第20話「病院と見舞客」3
どのくらい眠っていただろうか、ゆっくりと思いまぶたを持ち上げると、そばにはヴェロニカが椅子に腰かけていた。
心なしか彼女の表情が強張っているように感じた。資料を眺めているが、どこか集中できていない。そんな様子だった。
「ヴェロニカ、どうかしたの?」
眠ったおかげか、口調もしっかりしている。体力まで戻ってはいないが調子はだいぶよくなっていた。
魔術師である恩恵だ、とニックは思う。魔力は人間を活性化させる。魔力を高めれば一時的に怪我を無視できるどころか、小さな傷であれば回復さえ可能だ。重症を負った自分が死ななかったのも、無意識化に魔力を高めていたせいもある。
「なんでもないわ」
「そうかな? ならいいけど。ところで、僕はどれくらい眠っていたのかな?」
「一時間は眠っていたかしら。ねえ、ニック……」
なにかを言おうとして言いよどむヴェロニカが心配になる。
「やっぱり様子が少しおかしいよ。話してくれないと心配になる」
だが、彼女はやはりなにかに躊躇っている。彼女の態度に言い知れない不安を感じた。
「なにかあったのか? まさか、バロン・トルネオが市街地で暴れているなんてことは」
「そうじゃないわ。そうじゃないけど、ニックにとっては、いいえ私たちにとってもよくないことが起きていたのよ」
観念したヴェロニカは、警察から連絡があったことを青年に伝えた。監視カメラの情報からバロンの行動を調べていたところ、被害者のひとりが彼によって誘拐される瞬間が写っていたと静かに教える。
ニックの顔色が蒼白となる。嫌な予感しかしない。
「まさか、その被害者は……イリーナ・バンなのか?」
震える声で問う青年に、彼女は静かに首肯した。
「残念ながら、あなたの生徒よ。あなたが心配していた通りになってしまったわね。監視カメラの映像があの男に誘拐されたことを確定したわ」
「最悪だ。一刻も早くなんとかしないと」
ニックは体に力を入れると、ベッドから体を起こす。体に痛みが走るが、そんなことを気にしていられない。事態は一刻を争うのだ。いつ、イリーナが餌にされるのかわからない。最悪の場合を考えるともう餌にされてしまっている可能性だってあるのだ。
このまま悠長に寝ているわけにはいかなかった。
危惧していた通りになってしまったことが青年を焦らせた。予想はしていた。こうなっていると思っていた。だが、実際に自分の予想通りだと知ってしまうと、冷静ではいられない。
「落ち着きなさい! 駄目よ、寝ていないと!」
必死に起き上がろうとするニックを、ヴェロニカが力づくに押しとどめてくる。
「寝ていられるわけがないだろ――ぐッ! くそ!」
お互いに力を入れてしまったので、青年の体に更なる痛みが走るが、それどころではない。なんとか彼女の手を跳ねのけようとするが、病み上がりの彼の抵抗などむなしく結局押しとどめられてしまった。
「イリーナ・バンを救出するために、いいえ、これ以上の被害者がでないように警察はもちろん、ブラフマー魔術師派遣会社と協力を依頼した他事務所も総動員で街を捜索しているわ。きっと見つけてくれるから、ニックがここで無理をする必要はないの!」
だから任せてほしい、と言うヴェロニカに、青年は素直に応じることができない。
半ば意固地になっていた。そのことは自分自身が一番自覚しているが、感情を抑えることができない。
シャーリーと約束したのはニックなのだ。
イリーナをなによりも助けたいと思っているのはニックなのだ。
「ニック、お願いだから言うことを聞いて」
「…………」
懇願のようなヴェロニカの言葉に、返事ができなかった。代わりにゆっくりと上半身だけを起こす。
「……ニック」
このままではいけない。ニックならきっと無茶をしてしまう。ヴェロニカはそう確信し、彼へとさらに言葉をかけようとする、そのときだった。彼女の携帯電話が鳴った。
緊急時のために、許可を得て着信をわかるようにしているが、この状況でかかってくるのは好ましくはない。非常時の着信というは悪いことしか思い当たらないのだ。
「出たほうがいいよ」
「……そうね。はい、ヴェロニカ・マージです」
電話に応じたヴェロニカが相手と言葉を交わすと、大きく目を見開くのがニックにはわかった。青年もまた非常時の着信が朗報ではないことを知っているので、驚きはしない。ただ、イリーナが死んでしまったという最悪の報告ではないことを、信じていない神に祈るしかできない。
その後、さらに言葉を交わして彼女が電話を切る。
「今、マーティンから連絡があったわ」
「要件は?」
「朗報というべきか、そうではないと言うべきか迷うけれど、バロン・トルネオを見つけたそうよ」
「ヴェロニカ、お願いだ。頼むから僕も連れていってほしい」
「駄目に決まっているじゃない!」
懇願するニックだが、ヴェロニカは声を荒らげて反対する。
ニックがそう言うとわかっていた。だからと言って、伝えずにいるわけにもいかない。どちらに転んでも、勝手に行動されてしまう危険性があるからだ。事実、こうして一緒に行動しようとしている。
この場合は、まだ連れていってほしいと言っていることを喜ぶべきなのかもしれない。少なくとも、なにも言われずに勝手に動かれるよりは安心できた。だが、それとこれは別だ。
「駄目よ、病室から出ないで」
「ヴェロニカ、お願いだ」
「こんなこと言いたくないけど、ニックのために言うわ。ねえ、今のあなたになにができるの?」
「――っ、それは」
「私たちのために重傷を負ってしまったニックに、こんなこと言うのは間違っていると思うわ。私だって言いたくないの。でもね、今のあなたは一度死んで、手術を受けたばかり。そんな体で【異界の住人】を相手に戦うことができるの?」
ヴェロニカは自分で言っていて情けなくなった。自分たちが逃げるために、ニックを頼ったというのに、重傷を負っている彼にこんなことを言わなければいけないことを。
――これではまるでニックを体よく使い捨てにした気分になってしまうわ。
しかし、心を鬼にして強く言わなければいけない。青年が傷つくかもしれないが、無理をして戦った果てに死んでしまうよりは絶対にいいはずだ。死んでほしくないからこそ、辛辣な言葉であったとしても言わなければいけない。
姉として、これが最善だと信じ、言葉を続けた。
「魔術を使えば、一時的に体のことは無視できる。誰かに治癒魔術をかけてもらえば、それ以上に戦えるはずだ」
「一時的に、はず……ね。【異界の住人】はそんな簡単な相手なの?」
「それは……」
言葉をつまらせた彼にヴェロニカが畳み掛けるように言葉を放つ。
「治癒魔術がある現代で、どうして医者が魔術を使わずに手術をするのかわかっているわよね。それは、治癒魔術が万能ではないから。治癒魔術師が医者というわけではないのよ? だから、魔術師協会も手術後は医者の許可がなければ治癒魔術を使ってはいけないと制限しているの。治癒魔術、そう言えば聞こえはいいけれど、あくまでも戦闘や戦後の応急処置が限界よ」
「そんなこと、僕にだってわかっている!」
ニックだって馬鹿ではない。むしろ、魔術師としては優秀すぎるほど優秀な魔術師なのだ。言われるまでもない。自分がどれだけダメージを負っているのか、戦うことが可能なのか、限界がどこなのか、知りたくなくてもわかってしまう。
だが、わかっているからといって、止まる理由にはならない。
諦める理由には決してならないのだ。
「わかっているならこれ以上の心配をさせないでっ!」
「そうはいかない。だいたい、魔術師に戻るように言ったのはヴェロニカじゃないか!」
姉がショックを受けた顔をした。
つい言いすぎてしまったことを理解した青年だが、言い訳も、ごまかしの言葉も出てこない。ただ、痛いほどの沈黙が訪れた。
「そう、よね。私がニックの塾へ行ったのがはじまりだったわね。ごめんなさい」
「ごめん、僕は君にそんなことを言うつもりはなかった」
「じゃあどんなつもりで言ったのよっ」
「思い出してくれ、一年前までの僕たちはどうだった? 魔術師として多くの事件と関わってきた僕たちがどうだったか覚えていないのか? かつての僕たちは、腕がちぎれようと、足を斬られようと、何度も絶望する状況に陥ったとしても、最後まで諦めずに戦い抜いた。だから僕はここにいる。ヴェロニカだってそうだ。死んでしまったコハクも、必死に足掻いて、戦ってきたじゃないか。僕たちに、魔術師に――止まることはできない」
ニックは断言する。魔術師としての生様を。
間違っているかもしれない、正気の沙汰とは思われるかもしれない。しかし、これが、これこそがニック・スタンレイの魔術師としての生き方だ。そして、一度はやめてしまった生き方だった。
「昔と今じゃ違うのよ。一年間のブランクがあるニック、刑務所にいるシャスティン、死んでしまったコハク、他の仲間ももういない。諦めない気持ちは必要よ、止まらないで進むことも大事よ。だけど、あなたのそれはいつだって自分を顧みなかったじゃない!」
「だからなんだと言うんだ? 自分を顧みない? 当たり前だ、そんなことをしていたら、化物を相手に戦うことはできない。狂った犯罪者を相手に戦うことなどできない。僕はなにかを犠牲にしなければ、魔術師としていられない!」
ニックは自分自身を犠牲にしていた。戦いにリスクは付き物だ。そのリスク、すべてを自分で背負うように計算して動いている。狂っていると思われても構わず続けてきたのだ。
普通の人間なら、命の危機に晒されれば誰かを犠牲にしてでも生き延びたいという気持ちがあるものだ。実際に、ヴェロニカは【異界の住人】を操るバロンから逃げるために、ニックが時間稼ぎをすることを結局頼ってしまった。それが悪いわけではない。むしろ、当たり前だ。誰だって死にたくはないのだ。しかし、ニックは違う。
平気で他人のために囮になるようなことをする。命の危機に瀕しようが、戦おうとする。自分の命をまるで賭け金ように容易く賭けることができる。
無意識でやっているのか、それとも意識しているのかまではヴェロニカにはわからない。もしかしたらニック本人にもわかっていないのかもしれない。だからこそ危ういのだ。
ヴェロニカは愛する家族に死んで欲しくはない。彼女だけではない、サマンサも、マーティンも、サビーナも、そしてニックの生徒たちだってそう思うはずだ。
「自分を犠牲にして誰かが悲しむと考えたことはない? 少なくとも私は悲しむわ。そしてサマンサやマーティン、サビーナだってそうよ。なによりも、ニックの生徒は悲しまない? 貴方を慕ってくれる生徒はいないの?」
「……あ」
熱を帯びていた思考が、冷水を浴びせかけられたように冷静さを取り戻した。
彼が思い出したのは、好意を寄せてくれるシャーリーのこと。その好意がどういうものかはわからないが、他の生徒よりも距離は一歩近い。
彼女に心を許しているわけではない。だが、他の生徒よりも思うことはある。
イリーナのことを必死に探しているのだって、塾の講師として生徒を案じているためだが、本当にそうかわからない。
――シャーリーが不安に怯えていたから、行動に移ったのではないか?
そして、もしもここで無理をした結果、死んでしまったら彼女は責任を感じてしまうかもしれない。なにもシャーリーだけではない。魔術師に戻るよう言った一年ぶりに再会したヴェロニカも、できることがあるならするべきだと戦う理由を示したマーティンも、結局は本気で止めることができなかったサマンサも、自分自身を責めるだろう。
青年はそのことに気づくことができなかった。気づきたくても、できないのだ。
だが、ヴェロニカの言葉によって、冷静さだけは取り戻すことができた。
「頭は冷えたわね? お願いだから無茶をしないで。私はもういくから。これ以上、ここに私がいるせいであなたが冷静じゃなくなったらきっと後悔するもの」
「僕は、別に君のせいでこうなったんじゃない」
「わかっているわ。でも、責任を感じるのよ。ごめんなさい」
ヴェロニカはニックに背を向け、病室の扉へと手をかける。そして、振り返らずに、
「ねえニック、私は確かに止めたからね。今のあなたでは戦うことができたとしても、きっと死んでしまうわ。だけど、そんな状態でも戦うというのなら――私ならコハクの残してくれた刀を使うわ。少しでも生きるために、使うことのできる手段はすべて使うと思う。きっとコハクもそのために刀を残してくれたと思うから」
じゃあまたね、と言い残してヴェロニカが去っていく。
ニックの脳裏に、彼女の言葉が駆け巡り反復する。あれではまるで――戦いたいのならコハクの残してくれた刀を使えと言っているようなものだった。
実際、ヴェロニカはそう言ったのだ。青年から目を離す以上、戦おうとする彼を止めることはできない。ならば、最悪の事態を考えて生き残る手数を持っていてほしいと願ったのだ。
甘い、と思いながらも助言めいたことを言ってしまったが、彼女はニックがここで諦めて病室にいるような男ではないとわかっている。わかっているが、それでもできることならもう戦ってほしくないというのも本当の気持ちだった。
ゆえに、戦わないでほしいと言った上で、戦うならば負った傷を少しでも補えるように師の遺した刀を使うように言ったのだ。
「…………」
どれくらい時間が経っただろうか。ヴェロニカが病室を去ってからしばらく呆けていた青年は、ようやく彼女の真意を汲み取った。
「ありがとう、ヴェロニカ」
小さく感謝の言葉を口にしたニックの瞳には、強い光が宿っていた。
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