09 Day 1

「はぁ」

 今日、何度も吐いているため息が、また口から漏れた。オフィスの机に座りながら、うず高く積み上げられた書類とPCの表計算ソフト相手に格闘していた会社員、杉田は両手を上げて背筋を伸ばし、欠伸をした。

 善良で潔癖な企業であれば、この時間になれば会社に残っているのは警備員ぐらいなもので、とっくに退社して帰宅している頃合だろうが、杉田の勤めている会社にととってはまだまだ仕事の時間――残業である。杉田の部署は終電間際まで仕事をしている事が多いが、他の部署に至っては泊り掛けで仕事をしている社員もいた。

 しかし、今日に限っては帰れない境遇の労働者は都内に大勢いた。今日の昼ごろに山手線で傷害事件があり、似たような事件があちこちで起こり、どの路線も大幅に運行状況が遅れていた。酷い場所では未だに運休している有様だった。帰宅難民が出ているとの事だが、元々帰宅できない杉田から見れば「ざまあみろ」と言わんばかりの状況だった。


 とりあえず仕事の手を休めて、小休憩に入る事にした杉田だったが、それを見た向かい席の同僚が、杉田に声をかけた。

「おい、見てみろよこれ」

 同僚が、手招きで杉田を呼ぶ。何事だろうと寄った杉田は、同僚の机に置かれたチューナー付きのポータブルDVDプレイヤーを見せられた。ワンセグのテレビ画面から、首相官邸での緊急記者会見の様子が中継されている。壇上に立ち、記者やカメラマンの前で説明しているのは、官房長官だった。

 ちょうど杉田が見る頃には、中継画面からニューススタジオの映像へと切り替わり、アナウンサーとコメンテーターが会話する場面へと切り替わっていった。しかし、これまでの音声をざっと聞いていた杉田の耳には「感染」「ウイルス」「暴力行動」と言った単語が聞き取れた。


「何だ、コレ」

「やばいらしいぞ。都内で“人食い病”みたいなもんが発生しているらしい」

「何だよ人食い病って、ゾンビか?」

 ははは、と杉田は乾いた笑いを浮かべる。目の前の事象よりも、山積みになっている仕事の方が心配だった。せめて帰宅する頃には電車が復旧していればいいし、最悪会社に寝泊りするか……と言う考えで一杯だった。

 だが、同僚の顔は深刻だった。会話に混ざるように、別の同僚が携帯でニュースサイトを見ながら割り入ってきた。

「都内で500人ぐらい“感染”の疑いありだってよ、人を噛んで、噛まれたらそいつも同じように人を襲うんだと」

「おい聞いたか?「無闇な外出は控えること」とか言ってるぜ」

「ゾンビだぁ?アレだろ、映画みたいに頭割りゃいいんだろ」

 わらわらと集まるように、休憩中の同僚たちがデスクの前へ集まり始めた。杉田は急に不安になってきた。確かに、今日は昼間からパトカーや救急車のサイレンを多く聞いている気がする。


 そんな中、オフィスの窓から外を眺めていた同僚の1人が、大声を上げた。

「おい、あれ見ろよ!」

 興奮気味の声に、杉田たちも慌てて窓際へと駆け寄った。このオフィスのフロアは10階立てビルの8階にあった。杉田たちが見ている窓の向こうには、2車線の小さな道と、反対側の雑居ビルの屋上がちょうど見えていた。

 見下ろすと、夜の暗さでよく見えなかったが、雑居ビルの屋上には何人かの人影が見えた。スーツ姿のそれは、ふらふらとした足取りで、ゆっくりと屋上の端にいるOLと思しき女性に近寄っていた。近寄られている女性は、支離滅裂に叫んでいるようで、それは杉田たちの耳にもはっきり届いていた。来ないで、止めて、と言った単語をヒステリックに叫び続けているが、迫り来る男たちは聞く耳も持たない。

 地上にいる人々も大声に反応しているようだが、場所が屋上という事もあってか、すぐに足早に去って行くか、首をかしげているようだった。

 すると、距離を詰めた男たちが女性にわっと襲い掛かった。

「おいやべーぞ、警察呼べ!」

 誰かが声を上げた、とっさに反応して、同僚の1人が携帯を取り出した。

 婦女暴行か?思いかけずとんでもない現場を目の当たりにしていた杉田だったが、様子は違っていた、押し倒した男たちは、女性の腕や顔に口を押し付けていた。大音量の金切り声を上げ、女性が悲鳴と共に抵抗するが、すぐにそれは収まった。

 屋上に、赤黒い水溜りが広がっていった。食いちぎられ、引っ張られた筋組織や皮膚をはっきりと見つけた杉田は、ショックを受けてそのまま後ずさった。

「警察に繋がらないぞ、回線が混雑してる」

 誰かの呆気にとられた声を聞きながら、杉田は顔面蒼白のまま、力なく床にへばりこんだ。

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