第32話 許嫁とついに会った でも……
僕と母さんを車に乗せると、岡田さんはどこかに電話をした。
「今、お会いできました。はい。30分ぐらいで、そちらに到着すると思います。はい。分かりました。では」
どうやら電話が終わったようだ。
「では、出発します」
岡田さんがドアを閉め、しばらくするとリムジンが静かに動き出した。
リムジンの中はすごく広い。二列シートが向かい合わせになっていて、シートとシートの間には床に固定された小さなテーブルまで付いている。
テーブルがあっても足元は十分ゆったりとしており、母さんと向かい合わせに座っても全然狭く感じない。
シートもフカフカして、いかにも高級車という感じだ。
走っているのに車はほとんど振動がない。
やっぱりいい車は違うな。
テーブルの上には、数本のオレンジジュースの瓶とコーラの缶とグラスが二つ置いてあり、個包装されたクッキーが皿に盛られている。
どうやら食べてもいいようだ。
「隆司、何飲む?」
母さんは自分のグラスにオレンジジュースを入れて飲みながら、クッキーを食べている。
「このクッキー美味しいわよ」
すっかり寛いでいる。
僕なんかこんな高級車に乗ったことがないから緊張しているのに。
さすが元お嬢様。
「でも、高津さんって、母さんのところの養子になる前の旧姓じゃないの?」
お母さんのところの養子になったんだから高津じゃないんじゃないの?
「アメリカ国籍を取得して、登録するときに旧姓の高津に戻したみたいね。手紙に書いてあったわ」
そうなんだ。
それにしても母さんの旧姓はなんだったっけ。
「銀座だわ」
外の風景を見ていた母さんが呟いた。
僕も外を見ると日比谷公園が見えてきた。
車は日比谷公園が見えると、道路からホテルの敷地へと入っていき、玄関の車寄せに停まった。
蝶ネクタイをして、燕尾服を着たホテルの従業員がドアを開けてくれる。
僕が降りて、母さんが続いて降りる。
母さんが降りると、すぐに濃紺のスーツを着た背の高い黒人女性が近づいてきた。
「澤田様でしょうか?」
「はい」
母さんが返事する。
「お待ちしておりました。高津の秘書をしていますキャサリン・ベーカーと申します。どうぞ、こちらでございます」
キャサリンさんがきれいな日本語で話す。
キャサリンさんの案内でホテルの中に入ると、1階はかなり広いロビーになっており、右手にはフロント左手にラウンジがあった。ロビーを抜けた正面には階段がある。
キャサリンさんの後ろに母さん、その後ろに僕がついて歩く。
キャサリンさんは正面の階段の前に立ち、
「申し訳ございません。2階ですので階段でよろしいでしょうか?」
と聞いてくる。
「構いませんよ。私たちはそんなお上品な人間ではありませんから」
母さんは笑いながら言う。
2階に上がり、左のほうに行くと、フレンチレストランがあった。
フレンチレストランといえば、樹里と行ったことを思い出してしまう。
「高津の連れのものです」
キャサリンさんが店のスタッフに言うと、「お待ちしておりました。お荷物をお預かりします」と言った。
僕は卒業証書の入ったカバンを預けた。キャサリンさんに代わりお店のスタッフが案内してくれる。
テーブル席の間を通り抜けて奥へ行くと、引き戸があった。引き戸をスタッフの人がノックして、開ける。
中にはダークグレーのスーツを着た男の人と着物を着た女の人が2人座っていた。
僕と母さんは部屋の奥に案内される。
僕たちが部屋に入ると、3人が一斉に立ち上がった。
奥に入ると、母さんが椅子の左側に立ち、僕も母さんの隣の椅子の左側に立つ。
母さんは僕をちらりと見て、小さく頷く。
「ようやくお会いできて大変嬉しく思います。初めてお目にかかります。高津浩二です」
高津さんは50過ぎぐらいに見え、身長190センチほどで、肩幅も広く背広の上からでも分かる筋肉質のガッチリした体格をしている。口の周りと顎には綺麗に手入れされたヒゲが生えていて、鼻が高く彫りの深い顔をしている。
「妻の詩織、その隣が娘のアンナです」
母と娘は同時に頭を下げる。母娘は驚くほど似ていた。
2人とも身長170センチぐらいで、色白の瓜実顔、切れ長のやや細い目、鼻筋は通っているが、凹凸の少ない顔で、薄い唇のおちょぼ口という着物の似合う黒髪の和風美人だった。
違いをあげるとすれば、お母さんよりもアンナさんの方がやや目尻が上がっている。それを除けば、アンナさんが老ければそのままお母さんという感じだ。
「こちらこそ両親や家のことまでしていただいたのにご挨拶にも伺わず申し訳ございませんでした。澤田雪乃でございます。隣は息子の隆司です。今日、夫は仕事の都合がどうしてもつかず、参ることができませんでした。申し訳ありません」
母さんが頭を下げるのに合わせて僕も頭を下げる。
「それは残念です。ご主人とも一度お会いしたかったんですが。お仕事であれば仕方がありません。どうぞおかけください」
僕たちが座ると、飲み物が運ばれてきた。
大人たちはシャンパンのようで、僕とアンナさんにはジンジャーエールだった。
樹里とフランス料理を食べに行った時に見せてくれたように、僕は皿の上に載ったナプキンを二つ折りにして膝の上に乗せる。
母さんが教えようとするかのように僕の方を見たが、僕がしていることを黙って見ていた。
「乾杯しましょう」
高津さんの乾杯の声に合わせてグラスを目の高さまであげる。僕は母さんを横目で見て真似をした。
「今、私は6000エーカーの牧場と70エーカーの農場を持っています。それと食品加工会社を経営していて、いずれは日本に支店を作りたいと思っています。その準備をアンナの兄にやらせているところです。これも澤田さんのご実家が私を養子にしてくださったおかげだと感謝しています。ですから、なんとしてもアンナと隆司君に結婚してもらい、私の財産の一部でも受け継いでもらいたいんです」
高津さんはお腹の底から出ているような太く大きな声をしている。
「あなた、急ぎすぎですわ。まだ澤田様のお気持ちも聞いてないんですから」
奥さんが結論を急ぐ高津さんを諌める。
「私は隆司次第です。隆司がアンナさんと結婚したいと思うなら構いません」
母さんが答える。
そんなことを言われても会ったばかりで何も分からない。アンナさんが僕のことを気にいるかどうかも分からない。
僕は斜め前にいるアンナさんを見る。
アンナさんは僕と目が合うと恥ずかしそうに俯いてしまった。
樹里とはすごい違いだ。樹里なら目が合ったら僕を睨みつけてくる。
僕は頭を軽く振った。何を樹里とアンナさんを比べてるんだ。
スタッフの人が前菜を運んできた。
僕の前にも置く。一番外側のナイフとフォークを取った。視線を感じて横を見ると、母さんが心配そうに僕を見ていたが、安心したように自分の皿に視線を戻していた。
どうやら間違っていないようだ。これも樹里のおかげだ。
前菜はホワイトアスパラガスとモリーユ茸のソテー。次にビーフのコンソメスープと続き、魚料理にはオマール海老のココット、メインがシャリピアンステーキが出てきた。
どれも今まで食べたことのない美味しさだ。
デザートはクレープシュゼットが出てきて、最後のコーヒーを飲み終わると、母さんが僕を見た。
「天気もいいからアンナさんと日比谷公園でも歩いてきたら」
「そうだな。アンナ、行ってきなさい」
高津さんもアンナさんに勧める。
「はい。お父様」
初めてアンナさんの声を聞いた。女性らしいソプラノだ。
どこかで聞いたことがあるような気がしたが、きっと勘違いだろう。
樹里の低い声と比べたら遥かに女の子らしい声だ。
アンナさんが立ち上がろうとすると、後ろに立ってスタッフが椅子を引く。
僕も立ち上がり、戸口に向かうと、アンナさんが戸口のところで待っていて、僕を先に行かそうとする。
僕は手を出して、「どうぞ」と、アンナさんに先に行くよう促す。
「ありがとうございます」
アンナさんが囁くように言って先に出る。
僕はアンナさんの斜め後ろを歩いた。
スタッフの人が出口まで案内してくれる。
「エレベーターにしましょうか?」
着物だと階段は大変だろうと思って聞く。
アンナさんは紺地に松竹梅をあしらった振袖を着ている。
その着物がよく似合っている。紀夫も言っていたが、着物はアップにした黒髪が似合う。
後ろから見ると、うなじがいじらしいぐらい細くて可憐だ。
アンナさんを見て紀夫の言ったことは正しいと確信した。
「はい」
アンナさんの声は小さい。
エレベーターホールに向かう。エレベーターが来ると、アンナさんに先に乗ってもらい、降りるときも先に降りてもらう。
「優しいんですね」
アンナさんが褒めてくれた。
なんて優しいんだろう。樹里にはこんな言葉を言ってもらったことがない。
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