第34話 元許嫁が家に来た まさか……
4月になり、僕は大学生になった。
大学は高校と違って全て自己責任だ。
時間割も自分で作り、時間管理も全部自分でやる。次の講義がどこでやるかの指示はなく、全て掲示物などを見て動く。
大学生活には、なかなか慣れず、苦労したが、5月の連休明けには少し慣れてきて、少ないが友達もできるようになった。
5月の終わりになると、僕はバイトをするようになった。
ずっとしたかった書店のバイトだ。
レジをしたり、新しく送られてきた本を並べたり、期間の過ぎた本を送り返したり、店内を掃除したりとかなり忙しい。
コンビニでバイトをした経験が多少役に立つ。
高校の時の図書委員と違い、本を読むことなどはできないが、本に携わる仕事ができて嬉しかった。
バイトでもらったお金は昼食代や本代、滅多には行かないが友達との飲食代に使い、残ったお金は貯金した。
樹里に会いに行くための貯金だ。
僕は初めてのバイト代をもらった時、両親と一緒に樹里が連れて行ってくれたあのフレンチレストランに行った。
本当は紹介者がいないとダメなんだそうだが、樹里と一緒に来たことがあるのをスタッフの人が覚えていてくれて特別に入ることができた。
さらに図々しくも樹里のお兄さんがもし来たら、僕が樹里に会いたがっていると伝えてもらえないかと頼んだ。
スタッフは最初は渋っていたが、最後は根負けして、もし、樹里のお兄さんが来たら伝えるだけは伝えてくれると言ってくれた。
スタッフの人からなんの連絡もなく、やはり無理だったかと諦めかけた夏休みも終わろうかとする9月の終わりに思いかけない人が僕の家を尋ねて来た。
バイトが終わり、家に帰って、玄関に入ると、母さんと女性の笑い声が聞こえてきた。
玄関に黒いハイヒールがある。
誰だろうと思い、ダイニング兼リビングに入ると、腰まである黒髪の女の人の後姿が目に入った。
「あら、隆司、お帰り」
母さんが言うと、その女性が振り返った。
高津アンナさんだ。
「アンナさん、どうしたんですか? 日本にはいつ?」
「昨日、日本に来たところです」
相変わらず綺麗なソプラノの声で囁くように言う。
何か気まずい。
父さんが親戚付き合いをするようになったと言ったからまた会うことはあるだろうと思っていたが、こんなに早く会うことになるとは思ってもいなかった。
「せっかく、アンナさんが来てくれたから腕によりをかけて、夕食を作るわ。ちょっと買い物に行ってくる」
母さんは買い物に行ってしまう。
母さん、ひどいよ。2人っきりにするなんて。
アンナさんは俯いて何も喋らない。
「アンナさんは何かご用事で日本に来られたんですか?」
沈黙に耐えかねて僕は口を開いた。
「はい。隆司さんが私に会いたがっていると聞いて会いに来ました」
囁くような小さな声だったので聞き間違いかと思った。
「僕が? アンナさんにですか?」
アンナさんは黙って頷く。
僕はそんなことを言った覚えがない。
「誰から聞いたんですか」
「お父様が『Avec Plaisir』の店長に隆司さんが何か言ってきたら、兄に連絡してくれるように頼んでいたら、兄から隆司さんが私に会いたいと言っていると、連絡があったんです」
「ええー?」
どうして、アンナさんのお父さんがあのフレンチレストランの人にそんなこと頼んだんだ? それに僕はアンナさんのお兄さんを知らない。どうしてお兄さんがそんなこと言うんだ。
「なにかの間違いでは? 僕はそんなことを言っていません」
アンナさんが誰かと聞き間違えたと思った。
「隆司さん、ひどいわ。私のことを忘れられない。結婚したいって言ったじゃないですか。私を抱きしめて離したくないって言ってたのに。ひどい」
「そんなこと……」
僕は頭がおかしくなったのだろうか? アンナさんにそんなことを言った覚えも抱きしめた記憶もない。
初めて会ったあの日、僕ははっきりと断ったはずだ。それともあれは夢だったのか?
「ウフフ」
突然、アンナさんが笑い出した。
「まだ分からないの、隆司。相変わらず鈍いわね」
あの懐かしい樹里の低い声が聞こえた。
僕は驚いてアンナさんの顔を見る。
「私のことを忘れたの? 冷たいわね。隆司」
頭を上げたアンナさんの顔に樹里のあの何か良からぬことが思いついた時のニヤニヤ笑いが浮かんでいる。
「まさか。樹里?」
僕は信じられない思いで、アンナさんの顔を見た。
「そうよ。隆司の愛しい愛しい石野樹里よ」
「でも、顔が全然違う」
樹里の顔とアンナさんの顔は似ても似つかない。
「言ったでしょう。詐欺メイクだって。薄化粧はしているけど、今の顔がスッピンに近い顔よ」
「そうなの?」
僕はまだ信じられなかった。
「でも、性格も全然違う」
アンナさんはすごくお淑やかだった。
「私は中学のときに演劇をしてたって言いましたよね。劇でいろんな役をしているうちに、色々な性格の人を演じることができるようになったんです。劇のためのメイクを自分でしているうちにいろいろなメイクの仕方も覚えました。州の演劇コンクールで主演女優賞を取ったこともあるんです」
アンナさんに戻っている。
つまり、アンナさんは石野樹里という役を演じていたっていうことか。
「でも、名前は?」
学校では偽名や役名は使えないでしょう。
「私は二重国籍なんです。アメリカでは、アンナ・ジュリー・タカツで、日本では石野樹里が正式な名前なんです」
そういえば、アンナさんはアメリカで生まれたようなことを母さんが言ってたな。
「じゃあ、僕を騙してたんですね」
許嫁だということを隠して、僕に近づいて笑ってたんだ。
「決して、騙そうと思って騙してたわけではありません。父に許嫁がいると、突然言われて、そんな知らない人と結婚しろと言われてもどうしたらいいか分からないので、どんな人か会いたくて。でも、私の性格では、知らない人と会うのが怖くて、樹里という気の強くて、言いたいことの言える役になりきらないと会えなかったんです。ごめんなさい」
その気持ちはよく分かる。
いくら日本人とはいえ、アメリカで育ったんだから、住んだこともない国の見たことも会ったこともない男といきなり会うなんて怖かったんだろうな。
「でも、樹里とアンナさんが同じ人だとはとても信じられません」
あまりにも顔も性格も違いすぎる。いくら演技だと言われてもすぐには信じにくい。
「どうしても信じてもらえないんですね。メイクをしてきます。隆司さんは私より樹里のほうがお好みみたいですから」
少し嫉妬しているような目で僕を見たような気がする。
自意識過剰かな。
「いや。まあ……」
樹里も好きだが、アンナさんも好きだ。
「申し訳ありませんが、洗面所を借りていいですか?」
優しい声だ。とても樹里と同一人物だとは思えない。
「どうぞ。使ってください」
僕はアンナさんを洗面所に案内する。
「30分ぐらいかかりますけど、待っていただけますか」
アンナさんは今にも消え入りそうな声で話す。
「大丈夫です」
僕が言うと、アンナさんは安心したように洗面所に入った。
本当にアンナさんが樹里に変わるのだろうか?
着替えをしてアンナさんが戻るのをダイニングで今か今かと待った。
アンナさんが洗面所に行って30分ぐらい経った。
「隆司、どう?」
樹里の声がした。声の方を見ると、樹里が立っていた。
僕は声も出ない。
アンナさんのいうことは本当だったんだ。
「なんて顔してるのよ。わたしに会えて嬉しくないの?」
樹里が怒ったような顔をしている。
「嬉しいよ。樹里。でも、酷いよ。ずっと僕を騙して。婚約者がいるとか嘘を言ってからかってたんだ」
樹里は僕が自分の許嫁だと知っていながら、別の人物になりすまして僕を騙していたんだ。その上、婚約者がアメリカにいるなんて嘘をついて僕をからかっていたんだ。
「からかってないわよ。隆司が鈍いだけよ。わたしが許嫁だって分かるヒントをあげてたのに気づかないんだもん」
「ヒント?」
そんなものもらってたかな。
「アメリカにパパやお兄ちゃんがいるって言ったし、英語が喋れることも教えてあげたし、そもそも許嫁じゃないと、隆司と付き合おうと思うわけないじゃない」
樹里が大笑いをする。
凄い言われようだ。
「悪かったね。ああそうですよ。全然モテませんよ」
ええどうせそうでしょうよ。そんなこと言われなくとも分かってますよ。
「そんなに拗ねないの。本当のことだから」
樹里は傷口をさらにえぐるようなことを言う。
アンナさんの時とは凄い違いだ。
「それに婚約者がいるのも本当よ」
「やっぱり」
ガックリする。どんな婚約者か知らないが、誰であれ僕が勝てるわけがない。
「何落ち込んでるの。婚約者って、隆司のことに決まっているでしょう」
「僕?」
樹里の言っている意味が分からない。
「他に誰がいるのよ。パパが決めた婚約者って、許婚のことでしょ。全然イケメンじゃないし、カッコ良くもないけど、優しい人って言ったじゃない。隆司のことに決まっているでしょう。この間、ホテルで会った時も分かるように隆司がくれたピアスをつけて行ったのに全然気付かないんだもん。笑っちゃったわよ」
「そうなんだ」
あのアンナさんの耳で揺れていたピアスは僕が贈ったものか。あの時、アンナさんの肩が揺れていたのは泣いてたんじゃなくて笑ってたんだ。
「それに旅行の帰りに『また会いましょう』って言ったのに、泣きそうな顔するし」
「そんなこと言った?」
母さんに聞いたら、「さようなら」って意味だと言ってたけど。
「言ったわよ。“Au revoir”はまた会いましょうっていう意味の『さようなら』よ。二度と会わないんなら“A dieu”よ。常識でしょう」
そんな常識知りません。
でも、樹里とまた会えて嬉しい。
もう樹里を離したくない。
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