第31話「異形」4




 バロンは最初こそ、自らの姿を知らしめるために街へと向かっていた。

 しかし、今は目的が変わっている。変貌を遂げた老人は飢えていた。腹が減ったという感覚を通り越し、どうしようもないくらいに人間を食べたくてしかたがない衝動が体内を駆け巡っている。だが、ただ人間を食べるだけでは駄目だ。満足することはできない。


 求めているのは良質な肉。一定以上の魔力を持ち、若い肉ならなおよい。

 枯れ朽ちたようにしか見えない体を動かし音を立てて高速移動を続けていく。以前の面影が全く残っていない顔にある鼻を動かして、美味しそうな臭いを探した。

 誰も、この化物の姿を気づかないことが奇跡だった。しかし、同時に悪夢でもある。


 オウタウ市民は、今この瞬間、すぐ傍に化物がいることを知らないのだ。

 知らなければよいことも世の中には存在するが、これは違う。知らなければならないことだ。なぜなら、知らなければ脅威から逃れることができない。知らないからこそ、すぐ隣に死が訪れながらいつもと変わりない日常を過ごしてしまう。


 もっとも、現状はバロンにとっては好都合だろうが。

 異形はいくつもの建物を移動して、ピタリと足を止めた。

 足元から食欲をそそる匂いがする。空腹を、飢えを、渇きを癒してくれる匂いがする。


 にぃい、と歓喜で頬が裂ける。

 マナーはいらない。ナイフとフォークも必要ない。もうすでに、皿にはご馳走が乗っかっている。あとはバロンがテーブルを訪れ、口を開けるだけでいい。


 怪物は飛んだ。待ちきれないと、涎を垂らして下降していく。

 建物の屋上から下降すればするほど、匂いが強くなる。飢えも狂わしいほど強くなり、頭の回路がどうにかなってしまいそうだった。


 そして見つけた。

 ホテルのスイートルームのベッドで物思いにふける少女――シャーリー・メンデスを見つけたのだ。


 絹が裂けんばかりの悲鳴があがると同時に窓を叩き割り部屋へと侵入する。

 彼女の護衛が扉を蹴破って部屋に入り、絶句した。見たことがない化物がいれば誰でもそう思うはずだ。しかし、飛び込んできた護衛には前情報があった。【異界の住人】が現れていることを知っていたのだ。とはいえ、まさか自分たちの目の前に現れるとは思ってもいなかったのだろう。


 敵を目の前にして動きを止めるとは愚か者のすることだ。護衛ならば、呆けている間に、シャーリーを部屋から逃がすべきだった。しかし護衛の二人は動けない。

 バロンには、二人がただの前菜に見えた。

 護衛として用が立たないどころか、対して美味そうにも思えない。せいぜい、前菜がいいところだ。だが、食べたいという衝動を堪えて、拳銃を構えていた男をひとり、その怪力を持って圧殺した。


 悲鳴があがる。

 バロンはいささか驚いていた、ニックには受け止められてしまった拳が、こうも簡単に人の命を奪ったことに。同時に納得する。これが普通なのだと。ニック・リュカオン・スタンレイが異常なのだと、わかっていたつもりだったが改めてそう思った。


 もうひとりの護衛は女だ。必死に魔術を放ってくるが、先ほど相手にした有象無象の魔術師たちのほうがまだ強力な魔術を使っていた。

 所詮、護衛ではこの程度だろうと、女を掴み握りしめる。バキバキと骨が砕ける音が腕に伝わるのが楽しかった。シャーリーの悲鳴と合わさり、実に心地がいい演奏だと錯覚さえしてしまう。


 目をむき出しにして、死にたくてもまだ死ぬことができない魔術師は、口から大量の血をあふれさせながら化物の口へと投げ込まれた。

 生きたまま喰われてしまった魔術師を見て、少女から何度目になるのかわからない悲鳴があがった。


 口の中で必死に、死にたくないと叫びながら前菜がもがく。無駄だとわからずに、なんとかして助かりたいと足掻き苦しむ。無駄な努力をするべきじゃないと、バロンは慈悲の心を抱きながら、彼女を噛み砕いた。


 繰り返し噛み砕き、口腔に甘い汁が溢れ、頬が蕩けそうになる。残念なのは、数回噛まなければ魔術師が死ななかったことだ。魔力で身体を強化したせいだろう。とっさの判断は悪くなかったが、結果として地獄のような苦痛を伸ばしただけだ。

 顎の力がもっと強ければすぐに楽にしてあげられたのにと、食材を苦しめたことを心の中で謝罪をした。


 そして飲み込む。

 消化は驚くほど早い。飢えているから、必要な栄養を欲しているからこそ、その場に応じて消化の速度を変えていくのだ。実に便利な体だと、驚き以上に感心させられた。


 すると体に変化が起きた。

 ずるるり、と耳障りな音を立てて、千切れていたはずの腕が生えて元通りとなる。穴が開き、傷ついた体が塞がっていく。内面上はさておき、外見上は回復したのだ。


 狂わしいほどの飢えの原因がわかった。体を直そうとしていたが、そのためのエネルギーが不足していたのだ。

 前菜を食べ終えて、体が回復した。飢えが少しだけ癒されたバロンは、もう悲鳴も上げずにただ恐怖に怯え方丸シャーリーへと視線を向けた。


「――ひっ」


 目が合い、老人が微笑みかけると、少女の喉から小さな悲鳴があがる。

 恐怖に支配された哀れな少女に、化物は枯れ木のような指を指し告げた。


「お前はご馳走だ。とても美味しそうな、ご馳走だ」


 化物が人語を話したという驚き、ご馳走だと言われた恐怖で狂ってしまいそうになるシャーリー。しかし、その中で、見つけた。

 見つけてしまった。


 異形の左足首に、女性物のバッグが引っかかっていた。シャーリーは、偶然にもそのバッグに見覚えがあった。

 学生が持つには少々大人びたファンションブランドのバッグ。イリーナの誕生日に、シャーリーがプレゼントした物と同じだった。


 まさか、と嫌な予感がする。どうしてか、こんなときだというのに自分のことではなく人のことを考えてしまう。そして最悪のことが脳裏に浮かんでしまった。

 もう自分の安否とかそんなことなどどうでもいい。ただ、悪い夢であってほしいと、ただ親友のことを想った。


 しかし――シャーリーを腹に収めるべく、一歩を踏み出したせいで、今まで閉じていたバッグが破れて中身が散らばった。


 偶然にも、散乱した物が彼女の足元まで滑っていく。

 悪意に意志があったとしたら、この瞬間、間違いなく悪意はわざとこのようなことを起こしたのだろう。


「嘘、でしょ?」


 すとん、と座り込んでしまった少女を見て、バロンは彼女から恐怖が消えていることを不思議と思い、足を止めた。

 シャーリーは足元に散乱する物の中から、小さな手帳を拾う。生徒手帳だった。


 恐る恐る開くと、そこにはイリーナ・バンの名前のと、彼女の写真が張られている。

 バッグが親友の物だと疑う余地なく、はっきりとした。だが、なぜ彼女のバッグがあの化物の足に引っかかっていたのか。行方不明のはずの彼女の持ち物が、どうして。


「いやぁああああああああああああッ!」


 感情が爆発した。

 怒りと苦しみと、悔しさにシャーリーは恐怖から抜け出すことができた。

 しかし、次は暴挙だった。


 近くに会った花瓶を掴むと、バロンに向かい突進する。

 正気の沙汰ではない。親友を失ってしまったショックで、我を忘れただけだ。

 しかし、バロンにとっては、大したことではない。一度は、なにごとかと様子を伺ってみたが、今はこうしてご馳走が自分の足でこちらにやってくる。

 口を開けて待っているだけでいい。

 バロンは彼女のサービス精神に、心から感謝した。


 シャーリーが一歩近づくだけで、発達した鼻腔を甘い匂いがくすぐった。喉からほとばしる絶叫は、甘美なソースのようだ。

 どんな味がするのだろう。期待に胸を膨らませて、ご馳走が口に入ってくるその瞬間を待つ。

 しかし、


「僕の大切な生徒を食べさせるわけにはいかない」


 耳障りな声とともに、口内を爆炎が蹂躙した。

 舌と喉が焼かれていく。絶叫さえあげられない。

声にもならない痛みとともに、バロンは部屋を破壊しながら、後退する。そして、今さらながらにこの体に痛覚があったのかと驚いた。

 声の主は、少女を抱きしめる。落ちくように、耳元でささやいた。


「ニッくん……。イリーナが、あの化物がイリーナを!」

「大丈夫、大丈夫だから安心していい。イリーナは無事だよ、ちゃんと見つけた。今ごろ病院で保護されているよ」


 だから大丈夫だと、シャーリーを落ち着かせるために、青年は何度もイリーナの無事を伝えた。


「本当? イリーナは、生きてるの?」

「本当だよ。生きている。消耗こそしていたけど、はっきりと意識もある。怪我もないよ」

「よがっだぁあああああッ!」


 瞬間、親友の生存に涙を溢れさせる少女は、青年の胸の中でわんわん泣き始めた。

 だが、そんなことをしている余裕は二人にはない。


「おのれぇえええええッ! 何度、貴様は私の邪魔をすれば気がすむんだっ! ニック・リュカオン・スタンレイィイイイイイイイイッ!」


 血のような炎を口から吐き出しながら、バロンは怨嗟の声をあげる。


「何度でも。僕が死ぬか、あなたが死ぬまで。どちらが先に根を上げるか我慢比べをしましょう」



 オウタウ最強の魔術師が、生徒の危機を救い、化物を殺すべく追いついたのだった。




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