第31話 卒業式に許嫁の迎えが来た

 ついに卒業式の朝が来た。

 目が覚めて、時計を見ると、やっぱり5時だ。

 いくらもっと寝ようと思っても勝手に目が開いてしまう。

 完全に習慣になってしまった。

 特に、することもないので本を読むことにする。


 6時になると、スマホを手にして樹里の番号を表示する。

 この習慣は今日で最後にしよう。

 許嫁と結婚するんだ。それはもう決まっていることだ。

 樹里のことは忘れよう。僕の記憶から樹里のことをすべて消し去ろう。スマホの電話帳から樹里の情報を削除した。

 目から涙がこぼれ落ちた。流れ出る涙を全部絞り出すと、樹里のことを振り切るために僕は勢いよく立ち上がった。

 階下に行くと、これもいつものように朝食の用意をしている母さんの背中が見える。


「おはよう」

「おはよう」

 母さんが振り返った。

「……おはようございます」

 僕は思わず言い直した。

 見たこともない美人が立っている。


「どうしたのよ? ポカンと口開けて」

「ひょっとして母さん……?」

 自然と疑問形になる。

「当たり前でしょう。他に誰がいるのよ。自分の母親の顔を忘れたの」

 顔が違いすぎる。

 母さんは少し細い目で、目尻がちょっと下がっているタレ目、全体的に凹凸の少ない顔で、笑うと笑窪が出る。肩甲骨ぐらいまである髪をいつもポニーテールにして、背も低いため可愛いという感じがする。

 買い物に行って、僕の同級生に女子大生と間違えられてナンパされたぐらい見た目が若い。

 だが、今、目の前にいる女性はどう見ても目鼻立ちのはっきりした美人だ。


「どうした?」

 父さんがダイニングに入ってきた。

「母さんの顔が違う」

「顔が違う? おっ、母さん、今日は気合い入ってるな」

 父さんは母さんの顔を見ても別に驚いた様子を見せない。

「それはそうよ。隆司の卒業式だもん」

 それにしても気合いの入れようがすごい。とても自分の母親とは見えない。

「驚かないの?」

 僕は父さんに聞いた。


「母さんと出会った時はこの顔だったから、こっちの方が馴染みがあるんだが」

 そうなんだ。

「そりゃそうよ。他の女の子たちに負けたくなかったから、毎日気合いを入れてメイクしてたもん。それより、早くご飯食べて。母さんも用意しないといけないんだから」

「うん」

 僕は自分の椅子に座ると、なるべく母さんの方を見ないようにご飯を食べる。

 なんとなく知らない人と一緒に食べているようで気恥ずかしい。

「何照れた顔してるのよ。母さんに惚れてもだめよ。母さんは父さんのものだから」

 何をバカなことを言ってるんだ。それにしても今日の母さんは別人だ。


「すまんなあ。隆司。本当なら父さんも一緒に行きたかったんだが、どうしても仕事があってな」

 父さんが本当にすまなさそうに言う。

「大丈夫だよ」

「母さんに全部任せている。いいか。自分の気持ちを素直に言っていいからな。誰にも気兼ねしなくていいんだ」

「分かっているよ」

 僕は頷いた。



 母さんは後でくることになっているので、先に家を出た。

 いつもの通学路を通ると、樹里の住んでいた女性専用マンションの前を通る。

 樹里が出てくるのではないかと、ありもしない期待をしながら、マンションの入り口を見た。

 当然、樹里が出てくるわけはない。

 もうこのマンションの前を通る道は使わないようにしよう。胸が苦しくなる。


 学校の正門前には僕らの学校名を書いてその下に卒業式と書かれた大きな立て看板が立てられている。

 その看板の横には生徒指導の先生がいつものように立っていた。

「おっ、澤田、今日は1人か?」

「はい」

 僕は無理に笑う。

 どうやら先生は樹里が今日の卒業式に出ないことを知らないらしい。


 教室に入ると、紀夫が後ろを向いて、僕の席に座っている渡辺さんと喋っていた。

「よっ」

「おはよう。澤田君」

「おはよう」

「やっと卒業だなぁ」

 紀夫が嬉しそうに言う。

「なんか嬉しそうだな」

「そりゃそうさ。大学に行ったら思いっきり遊んでやる」

 今までさも勉強していたようなことを紀夫は言う。


「ところで、渡辺さんは大学合格したの?」

 渡辺さんが関西の大学を受験するとは聞いたが、合格したかどうかは聞いていなかった。

「合格したわよ。当然でしょう」

 当然なんだ。

「じゃあ、紀夫の近くに住むの?」

「違うわよ。私のパパが今度、大阪支社の社長になるから家族全員で引っ越すことになったの。だから、関西の大学を受けたのよ」

 なるほどね。別に紀夫と一緒にいたいから関西の大学を受けたわけじゃないんだ。

 それはそうだろうな。


「いつ大阪に行くんだ?」

 紀夫に聞いた。

「来週の月曜日には行くよ」

「そうか」

 紀夫とは人生の半分は一緒に過ごした仲だ。その紀夫がいなくなると思うと、寂しくなる。


「樹里からなにか連絡あった?」

 渡辺さんが心配そうに僕の顔を見た。

「ないよ」

「そう。どうしてるのかな」

 渡辺さんも少し寂しそうだ。

「石野のことだ。アメリカでうまくやってるよ」

「そうだろうな」

 僕も納得する。

 樹里はきっと婚約者と仲良く過ごしているだろう。

 そんなことを考えているとフツフツと嫉妬心が湧いてくる。

「ほら、早く廊下に出て並べ」

 担任の先生の声に全員廊下に出て並ぶ。

 そのまま式場である体育館に向かう。


 校長先生の挨拶、卒業証書の授与、在校生代表の送辞、卒業生代表の答辞と続き、卒業式は終わった。

 卒業式が終わり、教室に戻ると、担任の先生から卒業証書を一人一人受け取り、最後の終礼が行われて、僕の高校生活は終わった。


「終わった。終わった。隆司、帰ろうぜ」

 紀夫がカバンを持って立ち上がった。

「紀夫、大阪でね。澤田君、元気でね」

 渡辺さんが手を振って、友達と一緒に帰っていく。

「また、連絡するよ」

 紀夫が渡辺さんに手を振り返した。

「俺たちも帰ろうぜ」

 紀夫に促され、僕も立ち上がる。


「帰ってきたら会おうぜ。大阪にも来いよ。また連絡するし」

「そうだな」

 僕は頷く。

 夏休みにでも大阪に行ってみようかな。

 僕と紀夫は職員室に行き、お世話になった先生方に挨拶をしていく。

 その後、紀夫がクラブの後輩に挨拶に行くと言って、部室に行ったので、僕は司書の先生に挨拶をしに、図書室に行った。


 図書室に行く途中で、あのお下げ髪の1年生に会った。

「石野先輩は?」

「樹里は卒業式には来てないよ。アメリカに行ったんだ」

「そうなんですか?」

 お下げ髪の子はびっくりしたような顔をする。

「何か樹里に用事だった?」

「あの時のことを先輩に謝ろうと思って」

 泣きそうな顔をしている。

 おそらく樹里に告ったことを言っているんだろう。


「先輩の気持ちも考えずにあんなこと言っちゃって、怒っているんじゃないかと思って……」

 下を向いている。

「大丈夫だよ。樹里は怒ってないって言ってたよ」

「本当ですか」

 嬉しそうな顔をして、僕を見る。

 樹里ならまったく気にしていないだろう。

 樹里は気が強いが、本当は優しい。そんなことぐらいでは怒らない。

「先輩に会ったらよろしく言っといてください」

「言っとくよ」

 頭を下げると、お下げを揺らしながら走り去っていく。


 僕は司書の先生に挨拶を済ませ、陸上部の部室の前に行くと、ちょうど紀夫が出てきた。

「じゃあ、行くか」

 紀夫が僕と肩を組む。

 保護者は卒業式が終わると、体育館の前で自分の子どもがくるのを待っている。


「あっ、いたいた」

 紀夫が自分のお母さんを見つけて近づいていく。

「あれ、おふくろと喋っている美人は誰のお母さんだ?」

 紀夫に言われて、その女の人を見た。

「あれはうちの母さんだ」

 母さんが紀夫のお母さんと喋っていた。


「嘘。顔が全然違う」

 長い付き合いの紀夫は当然母さんの顔を知っている。

「気合いを入れて化粧をしたら、ああなるそうだ」

「本当か?」

 紀夫は信じられないという顔をしている。


 今日は薄いパープルのパーティードレスにシルバーのハイヒールを履き、いつもポニーテールにしている髪を下ろして、毛先をカールさせているのでいつもと違う大人の女という雰囲気を漂わせている。

 息子の僕でさえ信じられなかったんだから当たり前だ。


「あら、紀夫君。こんにちは」

 母さんが挨拶すると、紀夫が恥ずかしそうに下を向いて、「こんにちは」とボソッと言った。

「どうしたの。いつもは、『おばさん、お腹空いた。何かないの』とか言って元気があるのに、今日は大人しいじゃない」

 母さんが驚くように紀夫を見る。

 紀夫は去年ぐらいまではよく家に遊びに来ていた。


「この子、澤田さんがあんまり綺麗になってるから照れてるのよ」

 紀夫のお母さんが笑う。

 紀夫のお母さんも目鼻立ちのはっきりした整った顔をしているが、今日の母さんに比べたら、見劣りする。

「あら、惚れちゃあダメよ。私には夫がいるんだから」

 母さん、そればっかり。いい大人が健全な青少年をからかったらダメだよ。

 紀夫が真っ赤になってるじゃないか。


「帰りましょうか」

 紀夫のお母さんが笑いながら言った。

「どこにいるのかしら?」

 母さんがキョロキョロしながら、歩いている。

「誰か探しているの?」

「迎えをやるからって手紙には書いてあったんだけど」

 許嫁の家の誰かが来ているってことだな。

 僕も周りを見るが、それらしい人は見当たらない。


 正門の近くまで来ると、来賓用の駐車場に人が集まっている。

「どうした?」

 紀夫が顔見知りに声をかけた。

「見ろよ。あれ。リムジンだぜ」

 普通車2台半ぐらいの長さのリムジンが停まっていた。

 うちの学校は裕福な家庭の子どもが多いが、さすがにリムジンを持つほどの金持ちはいない。

「誰のだろう」

 紀夫も興味ありげに見ている。


 ブラックスーツを着た運転手らしい人が誰かを探しているようにキョロキョロしている。

「あら、岡田さんじゃない。岡田さん」

 母さんがその運転手らしき人に手を振った。

「お嬢様」

 岡田さんが母さんに気づき、近づいてくる。

 お嬢様?  誰が?


「母さん、知り合い?」

「ほら、学校に車で送り迎えしてもらってたって言ったじゃない。あの人がその時の運転手さんよ」

 あの話本当だったの?

「お嬢様。お待ちしてました」

 岡田さんが母さんに頭を下げる。

「もう、お嬢様はやめて。わたし、もうすぐ50よ」

「何をおっしゃいます。まだまだお若いです」

 岡田さんがお世辞を言う。

「じゃあ、あなたが迎え?」

「はい。今は高津様のところで働いています。どうぞ」

 母さんと僕はリムジンの方へ案内され、岡田さんがドアを開ける。

 みんなの好奇な目が突き刺さってくる。

 今日が卒業式でよかった。



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