第9話「恩人と超越者と迷い」2



【超越者】という単語に、顔を顰めるニック。

 魔術師の中でも魔術師という枠に収まらない者がいる。どんな時代、どんな国でも。その人物たちを、畏怖と尊敬を込めて【超越者】と呼ぶ。

 そして、ニックもまた【超越者】のひとりだった。


 現代で【超越者】と呼ばれる魔術師には最低条件がある。それは、単独で【異界の住人】を殺害すること。つまり、ニックならば忌々しい化け物が相手でも単身で戦えるのだ。


「僕はそう呼ばれるのが嫌いだ。まるで人間じゃなくなったような錯覚を受けてしまうからです」

「誰もそんなことは言ってねえ。だが、お前ならあの化物を殺せるのは事実だ。もちろん、例え【超越者】といっても死を覚悟して戦わなければいけないことも重々承知している。その上で、あえて言わせてくれ、今回の事件にはお前が必要だ」

「サビーナさんが指揮をしているなら、僕は必要ありません」


 マーティンの求める言葉を、青年は頑なに拒もうとする。

戦いに赴けば、本当に魔術師に戻ってしまう気がしたのだ。なによりも、【異界の住人】を相手に戦うなど、生きて帰れる保証がどこにもない。

 塾の講師を続けたいニックに、そんな無謀なことができるはずがなかった。


「だが、『エークヴァル魔術事務所』も昨日から行動を共にしているぞ」

「――っ、まさか、ヴェロニカが?」

「そうだ。あの嬢ちゃんが、ブラフマー魔術師派遣会社と同盟関係にあるエークヴァル魔術事務所として正式に協力関係となった。今朝方、一件の資料をすべて請求されたばかりだ」

「たったひとりで馬鹿なことをっ!」


 まさかヴェロニカが【異界の住人】が関わる事件の関係者となったとは思いもしなかった。

 塾に会いにきたときに協力を求めるつもりだったのか。そう思ったが、違うと否定する。彼女なら、今のマーティンのように事情を話した上で協力を要請するはずだ。

 なら、塾から去ったあとに事件と関わったのだと推測する。


 どうして関わってしまったのだろうとニックは思う。同時に、関わらずにはいられなかっただろうとも理解できる。

 エークヴァル魔術事務所とブラフマー魔術師派遣会社は同盟関係だ。

かつては少数精鋭のエークヴァル魔術事務所に対し、ある一定ラインの実力を持つ魔術師を豊富に抱えるブラフマー魔術師派遣会社との連携はオウタウに知らない者はいなかった。


 だが、今ではエークヴァル魔術事務所は少数精鋭ではない。所員はたったひとり、ヴェロニカ・マージだけだ。彼女が事務所を守るために、仕事を受けたのだと想像するに容易い。


「彼女なら【異界の住人】を殺すことができます。僕は必要ない」


 しかし、ニックの口からは、発した自分自身が驚くほど冷たい言葉だった。


「確かにヴェロニカ嬢ちゃんは【異界の住人】を殺している。それは認めるさ。なら、なぜ誰も嬢ちゃんを【超越者】と呼ばない?」

「……それは」

「それはヴェロニカがとどめを刺しただけで、その前に他の魔術師の攻撃と支援があったからだ。もちろん、あれは嬢ちゃんの貢献が八割だった、それは誰もがわかっている。だが、決して単独とは言えない。なによりも、あの一度きりだ」

「そう何度も【異界の住人】は現れるものではないでしょう。毎週日曜日に決まって表れでもしたら、多くの人が世を儚んで自殺してしまいますよ」

「だろうな。俺もきっとそうしたくなる。実際にするかと問われれば、同じく死ぬなら戦って死にたいがな」

「そんなことはどうでもいいんです! あなたは、僕にどうしろと言うんですかッ!」


 思わず声を荒らげてしまうが、ニックにそんなことを気にしている余裕はない。

 彼が望んでいることはわかっている。だが、それでも尋ねなければいられないのだ。


「市民を守る警察官として、恥を承知で頼む。どうか、今一度魔術師として、あの化物と戦ってくれ!」


 深々と頭を下げて懇願の言葉を放ったマーティンに、ニックは返事ができない。

 彼の望む返事ができなかった。

 理由はわからない。断る理由も、戦わなければいけない理由も、なにひとつわからない。


「妹からお前が魔術師をやめようと迷っているのも聞いている。だけどな、ニック。お前なら、過去に三度も【異界の住人】を単独で殺したお前なら、今回被害も食い止められるはずだ!」

「僕は……」


 ――どうすればいいのだろうか?


 ニックは己に問う。すると、シャーリーの顔が脳裏に浮かんだ。そうだ、彼女は失踪した友達を心から心配していた。だから今、自分はここにいるのだ。そして彼女の友達の、僕の生徒のイリーナはもしかすると【異界の住人】の事件に関わっている可能性がある。


 あくまでも可能性でしかないが、最悪の事態まで考えてしまっている。なによりも、【異界の住人】を操る魔術師が本当に存在しているなら、手っ取り早く飼いならすには「餌」を与える必要がある。


 その「餌」とはもちろん人間だ。とく「餌」に決まりもなく、ランダムに攫って定期的に異界の住人に与える。

 ストックは必要だ。いつ化物が空腹を訴えるかわからないからだ。空腹になった【異界の住人】の恐ろしさは魔術師なら誰も知っている。なら、ストックは多ければ多いほどいい。


 そして、与え続け、飼いならすのだ。


 ――僕ならきっとそうする。


 それだけであの化物を御せるかどうかはわからないが、少なくとももっとも効果的なやり方ではある。きっと操り手である魔術師は、それ以上のなにかを考えだしたのだろう。さすがにそこまではニックには思いつかない。


 吐き気がした。【異界の住人】に「餌」として人間を与え飼いならそうとすることを、適切だと思ってしまった自分自身に。恥ずべき考えだと自己嫌悪する。


「マーティンさん、僕は――」

「ここに居ましたか、ローディー警部ッ!」


 ニックの声を遮って、ひとりの制服警官がマーティンを探して会議室へと飛び込んできた。


「探しましたよ、大変なことになりました! あ、あなたはニック・リュカオン・スタンレイ!? どうしてここに?」

「そんなことはどうでもいいから、その大変なことを早く伝えやがれ!」


 ニックの姿に警官が驚きの声をあげるが、マーティンが怒鳴って要件を早く言えと促す。


「は、はい! 【異界の住人】が起こしたと思われる事件現場が発見されました。しかも、ここ一ヶ月で失踪届が出されていた五人の遺体も、一緒になって見つかっています」

「――最悪だ」


 今この瞬間、二人が推測していた最悪の事態が、現実となった。


「すぐに現場に向かう、車を用意しろ!」

「はッ!」


 制服警官が会議室から飛び出していく。しん、と静まり返った部屋の中で、おもむろにマーティンが青年の肩に手を置き、力を入れた。


「ニック、悪意が声をあげて襲いかかってきたぞ」




 ※




 ニックはひとり、警察署から離れて大通りを歩いていた。このまま歩き続ければ、エークヴァル魔術事務所がある。もしかしたら無意識に向かっていたのかもしれない。


「シャーリーになんて伝えればいいんだ?」


 誰に聞かせるわけでもなくひとり呟く。まさかイリーナを含めたここ一ヶ月の失踪者は、【異界の住人】の餌にされている可能性があるなどと、口が裂けても言えるはずがない。


 そんなことを伝えてしまえば、親友の安否が気になり眠ることができなかった彼女はどうなってしまうのだろうか。

 なによりも、まだイリーナが本当に失踪しているかどうかもわからないのだ。もしかしたら家出をしていて、忘れたことにひょっこりと現れるかもしれない。そんな楽観的なことを思うも、すぐにあり得ないと笑う。


「世界はそんなに優しくできていない」


 そう都合よく事が運ぶとは微塵も思うことができなかった。世界が残酷だということは、ニック自身がよく知っている。

 考えて考え抜いた結果、シャーリーには警察は失踪事件としてイリーナの捜索をちゃんとしてくれるから安心するように、とメールで伝えた。


 嘘ではない。だが、大事なことを教えていない。汚いやり方だと、唾を吐き捨てた。

 結局、イリーナに関して、すべてシャーリーに伝えることはできなかった。当たり前だ。ニック自身、マーティンから特別に教えてもらっただけだ。その情報を第三者に教えるわけにはいかない。それ以上に、まだ可能性でしかないとはいえ、十六歳の少女に最悪の可能性を伝える必要はないのだ。


 メールで伝えた理由は、顔を合わせれば隠し事をしていることを見抜かれてしまいそうだったから。同じ理由で電話もできなかった。もしかしたら、昨晩は寝ていないと言っていたので眠っているかもしれない。家族がそばにいればきっと元気になる、安心できるはずだ。


 自分にそんな言い訳をして、心を楽にしようとするが、できなかった。

 ようは面と向かい合う勇気がなかっただけの話。情けないことだとニックは自嘲する。だが、それで終わるわけにはいかない。このままではいずれ、イリーナが無残な死を迎えるだけかもしれないのだ。


 ならば自分もマーティンのようにやれることをやるべきだ。だが、自分にいったいなにができるのかニックには判断できない。

 マーティンは【異界の住人】と戦ってくれと言ったが、過去に奴らを殺したことがあったとしても今回も同じようにできる可能性はない。誰も安全を約束してくれない。保障されているのは恐怖と死の恐れだけ、それが――【異界の住人】という化物だ。


 例え【超越者】などと言われようが、三度も【異界の住人】を殺していようが、恐怖が薄れることなど決してない。しかし、ニックは戦えないとは決して思わなかった。


「やっぱり俺には戦うことしかできないのかな?」


 いつの間にか小雨が降っている中、青年はエークヴァル魔術事務所の前に立っていた。

 三階建ての古く簡素な建物には、三年分の思い出が残っている。かつては賑やかだった事務所は、見る影もなくしんとしていた。扉に近づくと、鍵がかかっていない。

 大きく深呼吸をすると、ニックは携帯電話を取り出した。


「……もしもし、ニックです。サマンサさん、すみませんけど今日から数日ほど休ませてください。体調不良です。はい、嘘じゃないですよ。家で寝ていますから、本当です。じゃあ、すみませんが、お願いします」


 電話の向こう側でサマンサが大きな声でなにか言っていたが、青年は小さく謝罪して通話を切った。

 覚悟を決めよう。すべきことをするために。




 勇気を出したニックは、一年ぶりにエークヴァル魔術事務所の扉を潜ったのだった。




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