18 Day 2

 操縦桿を持つ手が震えていた。今まで幾度となく大空を飛んできた男――大和エアラインの機長、岩崎はいまだ経験した事のない恐怖とプレッシャーを感じていた。機長として、パイロットとしての人生の中で、これは最上の恐怖で、そして理解しがたい状況であった。

 切欠はエコノミークラスの乗客が倒れた事だった。急病人、それは今までのフライトで珍しい事ではなかったし、実際に対処して事なきを得たケースが殆どだった。しかし、機内で倒れた乗客はあろうことか絶命した。それだけではない、その数秒後、蘇って人を襲い始めたのだ。

 それから、機内は凄惨な地獄と化していた。噛まれて絶命した人間も同じように蘇り、人を襲い始めていた。やがて凶暴化した“それ”は増えて行った。ハイジャック対策のため機内にいたスカイマーシャル――航空機警乗警察官――が反撃に転じたが、多勢に無勢であり、数発の銃声が聞こえただけで、空しい結果に終わった。

 岩崎に出来た事と言えば、負傷した副操縦士をコックピットに引きずり込み、ドアをロックし、緊急事態であるメーデーを宣言して羽田へ引き返す事だけだった。コックピットへの避難を求めて殺到する客やキャビンアテンダントもいたが、その声もつい先ほどぷっつりと途絶えた。今や機内には断続的に聞こえる悲鳴と怒号、そしてコックピットのドアを手で叩き続ける音、エンジンの駆動音だけが響いていた。


「大丈夫か?石田」

 副操縦士の名前を呼ぶ。隣の副操縦席に座っている相棒――入手3年目の副操縦士――は顔面蒼白であった。パイロットの制服にはべったりと血が張り付いており、首や耳、腕などの噛み傷からは血が流れ出ていた。岩崎は応急処置を施したものの、状態は悪化の一途を辿っていた。

「すいません……機長……もう……持たな……」

 途切れ途切れに言葉を吐き出す副操縦士を見て、岩崎は後悔の念に駆られていた。機内の異常事態を見に行かせたせいか、この若い副操縦士は負傷して戻ってきた。そして最後の判断ミスは、とっさに負傷した彼をコックピットへ招いてしまった事だ。

 話を整理すると、彼はもうすぐ“奴ら”の仲間入りをする事は明白であった、その前に、何とか羽田へ着陸しなければならなかった。幸いにも、機体は降下を続け、東京湾の上空を飛んでいた。


「こちらYAL118、着陸許可を求む」

『こちら管制塔、滑走路34Lへの着陸を許可する』

「了解YAL118、滑走路に緊急車両の手配を要請する。警察……武装した部隊を寄越してくれ」

 管制塔と交信を続けながら、岩崎は不意に隣のシートに座る副操縦士を見た。頭は項垂れ、目を見開いたまま、だらりと身体が弛緩して動かなくなって絶命していた。「ちくしょう……!」

 恐怖で頭がどうにかなりそうだった。それでも、パイロットの責務か、それとも生存本能か、身体は着陸のための手順を取ろうとしていた。

 だが、喉奥から漏れる低い呻き声と共にゆっくりと動き始める副操縦士の身体が、一気に彼の思考を奪い取った。

「……石田っ!」

 蘇生した副操縦士の名を叫んだ途端、シートベルトで固定されていた副操縦士が両腕と身体を伸ばして岩崎へ掴みかかろうとする。必死に姿勢を反らして、のけぞるが、指先で岩崎の肩へと触れ、引きずり込もうとする。

 それに抵抗しながら、操縦桿を握り続ける岩崎だったが、その抵抗も空しく、岩崎の体は掴み取られ、引き寄せられた。

 岩崎の肩に歯が食い込み、制服を噛み千切る。露になった素肌に、今度こそ歯が食い込んだ。鮮血が流れ、激痛で岩崎が絶叫する。肉を引きちぎられた後、二口目が首筋へと食い込んだ。


 ――なんてこった、神様。


 頚動脈を噛み千切られ、血のシャワーがコックピットを染め上げる。遠のく意識の中、岩崎は操縦桿を掴みながら絶命した。飛行機の姿勢が大きく傾き始め、エンジンの出力をそのままに空港を外れてその向こう、東京の市街地へと向きを変えていく。

 多数の乗客、生きる死者と抵抗する生存者を乗せた機体は、そのまま地表へと向かっていく。コンクリートのビル群へ向けて大きくスピードを上げて墜落した機体は、やがて轟音と共に巨大な火の玉と化し、跡形もなく潰れて消え去った。

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