22 Day 3

 デスクの下で息を潜めながら、医師の芹沢は一人心の中で悪態を吐き、運命を呪っていた。あの爆発感染が始まった初日から、家にも帰らず病院に留まり続けていた彼は、人生で一番の窮地に立たされていた。

 都内は感染のホットスポットになっていた。ただでさえ大量の人間が住む首都東京に、爆発的な感染力を持つゾンビが放り込まれたら?結果は分かりきっていた。芹沢が勤める総合病院も、大量の噛まれた人達が治療の望みを持って押し寄せていた。当初はベッドに縛り付ける形で感染者を拘束し、ひとまずの対応としていたが、それでも追いつかず、縛り付けて部屋の中に放置し、部屋ごと封鎖するという荒々しい方法を取っていた。それでも、救いを求めて人々が殺到した結果、病院はゾンビで溢れ、崩壊した。

 芹沢は、運が悪かった。脱出もかなわず、今は病院の一室に息を潜めている。病院に配置されている警官は、逃げたか抵抗しようとして食われ、ゾンビの仲間入りを果たしている所だった。


 唸り声が廊下から聞こえる。芹沢は、息を潜め続けた。

 入院着を纏った、老人の男性が通路を横切った。衣服はどす黒く変色した血に被われ、片腕は派手に食いちぎられ、皮一枚で繋がったままの手が、ぶらぶらと揺れていた。おぼつかない足取りで、よたよたと過ぎ去るのを見送ると、芹沢は意を決してデスクの下から飛び出し、慎重に、音を出さずにドアを閉めた。

 鍵をかけ、とりあえずは部屋の安全を確保した。


 そのまましゃがみこみ、芹沢は一息つきながら、この数日、実地で覚えたゾンビについての“生態”を脳内で反芻していた。

 ゾンビは音に一番反応する、その次が嗅覚と視覚だった。また、ゾンビは原始的な知能しか持たず、ひたすら生きた人間のみに反応する。そして、ゾンビは頭――脳か脊髄を破壊する事で活動を停止させる事が出来た。

 しかし、芹沢には武器が無かった。医療機器――とくに手術用具であれば、何とかなったかもしれないが、それでも人間の頭部を一撃で破壊できる武器は手元に存在しない。この部屋の奥にあった点滴スタンドで、迫りくるゾンビを押しのける事が関の山だろう。脱出経路は限られていたが、唯一の望みは廊下を出て突き当たりにある非常階段だった。そこから下へ降りれば、地上へ出る事が出来る。


 ここに留まっていても死ぬだけだ、と自分に言い聞かせながら、芹沢は脱出の準備を始めた。まず手始めに、近場にあった書類の束や、小さな冊子を丸めて、テープで両手の手首に巻いて噛み付き防止策を取った。そして必要になりそうなもの――医薬品、医療品をバックパックに詰め込む。そして、点滴スタンドを持ってくると棒の部分を持ち、キャスターがついている部分を上にした。

 覚悟を決めると、芹沢はゆっくりと鍵をはずし、ドアを開けて廊下を見た。数体のゾンビが、あたりをうろつき回っている。幸いにも、非常階段の反対方向で誰かが食われており、ゾンビたちはそこで食事にありついていた。

 ゆっくり、慎重に廊下へと出ると、芹沢は火災警報装置のボタンを押しこんだ。けたたましい警報ベルの音が鳴り響いた。ゾンビを大音量でかく乱する。これが作戦の第一段階だった。

 そして、非常階段の入り口へと向かった。目の前には、先ほど見かけた老人のゾンビがいた。芹沢を見た瞬間に呻き声を上げ、両手を突き出して向かってくる。芹沢は点滴スタンドを構えると、槍で突くようにキャスターの部分でゾンビの身体を突いた。ゾンビは、そのまま姿勢を崩して床に転倒し、緩慢な動作で起き上がろうとする。殺すのはではなく、転倒させて時間を稼ぐ。効率的なゾンビへの対処法だ。

 それを無視して、芹沢は走って非常階段にたどり着いた。ドアノブに手をかけると、慎重に外を見る。非常階段には、ゾンビの影はなかった。

 急いで階段を下りる。一階に到着してからドアを開けようとするが、ドアは内側から鍵がかけられており、開けることは出来なかった。周囲を見るが、階段はフェンスで仕切られており外へ出る事は出来ない。仕方なく、芹沢は非常階段を上って、フェンスが途切れている二階の高さまできた。下はコンクリートの地面だったが、選択肢はこれしか無かった。意を決してジャンプして、地面へと転がる。身体を打ったが、特に怪我は無かったようだった。


 あたりを見回すと、何体かのゾンビがうろついていた。芹沢は急いで走り、病院の裏手へと回った。裏手には、夜間急患用の窓口と救急車の乗り入れ口がある。上手くいけば、逃げるための足があるはずだった。賭けの結果はすぐに判った。

 救急車が、そこに止まっていた。運よくドアも開いている。

 急いで芹沢は駆け寄り、運転席へ向かうが、突如としてそこから伸びてきた手が目に入った。

「うわっ!!」

 それが拳銃を握っている手だと判り、芹沢は反射的にしゃがみこんだ。恐る恐る顔を上げると、救急車の運転席に、青色の制服を着た男――警官が座っていた。芹沢より年下の、若そうな警官だった。

「くそっ、人間かよ!?」

 警官が声を上げる。銃口を下ろすと、急いで運転席のドアを閉める。鍵を探して悪戦苦闘している様子を見て、我に返った芹沢は急いで救急車の助手席に向かった。

 ドアを開けて芹沢が救急車に乗り込む。

「バカ野郎、入ってくんな!」

「乗せろ!噛まれてないから撃つなよ!」

 そう言いながら、芹沢は急いでサンバイザーを開いて救急車のキーを取り出した。

「ほら、早くエンジン回せ!」

「どうも」

 警官はふんだくるように受け取ると、キーを差し込んでエンジンを回す。

 芹沢はサイドミラーに目をやる、後ろでは、ドアを開けてゾンビがぞろぞろと這い出てきた所だった。

「早く出せ!」

 芹沢が叫んだ瞬間、エンジンがかかり、アクセルを踏んで救急車が発進した。緊張の糸が途切れ、一息ついた芹沢だったが、脇の警官は不機嫌そうな顔だった。

「途中で降りろ。逃げるのに邪魔だ」

「邪険に扱うなよ、命の恩人だろ?それに私は医者だ、手助けはする。どうだ?」

 少しの沈黙が流れるが、警官は諦めたように溜息を吐いた。

「言っておくが生命の保障はしないぞ、それに職務放棄するんだ、警官だと思うな。足手まといだと思ったら見捨てるからな」

 観念したような言葉に、芹沢は少しだけ安心した。

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