多い。触手と表す方が正しい指は、泉の恐怖心を煽るように順繰りに壁を這っていく。

 艶かしいその動きに、一瞬、史歩と猫は倒されてしまったのかと蒼白し、首を振っては出現した幽鬼の方向が芥屋とは違うことに気づく。芥屋の壁をぶち抜いた先がスエの住処であるように、スエの隣の壁もぶち抜けば別の建物と繋がっているのだろう。

 本来、幽鬼は建物の中にまで入って来ないと聞いたが、出現した以上、利くという鼻でこの部屋に充満するカビと埃混じりの体臭に引き寄せられたと推測する。

 人間でさえあれば、こんな不衛生極まりない場所にいる者でも良いらしい。

「なんて…………悪食」

 呟いた後で、人間にとってのカビ入り・虫入りのチーズと大差ないのかもしれないと思った。それでも好き嫌いの問題はある。特に虫入りチーズなぞ泉の嗜好から完璧外れた存在だ。これを踏まえてもなお、全部が全部、人間というだけでこの臭いに惹かれてやって来るのなら、やはり幽鬼は悪食であろう。

 そんな評価を下しつつ、部屋奥を目指して壁を背に擦り寄る。

 辛うじて避けられたとはいえ、陥没した地面を見れば絶対絶命なのは間違いないのに、不思議と泉には諦めの選択肢がなかった。

 少しでも時間を稼げれば、打開策はきっとあるはず。

 猫に救われた時のように。

 そんな淡い希望を求め、悲鳴を呑み込んで幽鬼を凝視する。

 そろり、そろり。ゆっくりと近づく幽鬼は、この状況を愉しんでいるようだ。

 と、腕と同じく伸びきった足が棺桶に躓いた。

「きひっ!?」

 反射なのか何なのか、途端にスエの情けない悲鳴が上がった。

 これに興味を引かれたのか、泉から一つしかない視線を外した幽鬼は、棺桶を無造作に蹴る。

「きょえっ!?」

 もう一体も同じように蹴り出せば、またしても上がる悲鳴――いや、奇声。

 容赦なく蹴りつけられる棺桶だが、移動はしても全く凹まない。

 床を貫き陥没させる力にもビクともしない強度は、確かに防壁と称すに相応しい。

 思ってもみないところで標的から外された泉は、半ば呆気に取られつつ、我に返っては気を引き締めた。

(チャンスは今しかない!)

 完全に意識を棺桶の、奇怪な音に囚われた幽鬼たちに勘付かれぬよう、死角をずりずり壁伝いに移動する。充血した一つだけの眼は視野が狭いらしく、人間なら気づいたであろう行動も見逃すようだ。部屋の出入り口まで辿り付き、なおも慎重に、幽鬼から目を逸らさずゆっくりと後退して部屋を出る。

 その髪に、甘ったるい死臭が吹きつけられた。

 ギクリと強張り、芥屋とは反対側の通路へ顔を向ければ、すぐ隣に三体目の幽鬼。

「っひ――!」

 しゃっくりに似た悲鳴を両手で隠すが、もう遅い。

 耳のような部位は確認できないが、スエの声を受けて棺桶で遊んでいた二体の幽鬼も、泉が移動したことに気づいてしまった。

 再び近づく二体にまで怯える暇もなく、三体目が腕を引いたのを見、先ほどと同じ要領で避ける。

 泉の身体を逸れて再び床を穿つ手――だが。

「……くぅっ!」

 完全に避けたはずの生白い腕は、風だけで泉の右腕を切り裂いた。

 鮮血が舞い、バランスを崩した泉は窓側の壁に激突する。

 身体を幽鬼の方へ向けるが、焼けつく痛みに立てず、壁を背に睨むことしか出来ない。

 すぐにでも殺される己を想像しながら痛みに耐えるが、霞む視界の先で起ったのは、最期に見る光景としてはおぞましいものだった。

 泉の血を滴らせ、朱に染まった指。

 これを認めた三体目は舐め取るでもなく、そのまま口に入れると、躊躇なく自身の指ごと噛み千切った。

「っ!?」

 ぶちり、と断つ音が生々しい。

 断面からはぼとぼとと幽鬼の赤黒い血が絶えることなく床を濡らし、独特の臭気が密度を増していく。

 今もって痛みと戦う泉は、それ以上の痛みを伴うような行為を前にして、吐き気に襲われながらも、咀嚼する様から目を逸らせない。

 泉と違い、痛がる素振りもなく自身の指を味わう幽鬼。

 唇のない歯から時折零れる残骸には目もくれず、一つしかない目で泉を捉えたまま、口だけを絶えず動かし続ける。

 ゆっくりと硬い物が砕かれる音が薄闇に響く。

 ゴクン、と呑み込む喉さえ鮮明に。

 軽い食事を終えて、並びの良い白い綺麗な歯が、肉のない唇の端が、にぃと満足げに笑った。

 泉共々その様子を見ていた他の幽鬼は、物欲しそうに口の端をひん曲げる。

 だが、すぐに笑う。

 黄色い一つ目が、ブラインドの下で右腕を押さえる少女を捉えた故に。

 まだ、泉が――好物の人間がそこにいる、と。

 緩慢な、しかし淀みない足取りで、ぺたぺた生白い身体が近づいてくる。

「ひ……」

 諦めてはいけないと思いながら、確実に迫る死に戦慄する泉。

 二体はまだ、部屋から出てきそうにない。しかし、自らの指ごと泉の血を味わった三体目は、彼らの到着を待たず、止め処なく流れる血にも構わず、もう一度、腕を引いた。

 ピタリ、間接の多い指の先が、動けない泉へと固定された。


 ――同時に、窓がぶち破られ、破片が降り注いだ。

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