正しい魔術の使い方

飯田栄静@市村鉄之助

第1話「開幕 〜事件の始まり〜」



 塾の帰り道、少女は息を切らして夜道を走っていた。

 街のネオンと大人たちの歓声が他人事のように聞こえ、孤独を感じる。


 ――いや、孤独ではない。


「誰か、助けてっ」


 路地裏を走る少女の背後には、恐ろしい化け物が追いかけてくる。

 親友に助けを求めようとしたが、すでに携帯を落としていることに気づくと、少女は涙を流して声を大にした。


「お願いっ、誰か助けてぇっ!」


 絶叫とも等しい懇願の声は、夜の街の喧騒にかき消されていく。

 誰一人気づいてくれない。絶望が少女に襲いかかる。

 どこかに逃げなければ。化け物から守ってもらうなら警察は駄目だ。魔術師に、魔術師に助けてもらわないといけない。


 だが、比較的平穏な人生を歩んできた少女には、殺伐とした魔術師に縁はない。両親であれば違ったのかもしれないが、愛する家族は今ここにはいないのだ。

 長い時間、走り続けていたせいで、ついに足に限界が訪れる。


「きゃああっ」


 アスファルトの上に倒れこんだ少女は、膝や肘が擦りむいたことなど気づかない。それだけの余裕がないのだ。


「もう、追いかけっこは終わりかな?」

「――ひぃっ」


 路地の暗闇から、ひとりの老人の顔が現れた。

 自分を追いかけてくる元凶の登場に、恐怖に顔を歪ませた少女は失禁してしまった。


「君のような若者の元気な姿を見ていると、私まで若いと勘違いしてしまうね。いやはや、恥ずかしいものだ」


 老人は親の湧く笑顔を浮かべて近づくも、少女は小さな悲鳴をあげて後ずさるだけ。


「あまり恐れないでくれると嬉しい。私だって傷つくのだよ。まあ、いつの世も、若者に嫌われるのは老人の役目かな。さて、君ともっと楽しい時間を過ごしたいのは山々だが、実験をしなければならないのでね。お開きにしよう」


 少女は、一瞬、解放されるのかと思った。

 しかし、そんな思考が見当違いだったとすぐ知ることとなる。


 ――ずんっ。


 低く重い音を立てて、何かが近くへ着地した。


「いやっ、いやぁあああああっ」


 来た。来てしまった。化け物が、あの化け物がついに追いついた。

 老人に背中を向けて、膝をついたまま逃げ出そうとした少女は、自分の体が浮いたことに絶句し、恐る恐る振り返る。


「いゃああああああああああぁっ」


 すると、彼女の襟首を化け物が掴み持ち上げていた。


「こらこら、女性に乱暴は感心しないよ。彼女は、君の糧となるのだから、誠意を持って接しなさい」


 化け物に老人の嗜める声が届いたかどうかはわからない。少女の扱いがよくなることはなかったが、もうどうでもいい。


「神様、たすけて」


 ついには神に助けを求め始めた少女に、老人が顔を歪めて微笑む。


「神などいない。ゆえに、世界にはこんなにも悪意が蔓延しているのだよ。だから私はその悪意から人々を守りたいのだ。たとえ、どんな手を使ってでも」


 老人の声は、少女に届かない。彼女はもう、考えることを放棄してしまった。

 これ以上の恐怖に、幼い心が絶えることができなかったのだ。


「おや、静かになってしまったね。まあ、丁度いいだろう。さて、我が隠れ家にお招きしよう。君は、選ばれたのだ」


 老人が高々に声をあげ、踵を翻すと、少女を掴んだ化け物も後に続く。

 人間を優に超える巨体と、生理的に受け付けることのできない恐ろしくも醜い要望の持ち主。




 人はそれを、人類の敵――【異界の住人】と呼ぶ。




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