第30話「異形」3
ニックが単身バロンを追いかけてしまったが、残されたヴェロニカたちもこのままではいられない。しかし、ただ闇雲に二人に追いついたところで、なにもできないのは明白だった。
彼だからこそ、単身で追うことができる。追いついたとしても戦うことができると、ここにいる誰もが信じているのだ。ゆえに、自分たちにしかできないことをしなければならない。
「イリーナさんだったわね。立てる? あなたを病院に連れていきたいの。ご家族にも連絡したいわ。もし、動けないなら私が抱えていくけど」
「立て、ます。大丈夫、です」
声こそ弱々しいが、はっきりとした意志でイリーナは返事をした。だが、衰弱している体はあまりいうことを聞いてくれず、ヴェロニカの手を借りてなんとか立ち上がる。
ゆっくりとだが、確実に歩いていると、事前に用意されていた担架を担いで警察官がきてくれた。
感謝の言葉を述べて、少女を担架に乗せる。
「あの、先生は、どうして?」
「ニックはあなたのお友達から事情を聞いて、一生懸命探していたのよ」
「そう、ですか……。お礼を、もっと言いたかった、です」
「なら、あとで言えばいいわ。大丈夫、きっとニックは無事だから。今はとにかく、体を休めて。ご両親にも連絡を入れるから」
「お願い、します」
その言葉を最後に、イリーナは気を失った。
攫われてからずっと心身ともに極限状態だったのだろう。どれほどの心労だったのか、本人以外わかるはずがない。
助けられ、横たわったことで緊張の糸が切れた彼女は、体と心を守るために意識を失った。
「悪夢に魘されなければいいけれど。ごめんなさい、じゃあ連れていってください」
もしかしたらトラウマになっている可能性だってある。ヴェロニカも家族が【異界の住人】に殺されてから長い間、悪夢に悩まされる日々を送った経験がある。【異界の住人】の餌になるために攫われてしまったイリーナが他人事のようには思えなかった。
今の彼女に必要なのは、病院で適切な処置を受け、家族と再会することだ。
「ニック、あなたは生徒をちゃんと救ったのよ」
届かないとわかっていながら、そう言わずにはいられなかった。
※
「被害者をすべて車に乗せなさい! バロン・トルネオが向かった方向と逆の病院に運ぶのよ!」
サビーナが部下たちに指示を飛ばしていく。
イリーナを見送ったヴェロニカはこの現場を見て、もう大丈夫だと判断し、ニックを追おうとして意識を取り戻しているマーティンを見つけた。
「マーティン、目が覚めたのね。具合はどう?」
「ああ、しくじったぜ。ニックが応急処置をしてくれたからよかったものの、いったいなにがどうなっているやら」
部下から自分が怪我を負い、意識を失ったあとの出来事は聞いている。だが、聞いたところで、理解の範疇を超えていた。
「それで、またニックひとりにお任せか。まったく、大の大人が情けねえ」
「私は追うわよ。そうだ、ちょうどいいわ。その怪我だと動くのも大変でしょう、無線を貸してくれない?」
「お前やニックのほうが俺よりも重傷だけどな。まったく、魔術師っていうのはどいつもこいつもありえねえことばかりしやがる。ほらよ」
「ありがと。でもね、魔術も完全じゃないの。私たちが痛みを無視しているのは確かに魔術のおかげよ。動くことができるのも、同じだけど、あとで無理をしただけの代償は支払うわ」
「そうだろうな」
「でも、代償を支払ってでも、今はやらなきゃいけないことがある。マーティンだって同じように魔術を使えたら、ニックを追うでしょう?」
「当たり前だ!」
「そういうことよ。じゃあ、私はいくわね」
「おい、ヴェロニカ。お前もニックも死ぬんじゃねえぞ」
ヴェロニカは頷き、彼に背を向ける。街へと向かう足取りはニックよりも軽いが、彼女も十分すぎるほどの怪我を負っているのだ。
マーティンは心配する。この現場で年長者の自分が怪我で動けないというのに、下から数えたほうが早い年齢の二人が化物を追っていってしまった。
あまりにも悔しく情けない。なによりも、不甲斐ない。
できることは、適切な指示を飛ばすことと、ニックとヴェロニカの無事を祈ることだけだった。
※
シャーリー・メンデスは自宅ではなく、父の職場から近い場所にあるホテルの一室にいた。
彼女の自宅には両親の仕事上、セキリティーが厳重となっている。だが、逃亡犯が街に潜伏ということを理由に、父親によって仕事でも使うこの必要以上に厳重な警備が備わっているこのホテルへと移されてしまっていた。
「……ニッくん今頃、どうしてるかな」
ひとつの原因として、勝手に家を抜け出してニックに会いにいってしまったことが大きいだろう。ひとりではなかったとはいえ、心配する親心を考えればしかたがない処置かもしれない。
ホテルの警備員だけではなく、家人兼護衛の人間が部屋の外にいてくれるので、安心だと言われている。だが、あまりにも厳重な対応に、まるで閉じ込められてしまう気分になってしまうのは気のせいとは思えない。
いささか窮屈に感じてしまうのは無理もなかった。
心配されるのは嬉しく思うが、シャーリーは父親の行動が符に落ちなかった。
このオウタウは大都市だけあって、犯罪は多い。凶悪な犯罪者も決して少なくはないのだ。だが、シャーリーの記憶では自宅を離れて避難するなど数えたくらいしか経験がない。
父親が狙われているのかと思いもしたが、予想外に普通に仕事をしているので違う。母親もそうだ。
そうなると、最近で今のような状況になったときは――【異界の住人】が出現したと報道されたときだ。
だいたい二年ほど前に、連続して【異界の住人】が出現する時期があった。その事件は市民に大きな動揺と混乱を与えたが、若き魔術師によって【異界の住人】は倒されて、嘘のように事態が収まったのは記憶に新しい。
結局、その若き魔術師が誰だったか最後まで報道されなかったが、当時はものすごく気になったことを今でも鮮明に覚えている。しかし、今ではすっかり過去の思い出となり、もう【異界の住人】が出現したことも嘘のように平和な日常が続いている。
シャーリーはそのときの父と、今の父の様子が似ていると感じていた。今の自分の状況や、なにかを隠している気がする父親を思えば、嫌でもそう思ってしまう。
はぁ、と大きくため息をついて大きなベッドに背を倒して大の字になる。はしたないかもしれないが、今ここに誰も咎める人間がいないので気が楽だった。
「……私、なんか変なことを考えちゃってる。そんな大事になっていたら今ごろ街は大パニックのはずなのに」
無駄にことを大きく考えてしまったのは、親友の失踪と、ニックが重傷重が重なってしまったからだ。
二人のことが心配なのは変わらない。
イリーナが失踪して一週間。ただの家出であればあとで笑い話になるだろう。普段は真面目ないい子だが、たまに無駄に行動力を発揮することがある親友を思えば、それも考えられた。
願望ではあるが、その内ひょっこりと戻ってくると思っている。
そして、もうひとり、通っている塾の講師でもあり淡い恋心を抱いているニック・スタンレイを想う。
塾の講師と生徒という関係だが、年齢だけ見れば一歳しか変わらない。お互いに学生なら先輩後輩になれていたのに、と不満を抱くことがある。講師として授業はおもしろくはないが、わかりやすい。授業が終わって話しかければ、少し大人びた顔を見ることができるのがシャーリーにとってささやかな楽しみだ。
何度か休日の街で、偶然を装って会い、一緒の時間を過ごしたりもした。食事をし、映画を見て、ショッピングも楽しんだ。講師と生徒という関係のため彼は気にしていたが、恋する少女にはそんなこと関係ない。もっと彼と時間を共有したかった。
シャーリーの女の感が正しければ、想い人ともっとも親しいサマンサ・ローディーも彼を異性として見ている。そんな気がしてならない。だからこそ、好意を隠そうとせず、アタックを続けていた。
しかし、シャーリーはあまりにもニックのことを知らない。
経歴も、どうして講師になったのかも。唯一知っていることは、かつて魔術師として活動していたことだけ。
そして、今、どうして重傷を負ったのか。なぜ、その体を引きずってまで病院を抜け出して戦おうとするのかも知ることができない。
その理由が自分にあるような気がしてならない。
イリーナのことをニックに相談して、彼が重傷を負った。両親がなにかを隠しているように、自分をホテルに避難させた。イリーナ、ニック、両親が、自分の知らないところでなにかが起きていることに関わっていると思うのは気のせいで済ませていいのかと疑問を覚える。
だとしたら、隠し事をされていることが辛い。蚊帳の外に置かれているのが嫌だった。
ニックに関してもそうだ。自分がイリーナのことを相談した結果、重傷を負ってしまった可能性があるというのに、なにも言ってくれない。言う価値もないのか、とネガティブな思考に陥ってしまいそうになる。
シャーリーはただ青年に話を聞いてほしかっただけだ。相談するべき人がいなくて、相談できるほど心を許せる人もいない。だが、彼は違う。信頼できるとわかっていた。
信頼する理由は簡単だった。かつて、シャーリーはニックに命を助けられているからだ。
彼はそのことどころか、少女のことも憶えていないが、彼女にとっては忘れることができない大事件だった。
そんな青年と塾の講師と生徒として再会したときには大きく驚いた。
気づけば目で追っていた。気になっていた。そして、淡い恋心に変化した。
恋をしている錯覚ではないかと思う人はいるかもしれない。しかし、シャーリーは自分の気持ちが本物であると自覚している。何度もその可能性を客観的に見て、本物だと確信したのだ。
信頼しているから相談をしてしまった。そして、今では後悔している。
相談してしまったばっかりに、魔術師としてではなく講師として生活していたニックを再び魔術師にしてしまったのではないかという不安もある。
病院の外で会ったことを思い出すと、胸がどうしようもないくらいに苦しくなってしまう。
怪我の理由こそ不明だが、普通の怪我ではないというくらいはわかる。
しかし、その怪我を負ってもなお戦おうとしているニックがあまりにも痛々しく、それ以上に眩しかった。
――魔術師というのは、あそこまで体を張って、命を賭けなければいけないのか?
――それともニックだけが特別なのだろうか?
きっと、答えは後者だろう。
シャーリーを護衛する人たちの中に魔術師もいるが、彼女が見たニックのように熱い意志をギラギラさせた瞳を持つ者はいなかった。
親友が行方不明だというのに、不謹慎だとわかっているが、少女は改めて青年のことが好きなのだと自覚してしまった。
ニックに会いたいと思う。そして、それ以上に、どうか無事でいてほしいと強く願う。
イリーナにも、ニックにも早く会いたい。そう願った瞬間だった。
「――え?」
窓の外に、白い異形がいた。
真っ白ではなく、枯れて朽ちた大木のような化物が、白い体をところどころ赤黒く染めて、禍々しい瞳を向けてこちらを見ていた。
突然すぎる出来事に、なにも理解できずに本能に従ってシャーリーはただ悲鳴をあげた。
唯一、わかったこと。それは――白い異形がどうしようもないくらいに恐ろしいということだけだった。
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