第3話 波乱の遠乗りと、【恋】についての学び ④
アナスタシアとフローレンスの二人は身支度を整えて、地図を片手にキャンプ地へ足を進めた。その道すがら目当てのマンゲツパエオニアやイヌカリンがないかを確認していきながらになるので、三人の歩みはとてもゆっくりとしたものだった。
「……あれ?」
フローレンスが、鼻をすんすんと鳴らす。どこからか、何かの香りが漂ってきていることに気づいた様子だ。
「アーシャ、あっちから甘い匂いがするんだけど……」
「甘い匂い?」
アナスタシアも同じように鼻を鳴らす。フローレンスの言うとおり、どこからか甘い香りが漂ってきている、たしか、以前嗅いだことのあるマンゲツパエオニアの香りも、同じように甘かった気がする。
「行ってみる? 先生の地図からそれちゃうけど」
アナスタシアがフローレンスにそう問いかけると、フローレンスはもう行くつもりで踵を返していた。
「少しくらい大丈夫だよ、ほら、アーシャ行くよ」
フローレンスは駆け足で、その香りがする方向に向かっていく。それに少し遅れる形でアナスタシアとアメジストが続いた。フローレンスよりも早くに眠ったアナスタシアだったけれど、疲れは体に残ったままだ。少し走るだけで息切れがして、脚はどんどん遅くなって……フローレンスの背中はドンドン遠ざかっていく。
「え……、フローラ!」
小さく見えていたはずのフローレンスの姿が一瞬で消えてしまう。
「アメジスト、先に行って!」
「……わかった」
いつものように自分の後ろにいるアメジストにそう言うと、アメジストは頷いてアナスタシアを追い抜く。アメジストはしばらく走っていって、フローレンスが消えた地点でピタッと止まる。そこには段差があったようで、アメジストはスタッとそこに降りていった。
「フローレンス! 大丈夫?!」
段差の下では、フローレンスがうずくまっていた。両手で太ももを押さえていて……そこには木の枝が刺さり、血が流れている。
「フローレンス、怪我!」
アメジストの叫んだ声は、アナスタシアの耳にも届く。アナスタシアも息絶え絶えになりながら、段差を降りていく。
「アーシャ……くっ」
「動いちゃダメ! 大丈夫、私に任せて」
その言葉に、フローレンスは頷く。医療に関わる魔法は、弟の病気を治すことを目標にしているアナスタシアの得意分野だ。アナスタシアは水筒の水で手を洗い、フローレンスの太ももに刺さっている木の枝を掴む。
「痛いけど、我慢して」
「わか、った……」
アナスタシアが枝を一気に引き抜いていくと、フローレンスはうめき声をあげる。歯を食いしばり、目からは痛みをこらえることができずに涙が溢れ出す。枝をすべて引くと、血が流れだした。アナスタシアはその傷口に手を置いて、念じ始める。ぼんやりとそこに光が灯り、その光が傷を癒していく。
そのはずだった。
「え、ど、どうして……!?」
いつもなら、どんな傷でもあっという間に治る魔法なのに、血は流れるばかりで傷が塞がる気配はない。力を注ぎこめば注ぎ込むほど、アナスタシアの体からは魔力がすり抜けていく。
きっと、体に疲れがたまっているせいだ。肝心な時に、親友が苦しんでいるときに役に立たないなんて……アナスタシアは唇を強く噛む。目の前にいるフローレンスの顔色は徐々に青白くなっていき、呼吸をするのも辛そうだ。それを見て、何もしていられない自分が、悔しくて仕方がない。
「……アナスタシア?」
その怒っているように見えるアナスタシアの表情に驚いたアメジストが、不安げにアナスタシアに声をかけた。アナスタシアはぎゅっと閉じていた目を恐る恐る見開き、フローレンスの脚から手を離した。そして、血まみれの手のままアメジストの襟をつかむ。
「え、アナスタ……」
アメジストがその名を呼ぶよりも早く、アナスタシアはその唇に自身のそれを押し付けた。アメジストは驚きのあまり、目をぱちくりとさせる。
それもそのはず、いつも魔力を受け渡すときはアメジストから口づけを施す。アナスタシアがこうやって、アメジストにキスをするのは初めてだった。
アメジストは、今まで経験したことのない胸の疼きを感じていた。じりっと焦げるような痛みがあるのに、次第に飴を舐めた時のような甘さが広がっていく。その変化を理解できずにいるうちに、アナスタシアの唇は離れていった。彼女は再びフローレンスの傷口に手を当てる。先ほどとは違う眩い光がその怪我全体を覆い……少し経って手を離したころには、傷口は塞がり出血もなくなっていた。
「……良かった」
ほっと安堵の息を吐いていると、フローレンスが抱き着いてくる。
「わっ! な、なに?」
「アーシャ~~~ごめんなさい!」
嗚咽をあげながら、フローレンスは泣きじゃくる。痛かったのも怖かったのもフローレンス自身なのに、何度も「ごめんなさい」と繰り返す。アナスタシアはフローレンスが泣き止むまで、彼女の頭を優しく撫で続けた。
その光景に、アメジストはもやもやとした例えようのない感情が芽生えていることに気づいた。頭の中でその気持ちにぴったりと合う言葉を探していくうちに、フローレンスのある言葉を思い出す。
『他の誰にも、奪われたくないって思うこと、かな?』
フローレンスが『恋』を説明したとき、確かにこんなことを話していた。アメジストが今感じている心のもやもやと、その言葉。二つの点が、線で繋がりそうな感覚。しかし、それが本当に正解なのかもわからないアメジストは首を傾げるだけだった。
「そうだ! アーシャ、あっち見て」
涙でボロボロの顔をぬぐわないまま、フローレンスは森の奥を指さす。
「え? ……あ、あー!!」
その先に会ったのは、二人が探していたマンゲツパエオニアの群生地だった。
***
キャンプ地に戻った三人を待ち構えていたのは、鬼のような顔をしたエリザベスのお説教だった。三人を地べたに座らせて、平等に雷を落としていく。こうやって怒られるのは初めてだったアメジストは、しばらくの間びくびくと怯えていた。その後、テントの中でフローレンスの怪我の様子を診る。
「……さすが、アナスタシアですね」
まるで初めから怪我をしていなかったような、まっさらな脚を見てエリザベスは感嘆としていた。ただ、出血が多かったことは確かなので、フローレンスは一日中安静するように言われた。
「さて、アナスタシア。マンゲツパエオニアの群生地があったそうですが」
「はい! 案内します。行ってくるね、フローラ」
「うん、気を付けてね」
テントを出ようとしたアナスタシアとエリザベス、そして手を振ったフローレンス。その三人は何やら違和感を覚えてぴたりと動きを止める。 いつもアナスタシアにくっついて歩いていたアメジストが、座ったまま動かないせいだ。
「何してるの、ほら行くよ」
アナスタシアがそう声をかけても、アメジストは首を横に振る。
「フローレンスと話がしたい」
「え? わ、私と?」
「あんたがフローレンスと何を話すっていうの?」
「大事な話」
三人は首を傾げながら、顔を見合わせる。その中でフローレンスだけが思い当たる節があったようで、少し間をおいてから「あ!」と声をあげた。
「いいよ、アメジスト。お話しよう」
「えー、何なに? 気になるんだけど」
「内緒の話。アーシャは先生と早く行っておいで」
「何それー、もう! アメジスト、フローレンスとあんまり長話しちゃだめだよ。すぐ休ませてあげてね」
「わかった」
アメジストがしっかりと頷くのを確認したアナスタシアは、エリザベスと一緒にテントを出ていった。テントの外はガヤガヤとにぎやかで、エリザベスは皆を引き連れて二人が見つけた群生地へと向かっていく足音が聞こえてきた。
「それで、話ってなあに?」
「フローレンスの言ってたこと、少しわかった気がする」
「……それは、昨日の夜の話であってる?」
「うん」
アメジストはゆっくり言葉を紡いでいく。フローレンスもそれに辛抱強く耳を傾けた。
「フローレンスがアナスタシアに抱き着いたときに……『他の誰にも奪われたくない』って思った」
「え? わ、私で?」
「うん。これは、『恋』だと思う?」
「うーん。どうだろう、アナスタシアと一緒にいてドキドキしたりする?」
アメジストはその言葉に首を深く傾ける。心臓に手を当てても、『ドキドキ』と弾んだりしない。
「まだ、アメジストの中で心が育ってないのかも。アメジスト、小さい子どもみたいなところあるし」
「子ども?」
「そう。大人になれば……大人の心を持ったら、いつかわかるかもしれないね」
フローレンスがそう優しく微笑むと、アメジストも同じように笑みを作った。
「分かった、大人になる。どうやったらなれる?」
「えー、わかんないよ。私だってまだ大人じゃないし……ちょっとずつ、少しずつ近づいていくんじゃないかな?」
「少しずつ……。わかった、ありがとうフローレンス」
「どういたしまして」
フローレンスが深く布団に潜り込んでいく。すぐに寝息が聞こえてきたので、彼女にも疲れがたまっていたのだろう。アメジストはテントから出て行って、近くの切り株に腰を下ろした。
『恋のドキドキ』はまだ彼の中にはない。今のアメジストにあるのは……アナスタシアに口づけをされた時、ふと胸に宿った疼きだけだ。アメジストは空を見上げる、木漏れ日がキラキラと輝いていて……アナスタシアが見たらなんと言うだろうか、そんな事をぼんやりと考えていた。
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