37 Day 5
息を殺しながら、腐臭を漂わせる歩く死者をやりすごす。
数日前であれば緊張と恐怖で心臓が高鳴りそうな行為であったが、すでにパニックから時間が経った今、医師の芹沢と警官の佐藤にとっては「ありふれた作業」になっていた。失敗すれば死が待っているが、簡単な作業であった。2人は、家族が待っているであろう佐藤の家――数駅分の距離――を、時間をかけて移動していた。大きな町を超え、雑居ビルやマンションの立ち並ぶ繁華街を抜けると、あとは団地や一軒家が並ぶ住宅地であった。
2人は、塀や放置車両と言った障害物に身を隠し、互いに警戒し合いながら住宅地の中を進んでいた。電柱に激突し、空になった車の影に隠れながら周囲を窺った。
「どうだ?前は大丈夫そうか?」
拳銃のグリップを握り締めながら、佐藤が尋ねる。
「まずいな。団体客がいるぞ」
悪態をつきたくなる気持ちを抑えながら、芹沢は目の前の光景を伝えた。
道路の真ん中に、餌に群がるゾンビたちの集団があった。15から20体ほどのゾンビたちは、餌――逃げ回っているうちに捕まって食い殺された新鮮な死体――を中心に円陣を描くように群がっていた。外周のゾンビはおこぼれにありつこうと、届きもしない腕をばたばたさせながら仲間たちに群がっているか、あるいは興味を失って集団から離れようとしてはまた戻ったりを繰り返していた。
「誘き寄せるか?」
佐藤は、隠れている車を軽く叩きながら提案した。
誘き寄せ、とは2人が昨日から行っている新しい戦術の一つであった。事故車両や放置車両のクラクションを、棒や死体などで押させて大音量を鳴らして、ゾンビを誘き寄せてから隠れつつ迂回するというものであった。音に反応するゾンビの習性を利用した戦法であったが、ゾンビに阻まれて長い距離を移動できない2人にとっては効率的かつ安心できる策であった。
「……いや、このまま隠れながら進もう。もう近所なんだろう?」
「……ああ」
佐藤は周囲を改めて見回した。
出会ってからずっと行動を共にしてきた2人にとっては、目的地――家族の待つ家まではあと僅かの距離であった。芹沢にとっては知らない町であるが、佐藤にとっては生まれた我が家のある故郷であった。
住宅街を進み、少し坂になっている区域に入る。塀で囲まれた家が立ち並ぶ、そこそこの住宅街であった。時折現れるゾンビをやり過ごしながら、芹沢はついに目当ての家の前へたどり着いた。
「ここだ」
佐藤の顔色が見る見る変わった。家に戻ってきたという安堵感、そして家族の安否を気遣う不安感が入り混じった顔だった。しかし、顔色はすぐに曇った。
「親父の車が無いな……」
軒先の駐車スペースは空のままであった。
「家に居ろって念を押したんだろう?まだ居るかもしれないじゃないか」
「それもそうだな」
佐藤は拳銃を握ったまま、玄関の前に立つと軽くノックをしてみる。インターホンも鳴らしてみるが、音は鳴らない。付近一帯が停電しているせいだった。ドアノブを回そうとするが、鍵がかかっていて開かない。
「……頼む……中にいてくれ……お願いだ……」
焦燥感の入り混じった顔で、佐藤がドアを何度も押したり引いたりする。しかし、反応は無かった。
「……近くの避難所を当たるか?」
芹沢の問いに、佐藤はすっかり落ち込んだ背中のまま首を左右に振った。
「この状況じゃ、多分避難所にいても助からないだろう……」
今までにないほど元気の無い声をあげた佐藤は、振り返って玄関から離れようとするが、その瞬間に家の二階の窓が勢い良く開いた。
「達彦!?達彦なの!?」
上ずった女性の声が聞こえる。佐藤は目を見開くと、すぐに手を振った。
「母さん、俺だよ!たった今戻ってきた!」
「おいバカ、声がうるさいぞ」
芹沢が思わず佐藤の口を塞いだ。次の瞬間、通りに響いていたゾンビのうなり声が、徐々に近づき始めた。佐藤は急いで、母の依子に尋ねた。
「早く鍵を開けてくれ!」
「一階は全部閉鎖したの、ごめんなさい」
依子が弁明する脇で、ベランダに出た彼女の夫が急いでシーツを結んで作ったと思われる縄梯子を垂らした。依子の隣から、佐藤の妹も顔を覗かせた。家族の無事に安堵する暇もなく、次はゾンビからの逃避だった。
「おい、あんたが先に行け」
佐藤は芹沢にそう促す。どうして?と返すと、佐藤はニヤリと笑った。
「恩人だけ先に置いていけるかよ。俺が援護するから先に行け」
佐藤はそう言い放つと、撃鉄を起こした拳銃を手にゾンビの侵入を構えて待った。すまない、と言いながら縄梯子に掴まりながら、芹沢はこの男はやはり警官だな、と心の中で再認識していた。
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