第8話 枯渇
奇人街において、店のほとんどは得体の知れない、けれど得も言われぬ美味な食材・料理を扱っている。しかし、街を形成するには当然ながら食以外の店も必要であり、中でも薬局を営む者は、多くが
彼の種族は種名に”死”を持つが、含まれる意味合いとは裏腹に、明るく活発な者が多い。このため、初めて種名の文字を知った者は皆一様に首を傾げる。何を持っての”死”なのか、と。
死人の名は、奇人街に紛れ込んだ人間が付けたものだという。
では何故その人間は、彼らをそう名付けたのか。
その人間は言う。外見の特徴である少し尖った耳、鋭い牙、光のような頭髪と深い夜の瞳、油断を誘うような愛くるしい顔立ち。これらは全て、彼ら特有の食を得んがための姿形、まやかしであると。
彼らの食――すなわち、生きとし生ける者の血を得んがための。
数多犯罪はあれど、共食いのほとんどない奇人街において、彼らは彼ら自身の血を望まない。かといって、露店に並ぶ死骸の血に興味はなく、獣の血にも目を向けず、ただ言語を繰る者の生き血にのみ惹きつけられる。
それは、その人間の居た地で古くより伝わる、不死者の在り方によく似ていた。
なればこそ、その人間は彼らを死人と名付く。
そんな死人の吸血行為は、数えで月の一度程度。
連日連夜喰い散らかす他の住人と比べれば、遥かに大人しい食事回数だ。
だが、この一度を一日でも逃したなら、死人の様相は一変してしまう。
焼けつく喉の乾きと、内から臓腑を裂かれる飢餓感。
俗に”枯渇”と言う、死人を襲う耐え難き苦痛は、彼らを猫と同等、あるいはそれ以上の獰猛さを持つ、欲の隷属と化す。慎ましやかな食生活の反動か、一度枯渇に陥った死人は血の巡りの全てを求め、これに襲われた獲物は体内の血を全て失う。
死人と名付けた人間は枯渇の彼らに会ったと推測され、幸運にも、この歯牙には掛からなかったようだ。
――というのが、泉が史歩から教わった死人の話。
そしてシイという名の子どもは、そんな死人ながら、枯渇に陥ろうとも理性を失わない、稀有な存在だとスエは言った。気味の悪い三白眼の誇らしげな輝きは、不可思議であったが、襲われたのに案外心が広いんだな、と泉は思ったものである。
饅頭一個と引き換えだった血の量。
枯渇に陥った死人が求める血の量。
それらに頭を抱えながらも、命の恩人の危機と腹を決め、死にませんようにとだけ祈っていた泉。
「ごちそうさまでした」
だというのに、幽鬼に裂かれた右腕の、滴る血の数滴だけを口にしたシイは、可愛らしく頭を下げてにかっと笑った。晴れやかそのものの顔に、血に飢えていた面影はない。
傍らで腰を下ろす泉は、赤く染まった袖で傷口を覆いつつ、率直に尋ねた。
「シイちゃん……っと、本当にあれっぽっちで良かったの?」
尋ねた後で勝手に定着させていた「ちゃん」付けに今頃迷うが、シイは気にする様子もなく、にっこり笑った。
「はい、十分なのです。あれ以上貰うと、シイのお腹は破裂しちゃいますから」
「そう……」
ティースプーン一匙で治まった、怪物の鳴き声染みた腹の音。
少量で済んで良かったのは確かだが、彷徨い歩いたあの晩、これを嫌って遭遇した恐怖は何だったのか。
やるせない気持ちは、泉の目線を心持ち下に落とす。
「どうかしましたか?」
これにシイが首を傾げたなら、愛想笑いを浮かべる泉。
「いやぁ……枯渇の死人って、全身の血を吸い尽くすって聞いていたから」
ついつい砕けた物言いになるのは、相手の外見が愛らしい子どものため。
そしてその子どもは、合点がいったと鋭い牙を見せて笑った。
「はい、本当はそうなんですけど、シイは枯渇になっても加減が出来るので、通常の摂取量で充分なのです。でも普通ならカサカサに干からびて、死んじゃうのですよ」
キラキラと明るい表情と声音で、愛くるしい仕草で、水平にした手の平を首元で払う。
「そ、そう……」
牙と少し尖った耳を注視しなければ、人間と空目出来そうなのに、やはりこの子どもは違う種族なのだと思い知る。想像していた悲愴とかけ離れた姿に、泉は少しだけ項垂れた。
(元気になって嬉しいのは間違いないのに……何かしら、この裏切られた気分は?)
自分でも説明のつかない哀愁に浸ること、幾ばくか。
シイが伺うように見つめていることに気がついた。
「ええと?」
「お姉ちゃんて…………あの時の、泣き虫お姉ちゃんですよね?」
「泣き虫……まあ、うん、そうだけど」
シイの方でも泉を覚えてくれていたらしい。
嬉しい反面、覚えられ方が切ない。
追い打ちに、ちょっぴり傷心した瞳が遠くを見つめる。
が、その鼻孔に甘い腐臭が微かに届いたなら、思い出した状況にため息を呑み込んだ。
怯む心を払うように首を一振り、ゆっくりと立ち上がる。
靴下越しの地面の感触は良いものではないが、裸足よりマシだろう。
「……さてと。そろそろ芥屋に、ワーズさんたちのところに行かなくちゃね」
軽い口調はシイに対してではなく、自分に向けて。この街で依るに足る名を口にし、目標を明確にすることで、竦みそうになる自身を鼓舞する。
とはいえ、上げた視界に映るのは路地裏の壁ばかり。
逃げに徹したシイの跳躍に加え、幽鬼に落とされたせいで、大まかな距離すら把握できない。分かっているのは、芥屋からそこそこ遠い、芥屋より低いところにいることだけ。
せめて高所から確認出来れば良いのだが、あの幽鬼を避けながらどこまで行けるか。
唯一の救いは、一人だったあの夜と違い、シイが傍にいること。
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