第3話 初めて遅刻をしてしまった

「隆司、隆司」

 遠くで母さんの呼ぶ声が聞こえる。うるさいな。眠いんだ。もう少し寝かせてよ。

 僕はベッドに潜り込んだ。


「隆司。いつまで寝てるの。遅刻するわよ。早く起きなさい」

 遅刻? まさか。

 僕は慌てて頭の上においてある目覚ましに手を伸ばした。


 もう8時だ。

 まずい。

 いつもは5時に起きて、受験勉強をしているのだが、今日は全く起きれなかった。このままでは遅刻だ。


 学校の始業時間は8時30分。

 家から学校までは走って20分はかかる。


 僕はベッドから飛び起き、階段を駆け下りて、洗面所に飛び込んで顔を洗う。

「朝ご飯はどうするの?」

 母さんがキッチンから出てきて渋い顔をしている。

「いらない。遅刻する」

 朝ご飯を食べている暇などない。

「ちょっと、朝ご飯を食べないと力が出ないわよ。遅刻してもいいから食べていきなさい」

 遅刻はダメでしょう。

 母さんの声を背中で聞きながら、僕は部屋に入り、制服を着てカバンを持って玄関に出る。


「行ってきます」

 玄関を勢いよく飛び出した。

 8時10分。

 いつもはもう10分ほど早く出るのだが、この時間なら走れば十分間に合う。


 自転車で行けば、余裕で間に合うだろうが、うちの学校は駐輪場の関係で自転車通学は認められていない。

 校則を破るわけにはいかない。


 僕が全速力で走っていると、ちょうど家と学校の中間ぐらいのところで、前面に有名なネズミのキャラクターのついたピンク色のトレーナーを着て、ピンク色のズボンを穿いて赤い靴を履いた3歳ぐらいの女の子が「ママ、ママ」と泣き叫びながら歩いているのとすれ違った。

 たとえ遅刻するとしても、僕はこういうのを放っておくことができない。戻って行って、その子の前に回るとしゃがみ込んだ。


「どうしたの?」

「ヒック、ヒック、ママがいないの」

 どうやらママとはぐれたらしい。

「お名前はなんていうの?」

「チイちゃん」

 女の子が泣き笑いする。

「チイちゃんは何歳?」

 チイちゃんは右手の指を3本立てる。どうやら3才のようだ。

「じゃあ、お兄ちゃんと一緒にママを探そうか?」

 チイちゃんが頷いた。僕はチイちゃんを抱きあげた。チイちゃんは暴れもせずにおとなしく抱かれる。


「チイちゃんの家はどっちか分かるかな?」

 とりあえず、家に連れて行ってみようと思った。

「うん。あっち」

 チイちゃんは学校の方を指差す。

 チイちゃんが指差した方に歩き出して、1分も経たないうちにチイちゃんが「ここ」と、また指差した。


 そこは女性専用マンションだった。

 前に母さんと一緒にこのマンションの前を通った時、『ここは女性専用マンションで、全室2LDK以上で、24時間ゴミ出しが出来て、セキュリティもしっかりしているから家賃がかなり高額だって近所の人が言ってたわ。お金持ちのお嬢様とかがきっと住んでいるんだろうね』と、言っていた。


 女性専用マンションに男の僕が入っていいんだろうか?

 僕はマンションの前で立ち尽くしてしまった。

「ここ。ここ。入って。入って」

 チイちゃんが叫び出す。


 仕方なく僕はマンションの自動ドアの中に入った。

 マンションは二重扉になっていて、中にもう一つ自動ドアがあった。

 中の自動ドアは前に立っても開かない。横を見ると、オートロックの操作盤があり、鍵を鍵穴に差し込むか部屋番号を押して呼び出しをして、部屋から開けてもらわないといけないようだ。


「チイちゃんはお部屋の番号分かるかな?」

 チイちゃんは首を横に振る。

 3歳の子にそこまで期待するのは無理か。


 さてどうしたものか?

 チイちゃんを抱いて思案していると、何人かのOL風の女性や学生風の女子が胡散臭さそうに僕を見ては通り過ぎる。

 だんだんマンションの中で立っているのが気まずくなってきた。


 ふと上を見ると、操作盤の斜め上の天井あたりに監視カメラがあることに気がついた。

 セキュリティがしっかりしていると母さんが言っていたので、ひょっとしたら誰かがこのカメラの映像をマンションの中で見ているのではないか。


 僕はカメラに向かって手を振り、チイちゃんを指差した。

 監視している人に期待をする。

 だが、しばらく待っても誰も出て来ない。

 ダメかと思い、諦めかけたとき、ホテルのフロントウーマンのような格好をした女の人が出てきた。


「何かご用ですか?」

「この子が外で泣いていて、ここに住んでいるっていうんですけど、どこの部屋の子か分かりますか?」

 チイちゃんの顔をフロントウーマンに見せた。

「おねえしゃん」

 チイちゃんがにっこり笑う。

「チイちゃん。また、ママに言わずに勝手にお外に出たの? ちょっと待ってて。ママを呼ぶから」

 フロントウーマンが操作盤でチイちゃんの部屋を呼び出してくれる。


「大変ね」

 僕の後ろを誰かが声をかけて通った。振り返ると、うちの高校指定の紺のコートを着た女子の後ろ姿が見えた。


 誰だろう。このマンションに住んでいる女子がいるとは聞いたことがない。

「バイバイ」

 チイちゃんはその女子のことを知っているのか背中に向かって手を振っている。


「すぐ下りてくるそうなんで、少し待っててください」

 ホテルウーマンが振り向いて言う。

 しばらく待っていると、30代半ばぐらいの髪を腰まで伸ばした女の人が出てくる。


「チイちゃん、また勝手にお外に出て」

 女の人はチイちゃんを見て怒ったような顔をした。

「ママ」

 チイちゃんが手を伸ばす。僕はその女の人にチイちゃんを渡した。

「本当にありがとうございました。よく言って聞かせます」

 女の人が頭を下げる。

「いえいえ」

 僕は時計を見る。

 もう8時22分。

 ここから学校まで走って10分はかかる。

 まずい。

「急ぎますんで」

 僕はそう言うとマンションを出て、全速力で走る。


 死ぬ気で走ればひょっとしたら間に合うかも。

 しばらく走ると、先ほど声をかけてきたと思われる僕より長身の女子の後姿が見えてきた。

 そんなにゆっくり歩いていては遅刻するよと思いながらその女子を抜いていく。

 今は人どころではない。


 死ぬ気で走り、あと1分というところで校門が見えて来た。

 これならギリギリ間に合う。

 だが、学校の前には国道があり、この国道を渡らなければ、学校には着かない。

 そして、僕が国道に着いた時、ちょうど信号が赤に変わってしまった。

 信号無視などもともとする気はないが、国道は車の量が多く、信号無視をするなど不可能だ。


 信号はなかなか変わらない。イライラしながら足踏みをして、待つうちに学校のチャイムが鳴り始めるのが聞こえてきた。

 まずい。

 鳴り終わるまでに校門を通らないと遅刻になってしまう。


 信号が青に変わったとたん猛ダッシュをする。

 まだチャイムは鳴っている。

 僕が横断歩道を渡り終えたと同時にチャイムの音が消えた。

 校門が無情にも閉じられていく。


 校門の前に立っている生徒指導の先生がニコニコ笑いながら、僕を見た。

「はい。アウト。なんだ澤田じゃないか。澤田が遅刻とは珍しいな。何かあったのか」

 先生が珍しい生き物でも見るように僕を見る。

「いえ、単なる寝坊です」

 迷い子の家探しをしていましたと言い訳をしたいところだが、チイちゃんのお母さんやフロントウーマンに迷惑がかかるかもしれないのでそんなことは言えない。


「そうか。あとで反省文を出しとけよ」

 反省文は書きます。何十枚でも書きます。だから、遅刻したことを無しにして……くれないよな。

「はあー、分かりました」

 先生は僕の名前を手帳にメモしてから校門を開けてくれた。


 うーっ。

 唯一自慢の無遅刻無欠席が途切れてしまった。

「石野。また、遅刻か。何回目だ」

 先生の呆れたような声が後ろから聞こえてくる。

「……」

 何かボソボソ言う女子の声が聞こえた。

 きっとあのマンションに住んでいる女子だろう。


 あの女子は石野って言うのか。石野って名前はどこかで聞いたことがあるような気がするが、思い出せなかった。


 教室に入って、窓側一番後ろの自分の席に座ると、机に突っ伏した。

「どうした、隆司。遅刻か? 珍しいな」

 僕の前に座っている山崎紀夫が振り向いた。


 紀夫は小学校、中学、高校12年間で9回同じクラスになったという僕の人生のほぼ半分を一緒に過ごしたと言っても言い過ぎではない人見知りの僕にとっては気安く話ができる唯一の友人だ。


「ああ、最悪だ。今まで続いていた無遅刻無欠席が……」

 僕は机に突っ伏したまま固まった。

「それだけこだわっているならなんで遅刻したんだ?」

 紀夫が不思議そうに僕を見る。

「迷い子の家探しをしていた」

「お前らしいな。たしか、小学校と中学校の時もそんなこと言って遅刻したよな」

 紀夫が笑う。僕は小学生の時も中学生の時も遅刻をして、無遅刻無欠席を逃している。


「あれは違う。小学校の時はOL風の人が定期を落としたって言うから一緒に探してたんだ。中学の時はおばあさんが駅への道が分からないって言うから駅まで送ったんだ」

「お前は本当に呆れるほど人がいいな」

「困った人を見たらほっとけないだけだよ。あの国道の信号さえ青だったら間に合ったのに。ついてないよ」

 あの信号待ちさえなかったらと思うと、すごく悔しい。


「まあ、悪い後はいいって、よく言うからな。今日はきっとこれからいいことがあるよ」

 紀夫が慰めてくれるように言った。ところが、紀夫の言葉はまったく外れていた。

 今日はついてなかった。次から次へと悪いことが起こる。


 寝坊して慌てて家を出てきたために教科書を忘れてしまっていたり、せっかくやった宿題を家に忘れてきて先生に怒られたり、寝不足で頭がボーっとしていたためか体育の授業で転んで膝を擦りむいたりとさんざんな1日だった。

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