第7話 お茶の時間
丁度良い量を取ったと思ったのだが、意外に多かったらしい。ワーズの取る量につられ、目測を見誤ってしまったか。
ともあれ、満たされ過ぎた腹を擦りさすり、ソファで一息つく泉。ワーズはといえば、最終的に残り全ての野菜炒めを平らげ、ふらふら後片付けに勤しんでいた。
これでも手伝いを申し出た泉だが、「満腹ですぐ動くのは身体に悪いよ?」と、若干膨らんでしまった腹を見ながら言われては、隠すように腕を回して引き下がるしかなかった。
動けない上にやることもなく、隣で寄り添い丸くなる猫に、泉はそっと手を置いた。
まどろんでいた頭が若草色の腿に移動し、甘えるように喉が鳴る。撫でて、と催促する様に、これが一昨日の虎と同一の生き物と思えず苦笑が漏れた。
――一昨日の、目の前で行われていた影絵の惨劇。
それがどういうものか分かっているつもりだが、猫に対する恐怖は不思議とない。
最初の邂逅では、確かに恐れと己の死を感じ取ったはずなのに、今では驚くほど遠い。
奇妙なまでに、自分は猫に害されないという、確信だけがある。
何の確証もないはずなのに――
起こした手前、無下にする訳にもいかず、頭から背中にかけてをそっと撫でる。
金の眼が細まったなら、ふわりと体毛の影が舞い、宙に溶けた。
猫の質感は滑らかで、撫でる度舞う影には、何の感触もない。
ただただ気持ち良さだけが見て取れる様子に、繰り返し繰り返し撫でていく内、泉の唇が自然と旋律を紡ぎ出した。
ふと、鼻唄程度で感動していたクァンを思い出す。
なんともなしに音楽に関連した物がないか、改めて居間を見渡した泉は、テレビやラジオの類いが見当たらないことに気づく。一家に一台、どころか数台置いてある家も珍しくない中で、それらと縁遠い生活を送ってきた泉にとっては、特に困る話ではないが。
とはいえ、泉の自宅にそういう機器がなかったわけではない。ただ、泉自身があまり使わなかっただけだ。思えばパソコンも部屋にあったくせに、一度も使って来なかった。
そんな泉の情報源といえば、雑誌や友人たちとの遊びに偏っている。
今口ずさんでいる唄も、カラオケで友人が唄ったのをなぞっているに過ぎず、歌詞だってうろ覚え。唄える歌は大抵が古い曲のため、友人たちの前では聞き役に徹していた。たまに唄えと強要されたなら、新譜をかなり調子っぱずれで唄ってみせるため、すっかり音痴で認識されている。
無意識に、適度に広く浅い交友関係を望んでいた泉にとって、それは至極自然な行動だった。鼻唄さえ誰かに聞かれることもなく、淡々と目標までの日々を過ごしてきた。
そう、目標――――
「はい」
唄を止めて耽りかけ、遠くを見つめた視線の前にカップが差し出される。
取っ手を持つのは、黒いマニキュアの白い手。
「ありがとうございます」
中身は、ここで目覚めて初めて飲んだ、紅茶の赤みを帯びたお茶だ。
食事の件もあるため、昨日、振舞われた時にこっそり確認した急須の中身は、どこからどう見ても、ただの茶葉。動物らしき乾物の姿がないのに加え、この茶自体、泉の好みだったので疑いなく口をつける。一口含めば、食べ過ぎに苦しむ胃が幾分和らぎ、安堵が与えられた。
知らない内に緊張していたらしい。
自分のことながら、面倒だと笑う。
あの目標を掲げたのはいつだったろう。
またも考えに沈みかけた泉だが、妙な視線に気づいて顔を上げれば、椅子に座りにんまり笑う混沌の瞳とかち合った。
虚を衝かれて、瞬きを数度。
「うぅん、桃色も良いけど、若草色も可愛いねぇ。刺繍ももうちょっと凝ってみようかな」
「……ま、まだ作る気ですか?」
たっぷり一呼吸の間、何の話か考え、服の話と察して困惑する。クァンが用意した下着もそうだが、普段着として渡された服も、衣装箪笥に入り切らない量をすでに受け取っている。材料費はどうなっているのだろう?
思い耽るのを忘れて、半分呆れ、半分驚く泉。
そんな思いを知ってか知らずか、ワーズも茶を啜りながら、
「材料には困らないからね。第一、女の子は着飾った方が楽しいじゃない」
誰が?、とはさすがに聞けなかった。
(きっと作った服を誰かに着てもらうのが嬉しいんだわ)
にこにこと楽しそうな様子に、別に自分が褒められている訳じゃないと念じる。服とはいえ褒められ慣れていないから、すぐに頬が赤くなってしまうのだ。
「でも泉嬢が着てくれて良かったよ。
「シホ嬢?」
初めて聞く名前に首を傾げた。自分が居た場所に似た響きの名前。
「お向かいさんだよ。袴姿の美人さんでね。滅茶苦茶強い上に猫にぞっこんなんだ」
「?????」
寝そべっていた猫が「みー」と迷惑そうな声を上げた。
半分も理解できない泉に、ワーズが一つ頷いた。
「なら挨拶しに行こうか」
勝手に決めて、飲みかけのカップを置いた彼は、そのまま店側へ降りていく。次いで、どこからか白い靴を出しては、きちんと揃えてから土間に置いた。大きさから見て、泉の分らしい。サンダルで散々走り回ったせいで、自分に靴がないことを忘れていた。
「さ、泉嬢――」
手にしたカップをどうしたものか慌てる泉を余所に、左手を差し出すワーズだが、それ以上の言葉は続かなかった。
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