第32話「ニック・リュカオン・スタンレイ」1




「場所を変えましょう、バロン・トルネオ。僕は、戦う過程で誰かを巻き込み傷つけるのは嫌だ」

「ふ、ふふ、甘い。甘すぎるな、ニック・リュカオン・スタンレイッ! 何事にも犠牲はつきものだ。私を止めたければ、犠牲を払ってでも止めて見せろッ! 最強の称号である、リュカオンの名を泣かせるつもりか?」

「人を殺して手に入れた称号なんて、ゴミ以下でしかない。永遠に泣かせておきましょう」


 最強の称号などに興味など持っていないニックに、バロンが笑う。愉しそうに、馬鹿にするように。


「貴様は矛盾している。強者だからこそ言える言葉を吐きながら、強者ではないふりをする。だが、弱者は貴様のようにはなれない!」

「僕のようになる必要なんてない。なってしまったら、おしまいだ」

「ほう。貴様は貴様自身がおかしいことをわかっているのか?」

「いいえ、ただ知っているだけです。……あまり自覚はないですが。さて、もういいでしょう。喋ることができるということは、口内に負った怪我も癒えたでしょう。時間稼ぎはお終いです」

「そこまで気づきながら、わざわざ付き合った理由はなんだ?」

「僕も時間稼ぎをしていました、ほら」


 ニックが部屋の入り口を指さすと同時に、十人を超える護衛たちが雪崩れ込んできた。本来の護衛任務ならば、過剰といえる武装を装備しているが化物を相手にするには足りないだろう。

 新たな餌に出現に、バロンが歓喜した。青年と戦うことは避けることができない。ならば、その前に力を蓄えようと口を開けて飛びかかろうとして、できなかった。


「なぜだッ!?」

魔糸ましという魔術を知っていますか? 医療が進歩する以前に戦場で使われていた魔術です。敵を捕縛するときや、物資が足りない戦場での医療行為に使われていた、魔力の糸です」


 いつの間にかバロンに向けて両手を突き出すように掲げているニック。彼と偉業の間には、青年の言う魔糸があるらしいが、誰ひとりとしてそれを視認することはできなかった。


「護衛の方々、早く彼女を連れて行ってください!」

「は、はい! さあ、お嬢様こちらへ!」

「ニッくんはどうするの!?」

「心配しなくてもいいよ。全部終わらせるから」

「戦うのッ? 嘘でしょ、ちょっと待って!」


 叫ぶシャーリーをあえて無視をした。彼女はニックのもとへと駆け寄ろうとするが、そんな暴挙は護衛が許さない。少女が叫び続ける。青年は一度だけ振り返り、


「ブラフマー魔術師派遣会社の、サビーナ・ブラフマーに連絡してください」


 そう言い残して、窓から飛び降りた。

 不可視の糸がバロンを引っ張り、体を支配されていた白い化物もまたニックとともに落ちていく。


「落ち着いてくださいお嬢様、彼なら大丈夫です!」

「どうしてそんなことがわかるのよ! 無責任なことを言わないで!」


 護衛の無責任な言葉にシャーリーが怒りの声を放った。あのような化物とたったひとりで戦おうとしているニックを放っておけるはずがない。

 自分のことなど構わないから助けにいって、そう言おうとした少女が口を開こうとするが、それを遮り彼女を抱きかかえていた護衛の魔術師が声をあげる。


「わかるからこそ、言っているのです! 彼は、ニック・リュカオン・スタンレイ。オウタウで、いえ魔術師の中で最強の称号を持つ魔術師なのです。私たちでは比べ物にならない、立っている次元が違う魔術師なのです!」

「……うそ。だって、ニッくんは塾の講師で……」


 魔術師だということは知っていた。だけど、最強の魔術師の称号を持っているなんて初耳だった。信じられない、と驚きで硬直する。しかし、それでもニックがひとりで化物と戦わなければいけない理由にはならない。


「お気持ちはわかります。私たちも同じです。ですが、残念ながら、私たちの実力では足を引っ張るだけです。彼に言われた通りに、サビーナ・ブラフマーに連絡を取りましょう」


 シャーリーたちの声が上から聞こえてくる。ニックは笑みを浮かべた。

 二名の犠牲が出てしまったが、偶然にも巻き込まれてしまった大切な生徒を助けることができた。バロンに喰わせなかった。

 だから僕の勝ちだ。そう思うことにした。そして、次も勝利する。否、次で終わらせる。


「聞こえただろう、ニック・リュカオン・スタンレイ! 貴様は最強の称号に興味がなくとも、誰もが貴様を最強の魔術師として畏怖する!」

「それは僕にとってどうでもいいことですよ。今はただ、あなたを殺す。それだけです」

「このまま地面に叩きつけるか? その程度で死ぬなら、とうの昔に貴様に殺されているぞ?」

「僕だってその程度のことであなたを殺せるとは思っていません。だから、あなたのためだけにとっておきを使いましょう」

「それは光栄だ! 最強と名高いリュカオンの魔術師が私のためだけに魔術を披露してくれるというのか! ならば私はその魔術を撃ち破り、勝利してリュカオンの称号を得てみせよう!」

「こんな称号、欲しければいつでも差し上げます」


 ニックは手に握っていた魔糸を手放す。バロンの拘束が若干緩まるが、抜け出せるほどではない。魔糸自体が、青年の膨大な魔力によって構成されているのだ。廃れてしまった魔術だが、その頑丈さはこうして変貌した老人を拘束し続けているのだから説明するまでもない。


 魔糸に注いでいた魔力を自らの体に循環させる。身体強化をするときよりも、多い魔力を早く強く体内に循環させていく。循環が続くと、体内に力が発せられた。その力を対外に出し、自らの力にする――剛力招来ごうりきしょうらい

身体強化魔術の中でも上位に位置する魔術であり、使用者に名前の通りに剛力をもたらす魔術だ。


 ただし、魔力消費も激しく、大怪我を負っているニックは極力使いたくなかった魔術でもある。しかし、ここで手段を選んでいるわけにはいかない。今はこの魔術が最善なのだ。


 大きく振りかぶった青年は、轟音とともにバロンの巨体を殴り飛ばした。

勢いよくホテルから離れて飛んでいく化物を追うために、建物の壁を蹴って最強が跳躍する。追いつき異形の巨体が建物にぶつかる前に、殺すつもりで蹴り飛ばす。


「がぁあああああああッ!」


 尋常ではない威力の打撃を食らい、バロンは痛みと苦痛の声をあげた。しかし、ニックは手を緩めようとはしない。少しでも早く、少しでも街から遠く離すことだけを考え、殴り飛ばし、蹴り飛ばし続ける。向かう先は、海岸部だ。


 何十回目になるかわからない、打撃を食らわせ、青年は肩を大きく上下させて呼吸する。

 剛力招来はあまりに燃費のよい魔術ではない。本来は、ここぞというときに短時間だけ使う魔術である。ニックのように規格外の魔力を持っていなければ、こうして使いっぱなしなどできない。


 だが、もうその魔力も限界に近かった。バロンを拘束している魔糸ももうすぐ破られてしまう。だが、もう少しで海だ。

 視界に青色が見えた瞬間、ニックはわずかに気を緩めてしまった。その瞬間、


「――がぁッ!」


 バロンの枯れ木のような首が伸びて、ニックの肩へと食らいついたのだ。強化されている体は噛み千切られることはなかったが、それでも肩からは血が吹き出し、化物が美味そうにその血を啜る。


 老人はもう、正気を失いつつあった。青年とともにホテルから離れる前から、飢えが再び強くなっていたのだ。しかし、体を拘束されてしまい、なにも口に入れることができない。


 空腹で胃が痛くなり、心がどうにかなってしまいそうになる。


 そんなときに見つけたのだ――最上級の餌を。


 ニック・リュカオン・スタンレイ。最強の魔術師であり、規格外の魔力をもつ、若い男。

 彼の血は実に美味しかったと思い出す。思えば、どうしてこんな美味しそうな餌を放っておいたのだろうかと不思議に思えた。食べてしまうつもりだったのに、先延ばしにし過ぎてしまった。


 餌が足りていない。体に魔力も栄養も、なにもかもが足りていない。体の維持が難しくなってしまうほどの飢えに襲われていることに、バロンは気づいてしまう。もうご馳走をあとにして前菜を、などと考えている余裕すらなくなる。


 しかし、ニックを食べることはできない。食欲をそそる匂いをこんなにも近くに感じながら、舌でその味を味わうことができない拷問はまさに地獄だった。悔しさと焦りから、徐々に正気を失っていく。もともと無いに等しい正気が、完全に失いつつあった。


 魔糸の拘束が緩んでも、幾重もの糸が体を邪魔して動かすことができない。


 いっそ、首が伸びればと願った。


 そして、その願いは叶った。バロン自身が驚いてしまった。本当に首が伸びたのだ。だが、その驚き以上に、食欲が勝った。青年の肩に食らいつくことに成功する。口内に甘美な味が広がっていく。甘く、酔ってしまいそうなほどの強い香りと味が、脳髄まで刺激していく。


 じゅるじゅると最強の魔術師の血を吸い続ける。病みつきになりそうな極上の味だった。人間であったころを思い出しても味わったことがない最上級の味だった。


 ごくん、ごくん、と喉を鳴らしニックの血液を嚥下する。


 正気が戻ってくる。冷静な部分が戻ってくる。

わずかに戻った正気の部分がおかしいと告げた。


「なぜだ、なぜ私はこんなに街から離れて海にいる?」

「ようやく正気になったみたいですね、だけどもう遅い。ここがあなたの終着点だ」

「なにを――」

「ヴェロニカッ!」


 肩の痛みとバロンの疑問をすべて無視して大声を張りあげた。


「準備ならできているわよ! まったく、せっかく合流したのに私をこんなことに使わせるなんて、ちゃんと全部を終わらせなさいよ」

「ありがとう、恩に着るよ!」


 掌底でバロンの顎を撃ち抜く。剛力を受けた老人は、その衝撃でニックの肩から口を離してしまう。甘美な味が消えていく。嫌だ、もっと味わいたいと再度首を伸ばすが青年の蹴りが胴体へと入り、地面へと激突した。


「そうそうあなたに食事をさせるわけにはいかない。サビーナさん、いますか?」

「いるわよ。坊やの可愛い生徒の護衛から連絡がきたわ。おかげでヴェロニカと連携が取れたのよ。あとでしっかりとお礼を言わないとね。海岸沿いはもちろん、この港からもすべて人間を遠ざけたわ。舞台は出来上がっているから、存分にやりなさい」

「ありがとうございます」

「だけど、覚悟はできているの?」


 確認するような問いにニックは頷く。


「もちろん、覚悟をしなければ倒せない相手と戦っているんです。なによりも、死んでしまうよりもずっといいですから」

「坊やがそう言うなら私からはもうなにも言うことはないわ。弁護はしてあげるから、存分にやりなさい」

「感謝します」


 短く礼を告げると、宙に浮く魔糸を掴みそのまま躊躇いなく引き寄せた。剛力によって魔糸ごとバロンの巨体が浮く。


「うぉおおおおおおおッ!」




 ニックはそのまま海面へ向かい、バロンを投げた。そして自らも飛んだ。



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