第28話「異形」1





 異変はすぐに訪れた。


「ぐッ……がぁ?」


 注射器がコンクリートに落ちて割れる。

 バロンは喉を押えて苦しみだす。苦悶の表情とともに、大きく目を見開いていることから、今の苦しみは想定外だったのかもしれない。

 喉だけではなく、服を引きちぎり胸までも掻き毟る。まるで体中を、【異界の住人】の因子が暴れ回っている。そんなおかしなことが脳裏に浮かんだ。


「ニック! 私の糸を切って、早く!」

「あ、ああ、そうですね」


 サビーナの声に、老人から視線を外す。

 今ならバロンを仕留めることができるかもしれないが、不安要素が多過ぎるために近づくことを躊躇われた。攻撃をするなら、まず助けられるべき人を助けてからではないと、なにかあったときに対処が困ることになる。

 刀を振るい、人ひとりを捕縛するには十分すぎる強度を持つ糸を斬っていく。


「ありがとう、助かったわ。この糸は、内側からはなにをしても脱出することができなかったけど、外からなら簡単みたいね」

「餌の捕縛用だったのかもしれませんね」

「そうね。でも今はどうでもいいわ。とりあえず、何人か糸から解放しましょう。そうすれば、手際よく全員を解放できるわ」

「わかりました。イリーナ、一緒にこられるかい?」


 置いてくわけにもいかずイリーナに尋ねると、弱々しくではあるが頷いた。彼女をしっかりと支えると、ぎこちない足取りの彼女をほとんど引きずるようにして、近くにいる警官のもとまで向かい、糸を斬っていく。


 魔術師を含め数人を解放したニックは、刀を鞘へと納める。足取りが危ういイリーナを抱きかかえているので、彼女を傷つけてしまう可能性を考慮した結果だ。

 青年は生徒をできるだけ離れた警察車両へと避難させようとした。彼女を引き渡すために降りてきた人型の【異界の住人】は、術者が因子の投与で苦しんでいるために動かないものの、いつなにが起こるのかわからない。


 イリーナがこちらの意図を察したのか、離れたくないと抱きついて抵抗する。

 どうするべきかと参ってしまう。女性がいれば預けるのにも抵抗がないのかもしれないが、サビーナはまだ囚われた人間を解放しているし、ヴェロニカは意識を失っているはずだ。

 このまま少女に抱きつかれているわけにもいかず困っていると――突如、バロンが絶叫をあげた。


「ぐぁおあああああああああっっ!」


 人間の発したものとは思えない、低く唸るような音がバロンの喉から放たれる。

 全身が総毛だった。

 老人を中心に途方もない魔力が吹き荒れていく。


 どくん。


 脈動する音が聞こえた気がした。


 どくん。どくん。どくん。


 気のせいではない。間違いなく、音が聞こえる。心臓の鼓動のように、だがもっと禍々しい別のなにかが脈打っている音だ。

 発生源はバロンだ。魔力の中心で、周囲に響き渡るほどの脈打つ音を響かせている。

 いったいなにが起きるのだ。誰もが、動きを止めて固唾をのんで眺めている。


 そして、


「るあぁあああああああッ!」


 獣のような絶叫が放たれ、耳を痛くした。同時に、バロンの服か破れて体が膨張していく。腕が、足が、腹が、胸が、体中がボコボコと不快な音を立てて泡立つように膨らんでいく。


 腕の中のイリーナが、あまりにもおぞましい光景に目をそらす。

 あっという間に、倍以上の体格へと膨張した老人の体から、今度は色素が抜けていく。膨張する際は、赤黒く染まっていた肌が、灰色に変色していった。


 一体なにが起こっているのか誰もが理解ができないまま、ただ恐怖心を抱きながら静観していた。

 あれは人間ではない。バロン・トルネオという人間は、もうこの世にはいない。それだけははっきりとだけわかる。彼は取り返しのつかないことをしてしまったのだ。


 止められなかった責任はニックにある。いくらイリーナを救うためとはいえ、老人の実験を黙認したのだから。


 どんな形でも止めればよかったと後悔しても、もうすでに後の祭りだ。

 色素が抜けきり、白い塊となったバロンの体に吹き荒れていた魔力が吸収されていく。さらに体が膨張するかと思ったが、それとは逆のことが起きた。体が細くなっていく。背丈こそ、三メートルを優に超えているが、大木のように太かった手足は三分の一の細さとなる。それでも変貌するまえにバロンよりはだいぶ太い。


 唸り声をあげて老研究者が進化を果たしたその姿は、枯れた白樺のような化物だった。

 ニックが倒した上位種の【異界の住人】が蜘蛛型だったように、【異界の住人】の姿は例え人に似ようとも見るからに異形の姿をしていることが多い。異形といっても理解不能な化物の姿というのは稀で、その多くが誰もが知っている生物と人間の混合獣キメラの姿であることが多い。


 一方で、人型の【異界の住人】のように本当に人の形をした化物もいる。もし、バロンによって思考を奪われていなければ、人型の上位種は言葉を発したかもしれない。

 ニックは【異界の住人】と何度も戦ってきたが、変貌を遂げたバロンのような植物のような姿をした【異界の住人】を見るのは初めてだった。


「あなたは、いったいどんな【異界の住人】の因子を取り込んだと言うんだ?」


 もうバロンの姿は【異界の住人】ですらないのかもしれない。白い異形。ただ、それだけしか言葉が見つからない。

 誰もが変わり果ててしまった老人を呆然と眺めていた。ある者は思考が停止して動けず、ある者はあまりにもの変貌に呼吸すら忘れている。


 青年ですら、動揺を隠すことが精いっぱいだった。イリーナを抱きしめる腕の力が自然と強くなってしまう。

 その時だった。まるでニックたちを嘲笑うように、かつての面影を一切なくしたバロンの口が耳元まで裂けた。


 笑みだ。笑みを浮かべたのだ。三日月のように裂けた口で浮かべた形相は、とても笑みとは思えない。あまりにも恐ろしい。今まで見てきたなによりも恐ろしい化物だった。


「腹がぁ……減ったなぁ」


 老紳士であったときの言葉づかいなどかけらも残さず、唸るような声で空腹を訴えた。

 そして消えた。


「どこだっ! どこに消えたっ!」


 誰かの叫びが引き金となり、この場にいる誰もがバロンの居場所を探そうとした。


「あ……」


 腕の中にいたイリーナが、誰よりも早く化け物の居場所を見つけ震える手を上げ指さした。

 全員の視線が、そちらに向かう。


 そこには、人型の【異界の住人】がバロンの支配がないために、棒立ちとなっていた。そして、その背後に、人型を超える体格の化物が三日月の口を大きく歪めて覆いかぶさる。


 ごりッ、と固いなにかを噛み砕く音が耳に響く。バロンが【異界の住人】に噛みついたのだ。

 まさかの出来事に、誰もが驚愕する。ニックは顔を顰め、他の目撃者たちは目を背けた。


 あれほど硬く、やっと刀で腕を斬り落とすのが限界だった人型の化物が、いとも容易く食いちぎられてしまう。頭から肩までがバロンの口の中に消えた。残っていた片腕が、二の腕からなくなり地面へと音を立てて落ちる。


 石鉢でなにかを磨り潰すような音を響かせながら咀嚼を続けて、【異界の住人】をあっという間に飲み込んでしまった。バロンの口元から赤い液体がしたたり落ちてくる。人型の血だ。バロンの白い体に赤い血が紅のようによく映えた。


 一種の美しさすら感じてしまう醜悪な光景だった。

 いっそ悪夢であったのならよかったが、これは現実だ。まごうことなく現実なのだ。逃げることも、見て見ぬふりをすることもできない。そんなことをすれば、待っているのは餌となるだけ。


 腕の中で震えるイリーナに、バロンの視線が動いた。上手そうな餌を発見したとばかりに、大きな口が嬉しそうに歪む。


「――ひっ」


 彼女の小さな悲鳴と同時に、ニックが彼女を腕の中へ庇い、後方へと跳躍した。

 刹那、青年の腹部から鮮血が舞う。

 奇跡的なニックの判断が、目で追うことが困難なほど高速で移動した異形の一撃とかするだけで回避できた。


 二度目はない。このままイリーナを抱えたまま逃げることも戦うこともできない。だが誰に預ければいいのか判断ができない。

 サビーナはマーティンが負傷しているため、指揮を取らなければいけない。駄目だ。他の魔術師や警官では、バロンから守り切れない可能性が大きい。駄目だ。


 最も信頼できる実力の持ち主、ヴェロニカ・マージは意識を失っている。

 やはりこのままイリーナをニック自身が守るしかないのか、そう覚悟した時だった。

 バロンが青年の血がついた自身の腕を舐めはじめた。ぴちゃぴちゃと下品なほど音を立てて、鋭い枯れ枝のような爪と指を舐めていく。


 もう人間だったころの、知性も理性も常識も、すべて失っているとしか思えない行為だった。


「美味い、ああ、美味い。人間は美味い」


 異形はわずかに残った、研究者としての思考のなかでようやく理解することができた。

【異界の住人】が人間を食べたがる理由をやっと知ることができた。簡単だ。人間がとても美味しそうに見えるのだ。とてもとてもいい匂いがするのだ。

 極上のステーキを目の前にして、手をつけないなんて無理だ。


「とても美味い。血の味だけでこれだけ美味いなら、肉はどんな味だろう」


 ――喰わせろ。


 歓喜と欲望の咆哮をあげた。

 自らが【異界の住人】の因子を取り入れたことで、好奇心が満たされていく。だが、代わりに食欲が、空腹が我慢できないと悲鳴をあげる。


 人間が美味そうだということも大きな理由だが、【異界】から現れた【異界の住人】がこの世界に体を馴染ませるために、必要な糧としてこの世界の者を取り入れる必要があったことを本能でバロンは理解した。


 なにも人間を餌とする必要はない。人間が食べる食材だろうが、そこらにあるコンクリートだろうが構わない。

 しかし、人間が家畜を食べるように、【異界の住人】は人間を食う。もっともこの世界に馴染むために必要なエネルギーや魔力を蓄えているのが人間だからだ。人間は色々なものを食う。動物を、植物を食い、消化し栄養として蓄積する。


 そんな人間を食すことで、効率よく必要な物が摂取できるのだ。

 なによりも――美味いことが魅力的だ。

【異界の住人】にも味覚がある。好き嫌いもある。ならば、可能な限り美味いものを食いたいと思うのが本能と欲求だ。人間が、肉を料理という工夫を挟んで食事をするが、【異界の住人】はそのような手間は好まない。生で食べても美味い人間を好んで食うのだ。


 バロンは満足だった。満たしたい知識を満たせたと思った。すると、次の欲求が沸いてくる。貪欲に、果てもなく湧き上がってくる。


 ――食欲だ。


 進化したことでエネルギーや魔力を消費したせいか、それともこの体になったからか、人間のときに感じていたものとは非にならないほどの空腹感がバロンに襲いかかっていた。


【異界の住人】を少しかじった程度では空腹は癒えない。むしろ、中途半端に胃に入れてしまったことで、食欲が増してしまった。

 ニックの血は美味かったと思い出す。甘酸っぱいベリーソースのような錯覚さえ覚えるほど、癖になりそうな味をしていた。なによりも、豊富な魔力が血液から摂取できたのが嬉しい。


 これで肉を食えば、どれほどの快楽を得ることができるだろうか。

 研究者として満足したバロンは、次は【異界の住人】として食欲を満たさんとニックに襲いかかった。



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