第29話「異形」2





 バロンの狙いが、イリーナから自分へと移ったことを直感でニックは感じていた。

 少女を突き飛ばし、抜刀する。彼女が尻餅をつくのと同時に、金属音が響き渡った。

 襲いかかってきた異形の一撃を刀で防いだのだ。


「逃げるんだ!」


 視線をバロンから動かすことなく、声だけでイリーナに叫ぶ。しかし、視界の端で、彼女が恐怖に怯え首を横に振っているだけ。


「誰か、彼女を助けてくれ、お願いだ!」


 誰でもいい。自分が化物を押さえている内に、頼む。そうニック心から願う。


「私に任せて!」


 そして願いは通じた。聞き覚えのある、頼りになる声だった。


「ヴェロニカっ、大丈夫なのか?」

「ええ、痛覚は消しているし、補助魔術も使っているからしばらくはね。それよりも、私はいいから、その哀れな化物に集中しなさい。彼女は私に任せていいから」

「ああ、任せるよ、頼む!」


 復帰したヴェロニカが、ニックに声をかけてイリーナを抱えて距離を取った。これで、心配事がひとつ減った。安堵の息を吐きたくなるが、もっとも警戒するべき存在が目の前に口を開けているのでそんな暇すら与えてはくれない。


「喰いたい、喰わせろ、ニック・リュカオン・スタンレイッ!」

「食べたければ、力ずくでどうぞ!」


 可能な限りの魔力を身体能力に変換して、バロンの巨体を弾き飛ばした。

同時に青年は違和感を覚えた。もっと手こずるかと思っていたというのに、予想以上にバロンを力押しできたのだ。


 コンクリートを削り、弾かれた巨体と止めた化け物は再度ニックへと肉薄する。

 異常なほどの高速移動だが、先ほどと違い、目で捉えることは簡単だった。

 金属音が響かせて振り降ろされた白い腕を刀で受け止める。並みの刀ならば一瞬で折れていたはずだが、魔力で身体だけではなく刀も強化しているので、武器であり防具となっている。


 そして、また違和感があった。しかし、その違和感を確認する前に、バロンが体を放し、高速移動を始めた。直線では受け止められてしまうから、攻撃方法を変えたのだ。

 三度繰り返された攻撃は、今度は背後から。しかし、この攻撃も難なく受け止めた。


「なぜ、だッ?」


 理由は簡単だった。

 どれだけ速く動こうと、コンクリートを破壊して移動するので、体ではなく足元を見ればタイミングが予測できる。背後から襲われたとしても、その足音でどこからくるのかわかるのだ。


 もっとも、初見でこんなことをできる人間はそう多くない。

 本来なら、嫌味を込めてバロンに説明してやりたいと思うが、攻撃を受け止めることは可能でも、力比べは精一杯。不思議とニックのほうが勝っている現状ではあるが、おしゃべりをしている余裕はない。


 歯を食いしばり、受け止めている刀が折れてしまうのではないかと不安になるほどの力で押しつけられた青年は、化け物の巨体に蹴りを放つ。

 これもまた綺麗に決まり、豪快な音を立ててバロンが地面を転がった。


 ここでようやく、ニックは違和感の正体に気づいた。

 それは――バロン・トルネオが異形と化した体を使いこなせていないということ。

 攻撃ひとつ、移動ひとつとっても脅威だが、不慣れな体を使いこなせないバロンはニックに隙をくれるため対応できるのだ。


 無理もない。背丈は倍以上となり、視界も視点も変わったはずだ。原型を残さないほど変わり果てた姿を、変異した瞬間から使いこなせるわけがない。

 ニックの推測は間違っていない。彼にはわからないことだが、【異界の住人】の因子を取り込んだせいで食事を必要としていたバロンは、満足に食事をしていなせいで力が発揮できない。同時に、空腹だというのに目の前のごちそうにありつけない焦りから、戦いの経験がない化け物の動きをさらに悪くしてしまっていうのだ。


「殺してしまうなら、今しかない」


 ニックの声に、動くことができる魔術師と警官たちがいっせいに構えを取る。

 誰もがこの化物をここで滅ぼさなければいけないと心をひとつにしていた。もしも街へ解き放てば、餌を目の前にしてバロンが自重するはずがないのは明白だ。言うまでもなく、オウタウは間違いなく地獄と化すだろう。


 オウタウに住む人間として、それだけは許せなかった。

 警官たちは魔術が使えないにも関わらず、守りたい街と人々のために震える己を叱咤して拳銃を撃ち始める。魔術師たちは道を誤った魔術師を止めるために、なによりも魔術師としての本分を果たすために、数多の魔術を放ち始めた。


 誰もが恐怖で逃げ出したい衝動に駆られながら、必死に一歩踏み出す勇気を胸に攻撃を続けた。

 そして、彼らだけではない。ニックも魔力を今まで以上に高めて、鋼鉄の槍を数十本作り出し、バロンへと穿つ。

 胸を貫き、腹を抉り、額に貫通して、左腕を抉り落とす。腹と胸、そして足を貫いた鋼鉄の槍は地面にバロンを縫い付け動きを拘束する。


「畳みかけろッ!」


 誰かの言葉に、全員が応じてさらなる攻撃を続ける。警官がすべての銃弾を撃ち尽くし、魔術師が意識を朦朧とさせるほど魔力を消費して魔術を止めるまで、ひたすら攻撃の手は続いた。


 砂埃が舞い、バロンの姿が見えなくなる。慌てて、ニックが風の精霊に干渉して砂埃を取り払うと、地面に大きなクレーターを作り、槍に串刺しにされたバロンがボロ雑巾のごとく横たわっていた。しかし、


「腹が……減ったぁ……」


 生きていた。


 まるで何事もなかったかのようにクレーターの中から声が響く。痛覚がないのか、空腹という欲求しか持っていないのかと疑問が浮かぶほど、ボロボロな体になりながらも空腹を訴えた。


 誰もが声を失う。これだけの攻撃を食らってどうして平然としていられるのだろう。【異界の住人】でさえ、動きを止めていたというのに、バロンは体こそ大きく損傷しているというのに、ダメージを負っていないかのように動いている。


 一歩、また一歩と、クレーターを軽快にあがってくる。

 誰かが悲鳴をあげて、逃げ出した。ニックでさえ、この異様な光景に一歩後退してしまう。


 警官のひとりが、突然狂ったように絶叫して弾が尽きた拳銃をバロンへと投げつける。小さな音を立てて頭部に当たるが、蚊が止まった程度にしか思ってもいないのだろう。気にもしていないと無視された。

 そして、クレーターから戻ってきたバロンは、拳銃を投げた警官の前に立つと、三日月の口を深く歪ませる。


「やめ――」


 バロンがなにをしようとしたのか気づいたニックが叫ぶ。しかし、ニックの叫び終わる前に、恐怖で硬直した警官の上半身が消えた。喰われたのだ。

 絶叫をあげる暇もなく、噛み千切られ咀嚼され、絶命した。

 あまりにもあっけなく、ひとりの人間が食われて死んでしまった。


 バロンは口元から滴る血液を味わいながら、残っていた下半身を拾い口の中へと投げ込み食事を続ける。ごくん。と音を立てて飲み込んだ瞬間、今までの人生の中で感じたことがない快感が体の中を駆け巡る。

同時に、内側から強い力が沸き上がったのを確かに老人は感じた。


「あなたは、本当に人間をやめてしまったんですか?」


 ニックが呆然と呟くが、バロンは今さらそんなことを問うのかと笑う。

 もっと食べたい。もっと、もっと味わいたいという欲求が果てなく溢れてくる。

 満足するまで人間を食いつくしたい。

 もう、我慢することができなかった。


「実験は大成功だ! 私が進化した記念と感謝を込めて、これから食事会をすることにした。もちろん、食事は君たち人間だ。とても美味しそうな人間をたくさん食べよう。そして、どれだけ食事を続ければ、私が【最上位種】に至れるのか楽しみでしかたがない!」


 理解不可能な言葉があったが、それよりも食事会と称した人殺しを続ける宣言をしたバロンを、見過ごすことはできなかった。

 刀を構え、肉薄する。どこを斬れば痛みを与えることができるのか、どこを貫けば死が訪れるのか予想することもできない。攻撃するべき急所は、さきほどの魔術ですべて貫いている。だが、絶命することなく痛みも感じずに平然としている。


 しかし、朽ちた体は回復していない。ならば、四肢を斬り落とし動けなくすることからはじめよう。刀を横凪に振るう。動きを止めるために、足を切断するべくして放った斬撃は、


「なっ――」


 バロンの体に傷をつけることなく、弾かれてしまった。青年の腕が痺れてしまうほど、衝撃が返ってきた。

 さきほど放った鋼鉄の槍は刺さったといのに、刀が通らない理由がわからない。

 まさか、と嫌な汗が流れた。化け物はひとりの人間を食ってしまった。もしかしたら、そのせいで【異界の住人】として力を得たのかもしれない。


「どうした! ニック・リュカオン・スタンレイッ! お前の力はこの程度なのかッ!」


 無事な右腕が青年に向けて振りおろされる。

 刀を楯にして受け止めようとしだが、振りおろされた拳が先ほどと比べてあまりにも早く、動揺した。足と腰に力を入れて、右腕を受け止め――られずに地面へと叩きつけられ、コンクリートを砕いた。


「ニックっ!」


 ヴェロニカの悲鳴が聞こえる。飛んでしまいそうになる意識を、必死に繋ぎとめる。このまま気を失ってしまうわけにはいかないのだ。


「メインディッシュは取っておこう。まずは、オードブルだ」


 地面に倒れ動かないニックをバロンは素通りしようとする。だが、青年の腕が枯れ木のような足を掴み、力を込めた。感心したような声を化け物があげる。しかし、


「お前の番はあとだと言っただろう」


 ニックを蹴り飛ばし、彼らが作ったクレーターの中へと放り込んだ。坂を転がり、クレーターの中心まで何度もバウンドしていく。体を庇うこともできず、ただ無防備に青年は転がり続けた。


「どいつもこいつも、人を化物のような目で見ているのが気に入らない。私はこの姿になってはっきりとわかった。この姿こそ、人間が目指すべき進化の終着点だということを!」


 声高々に狂ったことをバロンは言う。

 反論する者はいない。声を発した瞬間、興味を持たれてしまうことを恐れて誰もが声をあげることができない。


 心の中ではどう思おうと、理性を総動員させて誰もが口を塞いだ。

 ヴェロニカもサビーナも同じだった。彼女たちは恐怖からではなく、ヴェロニカはイリーナを守るために、サビーナはニックが歯も立たなかった相手を無駄に挑発しないために、だ。


「ふん、つまらん。まあいい、なら私は行こう。どこへ、などと尋ねてくれるなよ。決まっているからな。私は、この進化した素晴らしい姿を知らしめるために、市街地へと繰り出そう。老若男女が集まる場所で、私という存在を見せつけるのだ! そして、市民は私を崇め、私の糧となることに喜びを表すだろう!」


 自分に酔ったように宣言する。まるで神になったと勘違いしているようにも感じ取れた。

 恐怖に怯え、硬直していた誰もが動き出す。

 バロンの言葉を無視できないと、再び勇気をもって動き出す。


 ニック・リュカオン・スタンレイという【異界の住人】を過去に三体殺した【超越者】でも勝てなかった、バロン・トルネオだった化物。

 恐れるなと言われも、それはあまりにも不可能だ。しかし、だからといって、この化物を人々の生活の拠点となっている街へと向かわせるわけにはいかなかった。


「この化け物をここから逃がすな!」


 サビーナもその想いは同様であり、自らも化物向かっていく。

 しかし、化物は彼女たちを嘲笑うと、どんっ、と音を立てて地面を蹴りき、その反動で高々に跳躍した。


「ヴェロニカッ!」


 高密度の雷撃をバロンに向けてヴェロニカが放つ。化物の足を捕らえたが、傷つけることはできず、地面へと落とすことさえできなかった。化物はそのまま街へと向かっていく。

 この場にいる全員が、絶望に襲われた。


「……追い、ましょう。追わなければ、いけない」


 だが、ニックはまだ諦めていない。絶望に四肢を絡め取られながら、必死にもがこうとしていた。

 クレーターの中から這いずり出てきた青年に、警官たちが駆け寄り肩を貸す。彼らの助けを得てサビーナのもとへと向かう。


「あなた……本当に大丈夫なの?」

「正直言うと、大丈夫ではありません。だけど、もう一戦くらいは戦ってみせますよ」

「……わかった。またニックに頼らなければいけないことが不甲斐ないけれど、今はそんなことを言ってはいられないの。だから、お願いするわ」

「ええ、お願いされました」


 頷き、肩を貸してくれていた警官に礼を言い、ひとりで街へと向かい歩き出す。

 途中、いつの間にか落としていた刀の鞘を拾って来てくれた警官から受け取り、刀を収めると、礼を言い前へと進む。


「ニック……、本当に戦えるの?」


 ヴェロニカとイリーナの前を通り過ぎようとして、言葉がかけられる。心配する彼女の言葉はもっともだった。

 ニックの身体は満身創痍をとうに超えていた。体中から血を流し、手術した傷も開いてしまったのか包帯を真っ赤に染めている。


 魔術による補助がなければ、痛みでのたうち回っているか、とっくに動けなくなっているかのどちらかだろう。いずれにせよ、このツケはあとで支払うことになるはずだ。

 後悔はしていない。病院を出るときに覚悟を決めていたのだ。後悔ならバロンを倒したあとですることにしよう。例え、そのとき後悔ができなくなっていたとしても。


「貧乏くじばかり、引かせてしまってごめんなさい」


 力ないヴェロニカの謝罪に、青年は足を止めて彼女と視線を合わせてぎこちなく笑う。


「そんなことないよ。僕は、今この瞬間だって貧乏くじを引いたなんて思っていない。やるべきことがあって、するべきことがあるなら、それができる人間が動かないといけないから」


 この一年間は、できることから目を背けていた。だから今くらいはやり遂げたい。


「今ならわかる。別に僕は、塾の講師を続けていたっていいんだ。だけど、誰かが困っていたときに、助けを求めていたときに、迷わず力になってあげることができる手段を捨ててしまう必要もないってことに、ようやく気づいたんだ」

「……欲張りね」

「ああ、僕は自分でも思っていた以上に欲張りだったみたいだよ」


 苦笑して、ニックはヴェロニカたちに背を向ける。

 まだ走り出せない。バロンから受けたダメージが抜けていない。本来なら動くことも危うく、体を引きずるようにしないと歩けない。


「ニック、死なないでね。私たちが駆けつけるまで、絶対に死んだら許さないわよ」


 言葉の代わりに、片手を上げて返事をした。


「……あの、スタンレイ、先生」


 ヴェロニカの声ではない。思わず、振り返ってしまった。声の主はイリーナだった。この場でニックのことを先生と呼ぶのは、塾の生徒である彼女だけ。


「ありがとう、ございました。助けてくれて、本当に、ありがとうございました」


 涙をこぼして感謝の言葉を伝える生徒に、講師として無理して微笑んで見せる。


「うん。もっと早く助けてあげたかった。だけど、生きていてくれて本当に嬉しかった。もう安心していいよ。僕があの化物にもう好き勝手させないから。悪い夢だったと思って――なんて言うことは簡単で無責任なのかもしれないけど、それでも早く忘れてしまったほうがいい。ヴェロニカ、彼女を病院へ。そして、家族に連絡を」

「わかっているわ。心配せず、任せて」

「大事な生徒を頼むよ」


 ニックは今度こそ、街へ向かった。

 勝たなければいけない。バロンの被害者をこれ以上出さないために。なによりも、多くの被害者を出し、あまつさえ生徒にまで危害を加えたことを、とてもじゃないが許せそうもない。


 一年ぶりに、頭が沸騰しそうなくらいの怒りを感じていた。

 この怒りを力に変えて、青年は歩き続ける。一歩一歩が早くなり、次第に駆け足となる。

 怒りという動力剤を得た彼はは、気づけば走り、ビルからビルへと飛び移るまで動けるようになっていた。


 ――次こそ仕留めてやる。


 その想いを胸に、ニックはバロンを追った。



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