第27話「最強参戦」2




 しん、と耳が痛くなるような静寂に支配されたこの場には、化物の炭化された上半身と、半分炭化した下半身が無残にも転がるだけ。


「……そんな、馬鹿なことが」

 ありえない、と老人が力なく呆然と呟く。研究の成果が、【異界の住人】という人間への脅威が、たったひとりの人間によって倒されてしまった。

 ニック・スタンレイが過去に三度も単身で【異界の住人】を、それも上位種を倒したことのある【超越者】だと知っていながらも、この目で見てもなお信じられないという気持ちが強い。


 思考が追いつかない。単身で【異界の住人】と戦う壊れた精神と、実際に倒しきれてしまう実力を持つ青年を、バロンは理解できなかった。いや違う。そうではない。


 ――理解したくなかったのだ。


「……きひっ」


 自覚した。自覚してしまった。目を背けていた事実を認めてしまった。

 断言しよう――バロン・トルネオは、ニック・スタンレイが恐ろしいのだと。

 今まで培ってきた知識を総動員しても、理解することができない狂気と、壊れた精神、そして【超越者】の実力。すべてが理解の範疇を超えている。


 わからないことが恐ろしい。しかし、わかりたくもない。

 研究者であることを自負し、誇りとしているバロンだが、彼だけは最後の最後で興味を持つことができなかった。


 好奇心が恐怖心に負けてしまったのだ。


 そして、それは研究者としてのプライドをいちじるしく傷つけた。老人の心の壁が決壊してしまうほどに。

 どれだけ後ろ指をさされることをしてきても、決して壊れることのなかった心が、今この瞬間、音を立てて崩れていく。


「バロン・トルネオ?」


 ニックは、きひっ、きひっ、と壊れたように笑うバロンに言い表せない不安を覚える。彼だけではない、意識がありながら拘束されてしまい動けないサビーナたちも同様だった。


 しかし、そんなことはどうでもいい。そう判断したニックは、このあまりにも無意味に犠牲者が出てしまった戦いに終止符を打つべく、老人を仕留めようと彼に向かい肉薄する。


 刀を振り降ろし、彼の命を奪うための一閃。

 だが、刀を完全に振り降ろす前に、人型の【異界の住人】によって、弾かれてしまう。

 まさか壊れた笑い方をしている老研究者が、この状態で【異界の住人】を操ることができるとは思ってもいなかった。


 刀が弾かれたせいで、両腕を大きく上げた状態で宙に無防備になってしまう。彼のがら空きになった体に、鋭い人型の拳が放たれる。なんとか刀の柄で放たれた拳を弾いて後方へと飛ぶ。


 追撃を警戒したが、人型の化物はバロンの横へと並ぶだけで、ニックにそれ以上攻撃を仕掛けようとはしなかった。

 地面に着地して息を整えるが、視線だけは老人から動かさない。

 すると、バロンが懐から二本の注射器を取り出した。


「……今さら、なにをするつもりですか?」

「最後の実験ですよ。私は、この現状を打破するために、賭けに出ようと思っているのです」

「まるで他人事のような言い方ですね。賭け? いったい、どういうことですか?」

「見ていればわかる」


 ニックの言葉を遮り、バロンはまず一本の注射針を首筋に刺した。


「注射器の中には【異界の住人】の因子が入っている。これを体内に取り入れることで、私は人間を超越した存在しに進化することができる! もっとも、いくら私が研究者であっても、命を代償にするかもしれない研究を自分でするのには恐れがあったことは認めよう。しかし、今ここでこの実験をしなければ、私は研究者ではいられないッ!」

「やめろっ!」


 ニックが叫びとともに、バロンへと向かおうとしたが、時すでに遅い。

 彼の首筋に、注射針から【異界の住人】の因子が流れ込んでいく。


「あと一本」


 バロンは体内に異物が混入したのをはっきりと感じた。

 恐れはある。躊躇いも未だある。リスクはあまりにも大きすぎるために、見送り続けていた実験だ。しかし、今ここで行わなければ、バロン・トルネオはニック・リュカオン・スタンレイに永遠に敗北してしまう。


 彼を理解することを放棄した以上、理解する必要がなくなるほど彼を超越した存在にならなければいけない。

 ここで実験が成功すれば、目の前に広がる邪魔な障害を殺し尽くし、また実験が始めることができる。もっと研究するために。もっともっと研究をし続けるために。


「私は――化物に進化しよう。君のように狂った化物に」


 もうバロンの思考は冷静ではない。冷静だと自分自身では信じているが、実際には自分が思うほど人間は冷静なることはできない。

 とっくにバロンは壊れていた。研究者として、いや人間として。さらに追い打ちをかけるように、ここでニックによって心まで破壊された。


 ――そして、人間の皮を被った怪物となったのだ。


 ゆえに自分を犠牲にする実験も行える。後先を考えないのは、半ば自暴自棄になっているせいだ。


「やめるんだ、バロン・トルネオ! それは進化じゃない。取り返しがつかなくなってしまう。悪意に飲み込まれるな!」

「邪魔をしないでほしい。もしも邪魔をするなら、私にも考えがあるぞ?」

「あなたは、これ以上なにをするつもりだなんだ?」


 老人は口元を歪ませると、崩壊寸前のビルの中に一度引っ込んでしまう。逃げたのか、と一瞬思ったが、すぐに戻ってきた。しかし、ニックは戻ってきたバロンに大きく驚くことになる。

 老人に驚いたのではない。バロンが抱えている人間に驚愕せずにはいられなかった。


「確か君たちは、私が餌として捕らえた人間を救いたいはずだ。あえて言おう、邪魔をするなら手始めにこの子から殺そう、と」

「……ああ、そんな、イリーナ」


 このタイミングで、まさかの目的の少女を発見したニックだった。

 攫われているのはヴェロニカから聞いて知っていた。だが、まさかこんな見つけ方をするとは夢にも思っていなかった。

まるで質の悪い悪夢だ。


「……お願い、たすけて」


 涙を流し、消えてしまいそうな小さな声で懇願するように助けを請うイリーナを見てしまった以上、ニックは動くことができない。


「まさかとは思うが、知り合いかね? ならば都合がいい。じっとしているんだ。お嬢さん、君もだ。君に許すのは呼吸だけ、他は許さない。だが、君が約束を守り、あそこにいる青年が私になにもしなければ、私は君を傷つけることなく解放することを約束しよう」


 毒のように甘く優しい言葉にイリーナは何度も首を縦に振る。


「いい子だ。さあ、口をきくことを許そう。一度だけだよ。あの青年に、お願いするんだ」

「バロン・トルネオッ!」


 言葉を発することを許されたイリーナは、瞳に涙を溜めてニックを見た。攫われてから決してよい扱いを受けていない彼女の唇は渇き、バロンが抱えているとはいえ立っているのも辛そうだった。


 体と服も汚物で汚れているため、不快感はあっただろうが、それ以上に恐怖が大きかったはずだ。

 そして今、生きるか死ぬかの瀬戸際に立っている彼女の心情は、察するにあまりある。


 助けてあげると、無責任なことは言えない。どれほど早く動こうが、バロンが彼女になにかする方が早いはずだ。ニックがどうこうではなく、距離が絶望的に遠すぎるのだ。

 血が流れるほど強く唇を噛みしめて見守ることしか、今のニックにはできなかった。


「さあ、お願いをしなさい」

「……たすけて、ください、おねがい、します」

「よく言えました。では、これからはずっと黙っていないさい。いいね? よし、いい子だ。さて、ニック・リュカオン・スタンレイ! 私が殺したと思い込んでいた最強の魔術師よ。君はどうする? この哀れな少女を見殺しにして、私を殺すか? それとも、彼女を救い私の実験を見逃すか? 難しい質問ではないだろう、さあ答えなさい!」

「あなたを見逃します。イリーナ・バンの命だけは助けてください」


 ニックは即答した。彼の目的はイリーナの救出だ。バロンの実験も決して見逃せるものではないが、最優先するべきなのは彼女だ。

 決断した青年に、バロンは醜悪な笑みを浮かべ、満足気に頷いた。


「優しい、実に優しい魔術師だ。どうして君が最強の称号リュカオンを手に入れたのか疑問に思ってしまうほど、優しく危うい。私は君を心配してしまう」

「……あなたに心配される必要はない。僕は僕の進むべき道を歩いていく。それだけです」

「なるほど、ならば私も私の道を歩いていこう。では、契約だ。私は研究者だが、一応は魔術師でもある。実戦だけが、魔術ではないのでね。魔術師と魔術師の契約は、古の時代から神聖で絶対なものだ。いいね?」

「ええ、構いません」

「考え直しなさい、ニック! その男が口約その契約を守るはずがない!」


 サビーナが糸から抜け出そうともがきながら、ニックを止めるべく大声を上げる。

 しかし、青年は彼女の声を無視した。


「失礼な。契約を違えることはしない。では、契約をかわそう。口約束ではあるが、誇り高き魔術師同士の契約だ! 私、バロン・トルネオと――」

「僕、ニック・スタンレイは――契約する」

「契約内容は、私が最終実験、つまりこの残り一本の注射を自分の体に刺すことを黙認する。代わりに、私はこの人質となっている少女に危害を加えることなく解放する」

「内容確認しました。この契約を、僕は受け入れます」

「では、契約成立だ」


 バロンがイリーナを抱いている手を放すと同時に、人型の【異界の住人】が彼女を片手で攫う。


「ひッ」


 少女が短い悲鳴をあげたのも束の間、人型はビルから飛び降り、ニックの前へ連れて着地した。


「大丈夫、イリーナ・バン。僕は君を助けにきた。どうか、落ち着いて。君に危害は加えさせない。だからもう少しの間、我慢してほしい」

「まだ動くな、ニック・リュカオン・スタンレイ。いいいかな、私が実験をすると同時に、彼女を解放する。もちろん、その【異界の住人】に危害を加えないでほしい」

「わかった。約束しよう」

「君が話の通じる人間でよかったと心から思うよ。きっと彼女もそう思っているだろう」


 満足気に頷くバロンを忌々しく睨みつけるニック。

 だが、契約を交わした以上、イリーナのために動くことはできない。


「それでは、最終実験を始めよう」


 人型の異界の住人から、イリーナが解放される。すぐに、ニックは彼女を抱きしめて庇うように、後方へと下がった。



 そして、バロンは自らの首筋に注射器を突き立てた。


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