第30話 勝気なカノジョがいなくなり、僕は……
敷地の外に出ると道が分からなくなるので、ホテルの敷地内の庭園のようになっているところを歩く。
有馬は3月でもまだ寒い。歩いている人はほとんどいない。
「もうすぐお別れだね」
樹里が腕にギュッと力を入れた。
もう樹里と会えなくなると思うと、涙が出そうになる。
「うん」
「何かわたしに言うことはないの? もう会えないんだよ」
堪えられなくなり、僕には許嫁がおり、樹里には婚約者がいるのに樹里を抱きしめてしまった。
「好きだよ」
背伸びをして樹里の唇にキスをする。
背が低いとこういう時にサマにならない。
樹里が少し屈んでくれた。
僕はゆっくりと唇を離した。
「離したくない。でも、無理だよね」
樹里に囁いた。
「このまま2人でどこか行こうよ。誰も知らない所へ。何とかなるわ」
樹里が真剣な顔で言う。
母さんは親も財産も捨てて、父さんと結婚した。
僕たちも許嫁も婚約者も何かも捨てて2人でどこかで暮らすか。
だが、父さんは働いていたし、大人だった。
僕も樹里も働いていないし、しかも未成年だ。
僕も樹里も無力だ。
父さんや母さんのようにはいかない。
それにそんなことをしたら、妹LOVEのあのお兄さんが草の根を分けても探し出すだろう。
「そんなの無理だよ。樹里も分かってるだろう」
樹里は決してバカではない。おそらくかなり頭がいい。
付き合ってみてそれが分かった。
「そうね。隆司にそんなことできないことぐらい分かってるわ」
樹里が僕の腕を振り払うようにして離れる。
「ごめん」
樹里を不幸にすると分かっていてそんなことはできない。
「そこが隆司のいいところでもあり、イライラさせられるところよね。戻るわ」
樹里は部屋に帰っていく。
翌日、僕と樹里の間には微妙な空気が漂っていた。
僕と樹里の間に流れる不穏な空気に気づいたようで、ホテルでも帰りの新幹線の中でも紀夫と渡辺さんは明るく振る舞い、空気を変えようと努力してくれていた。
僕も樹里も表面上は何事もなかったように振る舞おうとしたが、やはりお互いの空気は淀んだままだった。
樹里は僕にキャリーバッグを持たさず、自分で引っ張っている。
「2人で大丈夫か」
最寄り駅に着くと紀夫が心配そうに囁く。
紀夫と渡辺さんの家は僕と樹里の家とは逆方向だ。
「大丈夫だよ」
僕は無理に笑う。
「樹里、元気でね。落ち着いたら手紙送ってよね」
「うん。送るよ。最後にキスしよう」
樹里が渡辺さんに迫る。
「もう。そんなにキスしたかったら、澤田君としなさい」
渡辺さんは樹里を睨んだ。
「アハハハハハッ。元気でね。真紀」
樹里は渡辺さんをハグすると僕の方に歩いてきて何事もないように腕を取る。
僕も紀夫に手を振った。
紀夫たちと別れると僕と樹里は腕を組んだまま無言で歩く。
自分のマンションまで来ると樹里は僕から腕を放した。
「元気でね。じゃあね」
樹里が手を振ると、マンションの中に入っていこうとする。
「やっぱりいやだ」
僕は樹里の腕を掴んだ。
「一緒に逃げよう。誰も僕たちのことを知らないところで2人で暮らそう」
僕はなにを言ってるんだ。紀夫が前に言ってたように突然思いもかけない行動を取ることがある。
「隆司、無理しなくていいよ。隆司らしくないよ」
樹里が薄く笑う。
「でも、樹里のこと愛してる。離れたくない」
樹里を抱きしめた。
「そう言ってくれるのは嬉しいわ。でも、無理って、隆司も言ったでしょ。もし、今度会う時、2人とも独身だったら結婚しよう」
樹里は優しく僕の腕を掴むと、そっと腕を解いた。
「でも、樹里は婚約者と結婚するんだろう?」
そして僕は許嫁と結婚する。
「そんなの分からないわよ。言ったでしょう。私をギュッと抱きしめてくれて、キスして、プロポーズしてくれないと結婚しないって」
なんか条件が増えてるような気がするけど。
「それに、隆司だって、許嫁に結婚するのを嫌だって言われるかもしれないじゃない」
僕が振られるっていうことね。それ母さんにも言われた。
「見送りに行くよ。明日は何時の飛行機?」
「来ないで」
樹里が冷たく言い放つ。
“Au revoir”
樹里は振り向きもせず、マンションの中に入っていった。
英語じゃなくて今度は何語?
どうして最後の最後まで煙に巻くようなことをするんだ。
翌日、いつものように5時に目が開いた。
学校へ行く必要もなく、勉強する必要もないので、二度寝しようと思い、布団の中でゴロゴロしているうちに6時になった。
無意識にスマホを取り、樹里に電話しようとする。
そうだ。もうかける必要はないんだ。僕は手を止めて机の上にスマホを置く。
そう考えると鼻の奥がツンとする。
このまますることもなく寝ることもできないので、1階に下りていく。
いつものように母さんが朝食の用意をしている。
「学校ないんでしょう? もう少し寝てたら」
「寝れないんだ」
「そう」
母さんは朝ごはんの準備を続ける。僕はすることもなく新聞を取りに行った。
父さんも母さんも昨日、帰ってきてからなにも聞こうとしない。何か気づいているんだろうか。
「樹里ちゃんはいつアメリカに行くの?」
母さんが何気なく聞いてくる。
「今日らしい」
「見送りにはいかないの?」
「来ないでって言われた」
「そう。お弁当作ってもらってたんだからちゃんとお礼を言ったの?」
そうだった。樹里は僕のためにずっとお弁当を作ってくれていた。もうあのお弁当を食べることはできない。
「忘れてた」
「呆れた」
母さんはそれ以上何も言わない。
「母さんは第二外国語はなに?」
大学では語学を2つ勉強すると聞いたことがある。
ひょっとしたら、樹里の最後の言葉の意味を知っているのではないかと思った。
「フランス語よ。どうして?」
母さんが僕の方を向く。
「昨日、樹里にオーブワとか言われた。何語だろう?」
“Au revoir”
母さんが樹里と同じような発音をした。
「それだ」
「さようなら……か。なるほどね」
母さんがニヤけた。
「さようならって意味なんだ」
「そうよ。フランス語よ」
どうして母さんはニヤけてるんだ。それになにが『なるほど』なんだ。
別れの言葉だろう。
本当に樹里といい母さんといい訳が分からん。
学校が自由登校になり、毎日することもなく、外にも出ず、家にこもっていると樹里のことを思い出してしまう。
あの偉そうな口調や僕を怒る時の声、気の強さも今は愛しい。
樹里ともう一度会いたい。抱きしめて愛してると言いたい。
本を読むが一向に頭に入ってこず、テレビを見ても何も頭に入ってこない。
部屋でボーッとしている僕を見て、母さんが怒りだした。
「いつまでそうやってボーッとしているの。そろそろシャンとしなさい」
「そうだぞ。もうすぐ許嫁が来るんだ。許嫁に悪いだろう」
父さんも僕に注意する。
そんなことは言われなくても分かっている。許嫁がもうすぐ来ることも分かっている。
でも、樹里のことを忘れられない。樹里のことを忘れられるだろうか?
こんな気持ちで許嫁に会って本当に大丈夫だろうか?
いや、こんな気持ちでは許嫁に失礼だ。
でもどうしようもなく虚しい。
僕の中で、こんなに樹里の存在が大きくなっていたとは。
あんなに嫌いだったのに。
いや、樹里のことを忘れよう。
そんなダラダラした生活を送っていると、卒業式の3日前に母さんが僕の前にエアメールを置いた。
「いつまでも呆けてる場合じゃないわよ。向こうから卒業式の日の午後に会いましょうって言ってきたわ」
僕はじーっとそのエアメールを見た。
「ひょっとして許嫁の人?」
「他にエアメールを送ってくる人はいないでしょう」
またずいぶん急な話だな。普通はもっと余裕を持って言ってくるんじゃないのか。
父さんが帰ってくると、母さんがエアメールを見せた。
「まずいな。その日はどうしても仕事の都合がつかないんだが……」
お父さんの顔が渋くなる。
「別にいいわ。私と隆司で会いに行くわ」
母さんがなんでもないように言う。
「すまんな。母さん、頼むよ。隆司、自分の気持ちに正直にな。無理はするな。母さんとよく相談して決めるんだぞ」
父さんは母さんに僕のことを頼んだ。
「大丈夫よ。きっと上手くいくわ」
母さんが自信ありげに言う。
どこからくるんだその自信は?
本当に母さんのことがよく分からない。
卒業式の前日は、卒業式の練習や学年末テストが返されてくるだけで、卒業生は午前中には学校が終わり、午後からは在校生が卒業式の準備を始める。
終礼が終わり、帰ろうとする僕に紀夫が声をかけてきた。
「久しぶりに一緒に帰ろうぜ」
紀夫にカノジョができる前はよく一緒に帰っていたが、最近はなかった。
「渡辺さんはどうするんだ?」
「もちろん、真紀も一緒だ」
「いいよ。おじゃま虫をする気は無いよ」
カノジョとせっかく帰るのに僕は邪魔者でしかない。
「そんなこと気にすることないわよ」
渡辺さんも来て心配そうに僕を見る。
「いいよ」
紀夫と渡辺さんと一緒にいたら、僕の方が気を遣う。
「真紀から聞いたよ。石野、アメリカに行ったんだって。お前、大丈夫か」
紀夫の顔が曇る。
「大丈夫だよ。分かってて、樹里と付き合ってたんだから。何ともないよ」
空元気を出して、笑ってみる。
「なんともないことないだろう。元気ないぞ」
やっぱりそう見えるか。
「大丈夫だって。じゃあ、明日な」
僕は鞄を掴むと、2人を残して教室を出た。
ダメだ。
紀夫にまで気を遣わしてしまうなんて。
しっかりしないと。
明日は許嫁が来る。
許嫁に悲しい思いをさせてはいけない。
僕は自分を奮い立たせるように顔を叩いた。
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