第4話「一年ぶりの再開」3



「あなたが気に病むことではないわ。だけど後悔しないようにね」


 気を落とすニックに、サマンサはそう言い残して教室から出ていった。ひとり残された青年は、尊敬する二人の女性の言葉を噛みしめて悩む。

 もしも人生に分岐点があるのなら、今がそのときなのかもしれない。数多ある選択肢の中で数える程しかない大きく人生を左右する選択が、この瞬間に現れた気がしてならなかった。


 その選択はあまりにも重く、自分自身だけではなく周囲の人たちにも影響が与えてしまうかもしれない。

 誰かに自分のせいで迷惑をかけることはしたくなかった。

 あとで後悔する結果となっても、それが自分だけで済むならいい。しかし、他人の巻き込んでしまう選択だけはしたくはない。


 我ながらわがままな願いだと笑いたくなる。誰かに迷惑をかけたくないなどと、大それたことを言っているが、今でも誰かに迷惑をかけながら生きている。

 サマンサをはじめとした、講師の同僚たちには教えてもらうことばかりだ。向こうが迷惑とは思ってないかもしれないが、ニックにとっては世話になってばかりで申し訳ないと思っている。


 ヴェロニカだってそうだ。『エークヴァル魔術事務所』から去ったニックとは違い、一人だけ事務所に残った。

 決して当時の自分では真似できない、いやニックにははじめから事務所に残るという選択肢がなかった。そのせいで彼女が事務所を守ろうと努力していたことを忘れていた。


 もしかすると、もっとはやくヴェロニカは自分のもとを訪れたかったのかもしれない。だが、新しい道を模索し始めたニックを邪魔しないように、気を使っていたのかもしれない。

 シャスティンが出所することが決まったからこそ、再会を果たしたが、彼のことがなかったらどうなっていだろうかわからない。


「駄目だ。上手く頭が回らないよ」


 気が滅入ってしまいそうになる。

 本来ならシャスティンが出所することはとても嬉しいことだ。手を叩いて喜びたいはずなのに、素直に喜べない自分がいた。ニックはそんな自分に反吐が出そうになる。


 かつて父のように慕っていた男に対して、その程度の想いしかないのかと自分の浅ましさに失望した。

 思考が夜の海のような心の奥底に深く沈んでいく。考えたくないことばかりが、溺れるニックの足を掴んで離さない。呼吸ができずに苦しくなる。


「ニッくん!」


 いつの間にか目を瞑りうつむいていたが、聞き覚えのある声に弾かれたように顔を上げ、驚いた。


「まだ、帰ってなかったんだね。どうしたの?」


 酸素が肺に入ってくる。本当に溺れたような錯覚に陥っていたニックは、救ってくれた恩人に声をかけた。

 声の主は、廊下から教室の中を覗き込むように顔をだしていた。


 有名私立学校の制服を着崩しながら、素行の悪さを感じさせることのない、笑顔の似合う少女シャーリー・メンデス。いつも明るく愛嬌のある彼女だが、今は心配そうな表情を浮かべてニックを見つめている。つい先ほどまで楽しそうに話していた彼女の変化に、嘘のようだと驚いた。


「ねえ、塾を辞めたりしないよね?」

「……もしかして、話を聞いていたの?」

「ごめんなさい。でも、全部じゃないよ。はっきりと聞こえていたわけじゃないから。でも、ニッくんがやめちゃうかもってことは、なんとなくわかったの」


 気まずそうな顔をするシャーリーに青年は苦笑いをするしかなかった。かつて魔術師として戦いに明け暮れたこともあったというのに、魔術と関係ない生徒の気配ひとつ気づくことができなかったのだから。


 ここが戦場で、彼女が敵だったら死んでいたと思うと笑えてくる。

 今思えば、ヴェロニカの接近も気づかなかったので、それだけ熱く感情的に話しをしてしまっていたようだ。この平和な一年で、だいぶ魔術師としての感覚が鈍ったのだと痛感してしまった。


「別に怒ってないよ。講師はやめる気はないから心配しないで。一年しか働いていない僕が偉そうなことを言いたくはないけど、ここで辞めてしまうのは無責任だと思う」

「責任とか無責任とかじゃなくて、ニッくんはどうしたいの?」


 少女は頬を膨らまして不満げな表情を浮かべた。どうやらニックの答えが気に入らなかったようだ。


「どうって?」

「塾の先生を続けたいの? それとも、昔の仕事に戻りたいの?」

「僕は、塾の講師を続けたい、かな」

「はっきりしないなぁ、もう!」


 断言しなかったニックに、大きくため息をつく。教え子にため息をつかれてしまったニックは曖昧に笑うことしかできない。

 いつも笑顔の彼女が笑みを消して、真剣な表情を浮かべている。


「やめないで、ニック・スタンレイ先生。先生の授業、わかりやすいよ。みんなもそう言ってる。私もそう思ってる。先生の才能あるよ。だから、やめないで先生」


 普段の愛称ではなく『先生』と言ってくれたシャーリー。生徒からの真摯な訴えに、ニックは頷くこともできず、返事をすることもできない。

 どう声をかけるべきなのか。やめないよ、と安心させるべきか、それとも馬鹿正直に考えがまとまっていないと打ち明けるべきか悩んでしまう。

 少女は青年の困惑を察したように、言葉を紡いでいく。


「返事はしなくていいから。困らせるつもりはなかったの。私が勝手に、先生にやめてほしくなかっただけで、そのことを知ってほしかっただけなの」


 だからごめんなさい、と謝る少女に、ニックは謝る必要なんてないと言ってあげることしかできない。

 気の利いた言葉も、自分を偽ることも、気遣ってくれる教え子を元気づける言葉も浮かばない。塾の講師とはいえ、生徒に心配をかけてしまっていることを恥じることしかできない。


 今はただ、いつもの明るい君に笑顔に戻ってほしい。そう思うだけ

 泣きそうに表情を歪ませたシャーリーを落ち着かせるために、柔らかな髪をそっと撫でることしかできなかった。



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