第16話「【異界の住人】研究者バロン・トルネオ」2




 マーティンを地面に降ろして息を整えたニックは、ここがまだ工業区域内であることを知ると驚いた。

とても長い時間、走り続けていたと錯覚していた。感覚が狂ってしまうほどに、あの【異界の住人】から逃げ出そうとしていたのだと自覚した。


「幸い、残ったみんなは一緒のようね」


 隣でサビーナが力なく呟く。彼女の声に周囲を見回したニックは、半分近くまで人間が減ってしまったことに今さらながらに気づいた。

 警官隊は人数を半分に。魔術師たちは、三分の一の人数しかこの場にいない。きっと殺されてしまったのだと思うと、自然と唇を噛み締めてしまう。


「サビーナ、どうするの? 指揮官はあなたよ、ここで判断しないと」

「……そうよね。私がしっかりしなければ」


 ヴェロニカに言われ、女帝は頬を叩いて自身に活を入れる。

 だが彼女とは違い、魔術師ではない警官たちは【異界の住人】という理解不能な化物によって恐怖を植えつけられてしまい、再び戦うことができるとは思えない。魔術師たちも、カチカチと歯を鳴らして震えているところを見ると同じだ。


 まだ戦えそうな人間は、ニックとヴェロニカのエークヴァル魔術事務所。ブラフマー魔術師派遣会社からは社長のサビーナと精鋭が数人だけ。

上位種二体を相手に挑むには人員が足りなすぎる。


「生きている人を逃がしましょう。戦うことができない人を逃がすと同時に、魔術協会へ状況説明と救援依頼をしなければ。事態は一刻を争います、もしもこのまま奴らが市街地に移動すれば、地獄が拡大してしまう」


 ニックの冷静な言葉に、誰もが息を呑む。


「こんなことは聞きたくねえんだが……【超越者】のお前でも無理なのか?」

「マーティンさん、僕はそんなに強い魔術師じゃありません。なによりも上位種を同時に二体も相手にするのは自殺行為です。この状況をひっくり返したかったら、シャスティン・エークヴァルを釈放し、コハクを墓の中から生き返らせなければいけませんよ」


 正直、青年は冗談を言っているつもりはなかった。【異界の住人】のそれも上位種を二体も相手にするならば信頼できる魔術師が揃っていなければ不可能だ。


 実際、マーティンたちもニックと同じことを考えていたようだが、現実はそうはいかない。シャスティンの出所は早まらない、コハクは生き返らない。仮に、事態を収めるためにシャスティンが早期釈放になったとしても、時間がかかってしまう。それだけの猶予はないのだ。


「仮定の話はやめましょう。ニック、勝ってとは言わないわ、時間稼ぎなら上位種を二体相手にできるかしら?」

「サビーナっ、あなたなにを!」


 囮になれと言わんばかりの女帝に、ヴェロニカが噛みつく。無理もない、弟に死ねと言われたようなものだ。


「ごめんなさい、ヴェロニカ。でも今は、感情よりも優先させなければいけないことがあるのは、あなたもわかっているでしょう」

「だからといって、ニックを捨て駒にするというの?」

「違うわ! 時間を稼いでほしいと言っているのよ!」

「それがどう違うのか、私は理解できないわっ!」

「構いません。僕が時間を稼ぎます。ただし、どれだけの時間を稼げるかはわかりませんよ?」

「ニックっ!?」


 女性二人の言い合いを黙って聞いていた青年が頷く。しかし、ヴェロニカが責める声をあげた。

 ニックにはそこまでしなければいけない責任はないのだ。事務所にも本格的に復帰したわけではない。あくまでも、行方不明の生徒を探すという名目で行動しているだけ。


 だというのに、【異界の住人】二体を相手に時間を稼いでほしいなど、頼めるはずがない。直接口にしていないだけで、死刑宣告したに近い。

 ヴェロニカはかつての師匠として、家族として、姉としてそんなことをさせることはできない。


 ここでニックを失ってしまえば、なんのためにこの一年頑張ってきたのかわからなくなる。


「ちょっと待てよ、いくらニックだからって本当に足止めできるのか? さっき無理だと言ったばかりじゃねえか。手段があるならともかく、自分しかできないからくらいの理由じゃ死地向かわせることはできねえぞ?」


 ここで年長者であるマーティンが待ったをかけた。

 一度は戦えるか聞いた彼ではあるが、無理なら無理で構わないと思っている。もちろん、倒してくれるなら願ってもいないが、自己犠牲をさせたいと思っているわけではない。


「正直言えば、戦うのは厳しいです。だけど、誰かがやらなければいけない。なら、いちいち理由を考える方が面倒だとおもいませんか? 僕は戦う理由を探していましたが、そんなことを考えている時間が今は惜しい」

「だからってお前が犠牲にならなきゃいけない理由もないんだよッ!」

「だからといってっ! ここで、あなたたちが死んでしまう理由もないでしょう!」


 感情を剥き出しに怒鳴ったニックに、知己の警部も息を飲む。


「僕なら時間を稼げる。だけど、限界もあります。最初の一体と戦闘したときに魔力、体力ともに消費しています。五分です。五分だけ持つことができれば自分のことを褒めてあげられます。サビーナさん、五分間で撤退できますか?」


 たった五分間。その時間が、あっという間の短い時間か、それとも永遠のように長い時間なのかはわからない。あくまでも五分間持てばマシということでしかない。最悪の場合は一分もしないで死ぬ可能性もある。

 それだけ【異界の住人】の上位種と戦うということは、死が付き纏う。それが例え、過去に三度も単身で上位種の化物を屠った人間であったとしても。


「五分もあれば撤退はできるわ。ローディー警部、無線は持っているかしら?」

「すまん、車の中だ」

「いえ、あればいいと思っただけよ。五分間あれば、工業地域からは逃げることはできるけど、問題はそのあとよね」

「……魔術協会への支援要請、住民の避難か。正直、難しいだろうな。下手をすれば、今までのように混乱を避けるためにと言われてしまう可能性もある」


 苦い顔をするマーティンだが、その判断もやむをえないと頭ではわかっている。しかし心ではわかりたくない。


「ニック、心から申し訳ないと思っているわ。だけど、お願い。五分間だけ、時間を稼いで」

「引き受けました。ただ、僕もお願いがあります」

「聞くわ、なんでも言って」

「魔術師をしていたころからの癖で、アパートに遺書を用意してあります。机の引き出しの一番下。その引き出しの奥に、書いておいた遺書があります。それをお願いします」


 死を覚悟しているとも取れる青年の願いに、女帝だけではなく、ヴェロニカとマーティンや他の面々が息を呑む。


「……五分経ったら、逃げなさい。いいわね?」

「もちろんです。僕も好き好んで死にたいと思っていません」


 サビーナはニックを抱きしめると、ごめんなさいと短く謝罪した。

 責任感の強い彼女は、今回のことで例えニックが死のうが生きようが自分を責め続けることになるはずだ。


「ヴェロニカやシャスティンのこと、お願いします。一年も放っておいた僕が言うことじゃないかもしれませんけど」

「わかったわ、私の力がおよぶ限り、エークヴァル魔術事務所を助けると誓うわ」

「ありがとうございます」


 抱きしめていた力が強まるが、それも一瞬。サビーナはニックの体からゆっくりと離れた。


「俺は別れの挨拶も、謝罪もしない。お前はここで生き残る。事件が解決したら、家にパイを食べにこい。いいな?」

「ええ、もちろん。奥さんのパイは好きなので、今から楽しみです」

「なら約束だ。死んだら俺がサマンサたちに殺されちまうからな」


 それだけ言うと、地面に座り込んでいる警官たちに立ち上がるように指示を出し始めるマーティン。

 彼らしい、とニックは頬を緩ませた。


「ニック。本当にごめんなさい、私がニックを巻き込んでしまったのね」

「君が気にすることじゃないよ。僕はきっと、ひとりでもここへとたどり着いていた。それに、死ぬ気はないんだ。だからそんなに悲しそうな顔をしないで」

「だけど、ニックだけが危険な目に遭うなんて」

「言っておくけど、残るとは言わないでほしい。もしも君に残られたら、僕は君のことが気になって戦いに集中できなくなるから。ヴェロニカには、魔術協会へ支援要請を少しでも早くしてほしい」

「わかった。私もするべきことはするわ」


 泣き出してしまいそうな彼女にニックは頷くと、笑顔でよろしくと頼む。


 ――どんなに辛いときも、大変なときも、だからこそ笑顔でいないさい。


 まだ貧しくも母子二人で幸せだった幼少期に、母から教わった言葉を脳裏で詠う。亡き母の教えを守り、ニックは微笑んだ。


「魔術協会で落ち合いましょう。待っているからね」

「わかった。すぐに向かうよ」


 魔術師たちがサビーナの指示のもと、警官たちを抱えて魔術を展開していく。身体能力強化魔術を使い、この場から警官たちを抱えて逃げようとしているのだ。単純だが、魔力所費が少なくて効率的だ。

 マーティンも魔術師に抱えられる。目が合い、お互いに頷き合った。

 サビーナとヴェロニカも警官を抱えて、身体能力強化魔術を展開する。


「じゃあ、またあとで」


 軽く手を上げたニックの声に、二人は頷き、飛ぶ。

 仲間たちを見送り、青年は彼女たちと反対方向に飛んだ。次々と、ビルの屋上を走り、蹴って跳躍していく。


【異界の住人】とバロン・トルネオと会ったビルはすぐに分かった。この工業地域で唯一不自然に半壊しているからだ。音を立てずにその場所へとたどり着くと、老紳士は化け物を従えて悠然と待ち構えていた。


「お待たせてしまったみたいですね」

「いいえ、そんなことはありません。貴方には敬意を払わなければいけない。例えどんな形であろうと、魔術に関わるならば【超越者】であり最強の魔術師であるニック・リュカオン・スタンレイには最大の敬意と尊敬を」


 優雅に深々とバロンはニックへと首を垂れる。

 背後に二体の【異界の住人】を控えさせたまま、老紳士はあえてニックを待ち続けていたようだ。

 必死に逃げた自分たちを嘲笑うように、この場を動いていないバロンの真意が読み取れない。


 ここまでで一分。


「僕たち狙いはわかっているみたいですね。わざわざ付き合ってくれる理由を聞いても構いませんか?」

「時間稼ぎだということは考えなくてもわかります。逃げたいのなら逃げればいい、逃げる者を追うほど暇ではないのですよ。もちろん、貴方に敬意を払っているというのも嘘ではありません。ですが、やはり一番の目的は、貴方の持つリュカオンの称号が欲しい。なによりも、貴方はここへと戻ってくると思っていました」

「どうして?」

「半数となったとはいえ、警官と魔術師の人数はまだ多い。全員が逃げ切るためには、足止めが必要だ。戦わなければいけない、それも二体の【異界の住人】を相手に。そうなれば必然とニック・リュカオン・スタンレイが戦うことになるのはわかりきっています」

「……リュカオン、リュカオンか。僕は一度たりともその称号を名乗ったことはないのに。最強の魔術師が名乗ることを許されるリュカオンの称号、こんなもの欲しければ差し上げますよ」


 欲しくて手に入れたわけではない、最強の称号。

 ニック・リュカオン・スタンレイ。そんな名前は自分の名前ではない。


「僕の名前は、ニック・スタンレイだ。敬意を払うというなら、名前を間違えるな!」


 時間稼ぎをするために、青年講師は老研究者へと肉薄した。



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