第18話「病院と見舞客」1
喧騒が耳に触る。不愉快だ、寝かせていてほしいと思った。
自分の名前を呼ぶ声が、四方八方から聞こえてくるが、返事をするのも億劫だった。
「ニック、ねえニック、お願い! 目を開けてッ!」
聞き覚えのある声が、自分の名前を必死に呼んでいる。
返事をしたくても、どういうわけか声の出し方を忘れてしまったように言葉が出ない。
「くそがっ! ガキひとりに大人が寄ってたかって頼った結果がこれかっ! 早く救急車を呼んできやがれっ!」
またしても聞き覚えのある声だった。まるで自身を責めるような大声で、後悔の言葉を吐き出す男の声だ。誰の声か思い出せない。
他にも口々に誰かが、自分のことを呼ぶ。
女性の声、男性の声、若い声、年老いた声、誰もが名前を呼んでくれる。
――それで、お前はそのままでいいのか?
懐かしい声に問われた気がした。
忘れたことのない、でも思い出すのが辛かった声が響く。
――そのまま死んでしまっていいのか?
――仲間のこと、恩人のこと、生徒のことを放って我のように満足して死ぬのか?
――お前は駄目だ。我のようになるな。
若干の後悔と、よくわからない感情が声とともに伝わってくる。
そうだ。死んでしまったら終わりだ。
ヴェロニカ、マーティン、サビーナ、サマンサ、シャーリー。今日会った人たちの顔が浮かんでいく。
――生きろ。
――生き続けて、勝て。
ああ。そうだね、そうするよ。
僕には戦って満足するなんて死に方はできない。だから、無様に生きて、生き抜いて満足するよ。
僕の名前は、ニック・スタンレイ。
死んでやるものか。
※
電子音が聞こえる。心臓の鼓動のように、一定のリズムを刻んでいる。
ここはどこだ、とニックは体を動かそうとして動かせなかった。薬品と清潔感ある匂いは病院特有のものだ。
夢を見ていたような気がするが、なにも思い出せない。ただ、懐かしい気分になったのはなぜだろうか。
「……僕は、生きて、いる?」
正直、生きていることが不思議だった。
最後のあの瞬間、確かに【異界の住人】から受けた一撃はニックの命を奪うに相当の攻撃だったはずだった。
だが、こうして生きている。生があることに感謝する。
あれからどういう経緯を経て、現在に至るのかわからない。できることなら、誰かから話を聞きたった。
なんとか周囲を見渡すが、誰もいない。わかったのは、ここが個室だということだけ。体には点滴の管が何本も刺さっている。
誰かを呼ぼうにも、ナースコールを押すほどの力も今はまだなかった。痛みはない。だが、感覚そのものがないことから麻酔が効いているような感覚だ。
意識だけがはっきりとしている。少し眠い気もするが、問題はない。
どうしたものかと困っていると、誰かが部屋へと入ってきた。
「ニック! ああ、よかった。目が覚めたのね!」
安堵の表情を浮かべたのは、ヴェロニカが現れてくれた。
「……ヴェロニカ、あれから、どうなった?」
「私たちは無事に逃げ切ることができたわ。全部あなたのおかげよ。だけど、魔術師協会が編成した討伐隊と引き連れて現場に戻ると、死んでいたあなたがひとりいただけ」
「死んで、いた?」
「そうよ。あなたは死んでいたのよ。一時的に、と言うべきでしょうね。ショックで心臓が止まっていたわ。最悪のことを想定して、念のために医療関係者はもちろん、その手の魔術師も派遣してもらっていたわ。その結果、あなたの心臓は再び動いた。だけど、重傷よ。内臓はやられているし、左腕は砕けて、右手も拳はしばらく使わないほうがいいわね。足も骨折しているわ」
心配と呆れが混ざった声を出されてしまう。
ニック自身も、そこまで重傷だったとは思わなかった。麻酔が効いてよかったと大きく安堵する。
「手術を受けて、あなたは半日も寝ていたのよ」
「そんな、に?」
「ええ。だから今はゆっくりと体を休めることだけを考えて。お医者様は完治すると言っていたから、無理だけはしないで」
「だけど、バロン・トルネオを野放しには、できない」
「わかっているわ。さっきまで、サビーナとマーティンもきていたけど、今は捜索に戻っているわ。あれから、姿をくらましているようだけど、最後になにがあったの?」
思い出すのは、バロンの腕を切り落としたこと。だが、それは失敗であり、本来なら殺しておきたかった。あと一歩だったはずなのに、追い詰めたのだと無意識に油断してしまったのだと今さらながらに後悔をする。
時間をかけてしまったが、なんとかあのときのことを伝える。それだけではなく、バロンとの会話や、【異界の住人】を思考による制御のことを事細かに教えた。
「血痕はあったから怪我をしているとわかっていたけれど、腕は見つかっていないわ。ニックの情報のおかげで、私たちでもなんとかできるかもしれないわ。問題は、負傷している状態で再び現れるかどうかね」
現れないほうがいい。ヴェロニカが言葉にこそ出さないが、内心でそう思ってしまう。だが、それはしかたがないことだった。誰だって、【異界の住人】という化物二体と、それを操る狂人と戦いたいなどとは思わない。
だからといって、ここで倒さなければ必ず被害は増え続けるだろう。例えオウタウの街以外だったとしても、バロンは同じことを繰り返すはずだ。
【異界の住人】を憎むヴェロニカは、そのことを容認できないだろう。
ニックだって同じはずだ。彼が探しているイリーナ・バンがバロンの手によって攫われている可能性があるのだ。餌にされていなくとも、このままではどうなるのか予想もできない。
ヴェロニカに後悔だけが押し寄せてくる。こんな大事になってしまうとは思ってもいなかった。これなら青年を巻き込むべきではなかった、と。
「ニック、ごめんなさい」
知らず知らずにヴェロニカの瞳から涙があふれ、自らの意志とは関係なくこぼれ落ちる。
「なに、を、謝るの?」
「巻き込んでごめんなさい。私はあなたに大怪我をしてほしいわけじゃなかったの」
「わかってるよ、そんな、ことは」
謝る必要なんてない。青年は途切れ途切れになる言葉で、自らの気持ちを姉のように慕う女性に伝えた。
生徒を探していれば、どちらにせよあの狂える老人に遅かれ早かれ辿りついていただろう。そうなれば戦うことは必須だった。なによりも、向こうがニックの持つ最強の魔術師の称号であるリュカオンを欲しがっていたのだ。ヴェロニカが悪いわけじゃない。
「気にしなくても、いいんだ。泣かなくてもいいんだ」
「気にするに決まっているわ、だってニックは死にかけたのよ?」
「それでも、だよ」
「私にはそんなことできない。私は、この一年間、ずっと必死だったの。ニックやシャスティンがいつでも帰ってこられるように、居場所を守ろうとしていたのよ。だというのに、帰ってきてほしいニックが死んでしまったら意味がないじゃない!」
彼女の独白に、ニックは彼女ひとりにこの一年の間、ずっと無理をさせてしまっていたのだと痛感した。
自分は悲しみに暮れて魔術から、仲間から逃げ出してしまった。それが悪いことだと思ったこともあるが、支えてくれたサマンサや塾の同僚講師たちのおかげでこれもひとつの選択だと思えていた。
その一方で、仲間であり姉であるヴェロニカがたったひとりで頑張っていたのだと、無理をしていたのだと知ると胸が痛くなる。
連絡のひとつくらいする余裕が自分にあればよかったに、と思わずにはいられない。
「ごめんね、ヴェロニカ。僕は、君に甘えていた。なにも連絡してこないことを、いいことに、僕は、新しい道を、探そうとしていた」
「それは悪いことじゃないの。ニックが見つけた道なら応援だってするつもりよ。……ごめんなさい、やっぱり戻ってきてほしいという想いが強いわ」
「わかってるよ。僕は、もう、逃げるのをやめようと思う」
「ニック?」
麻酔のせいで弱々しい声に、強い意志が宿るのがわかった。
「戦おう、ヴェロニカ。今は、それだけしかできない。あの男を、バロン・トルネオを、野放しにはできない」
「……ありがとう。その言葉だけで嬉しいわ。でも、あなたはもう戦わなくていいの」
彼女から発せられた言葉に、ニックは驚き目を見開く。
ヴェロニカにとって彼の言葉は嬉しかった。きっとまだ多くのことを迷っているはずだというのに、戦おうとする覚悟を決めてくれたのは、仲間として姉として素直に嬉しく誇らしくもある。しかし、今のニックに戦いは無理だ。いや、戦うことは魔術を使えば可能だ。怪我や傷を一時的には抑えることができるが、それでも戦ってほしくはない。
数時間前に死んでいた弟を発見したとき、自分の体を言葉にはならない爆発したような感情が駆け巡った。
その感情の多くは、自らを責めるものと後悔だった。
結果的にはニックは生きている。だが、次も同じように一命を取り留めることができるだろうか。否とはいわない。だが、魔術師の戦いにおいて絶対はないのだ。
それゆえに、ニックにはもう戦ってほしくない。そう思うのは、なにもヴェロニカだけではない。サビーナもマーティンも、成人したばかりの青年にすべてを押し付けて逃げ出さなければいけない自分たちの力不足を嘆いていた。
【異界の住人】を憎んでいる。あの化物を使って被害を出したバロンを許せない。その気持ちは変わることはない。だからといって、もうニックを関わらせたくないという気持ちも嘘ではない。
例え――ニックの力が戦いに必要だったとしても。
「あとのことは私たちに任せて、もう戦わないで。イリーナ・バンのことも私たちがなんとかしてみせるから、お願い」
「……ヴェロニカ」
ニックは彼女の言葉を受け入れることはできなかった。
自分のことを心配してくれているのは痛いほど伝わってくる。涙を流し、声を震わせている彼女を見てなにも思わないわけがない。それでも、戦うなと言われて頷くことはできない。
こんなボロボロの体にされても、戦う術はまだあるのだ。
戦うことができるなら、戦わなければならない。やるべきことができるのなら、やらなければいけない。魔術師として戦う覚悟ができた今のニックはそう思っている。
なによりも、バロンを相手にするなら、ひとりでも戦力は多いほうがいい。
嫌なのだ。もしかしたら、大切な人たちが死んでしまう可能性があるというのに、自分だけベッドで休んでいることなどできない。自分のことをみんなが心配してくれるように、ニックもまたみんなのことを心配していたのだ。
「ニック、お願いだから今回だけは言うことを聞いて」
「駄目だ、ヴェロニカ、僕抜きで、あの男と、戦わせたりはしない」
どちらも相手のことを想ったからこそ、両者とも主張を曲げることはできない。
「失礼するわよ。兄の代わりにきたけれど……ニック! よかった、目を覚ましていたのね!」
そんな時だ。お互いを心配しているのも関わらず、険悪な雰囲気に飲まれかけた病室に、サマンサ・ローディーが現れ、安堵の息を吐いたのだった。
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