03 Day 1
――疲れた。
レールの上を走る振動を両足に感じながら、吊り革を握っていた男、田辺は気だるげな顔をしていた。生気の失せた彼の顔には一切の感情が無かった。
地方の大学を卒業後、何とかもぎ取った内定。都内での勤務で浮かれていたのも束の間、社会人生活で待ち受けていたのは仕事の厳しさと社内の人間関係の面倒くささ、そしてこの通勤電車だった。
環状に走る、緑のラインが入ったこの電車には大量の人間が押し込められている。殆どがスーツ姿で、老若男女問わず、誰もが無言と無表情で目的地に電車が着くのを待っている。誰が言ったか、現代の奴隷船と言うのも納得だ。もっとも、田辺が今乗っている時間帯は通勤ラッシュも落ち着き始める頃合で、まだ楽な方だった。
それでも、毎日の通勤は辛くて仕方なかった。それでも親元を離れて独立し、田舎に別れを告げて都会生活を送るには仕方ない事だと割り切って理解しようとしていた。
がたがたと揺られながら、田辺はぼんやりと窓の外を眺める。朝の大都会、東京の景色も社会人生活1年目ですっかり見飽きてしまった。
と、彼から1メートルも離れていない車両の出入り口付近で、小さな声が上がった。スーツ姿の男がよろけたと思うと、そのまま近くの男性の肩へともたれこんだ。その瞬間、その男は重力に身を任せて車内の床に倒れた。
突然の急病人に、周囲にいたサラリーマンの何人かは露骨に顔をしかめた。急病人の搬出には時間を取られる、それは即ち出勤時間に影響が出るという事だ。
ぎゅうきゅうに詰め込まれていた車内に、倒れた男を避けるようにさっと、ほんの小さなスペースが出来た。床に倒れこんだスーツ姿の男――歳は五十代ほどか――は血の気の失せた表情だった。恐らくこの車両の中で誰よりも生気のない、いや、もう死人と言っても過言ではないほどの顔色は悪かった。
まだ他人に気をかける暇のある心優しい何人かが、倒れた男に「大丈夫ですか」と声をかける。ある男性が、ガーゼと包帯を巻いた片手を持ち上げて脈を確かめる。だが、倒れた男は反応しない。車内が俄かに騒ぎ始める。
と、男の身体が起き上がった。近くにいたサラリーマンが親切にも、倒れた男の身体を掴んで引き起こした。
男の口からは低い、微かな呻き声が漏れていた。だらんと開けられた口が、突如としてガチガチと動くと、すぐ近くにいたサラリーマン――吊り革に掴まりスマートフォンをいじっていた――へと向けられる。
次の瞬間、そのサラリーマンの首筋に男が噛み付いた。
若いOLの悲鳴が上がる、スマートフォンの画面を凝視していた男が悲鳴を上げる。その瞬間、鮮血が首筋から走った。
血のシャワーが車内の天井、中吊りの広告、そして周りのサラリーマンたちの顔面、スーツへとべっとり張り付いた。噛み付かれたサラリーマンは反射的に男を突き飛ばすが、そのまま白目を剥いて、倒れこんだ。
数人の絶叫が響き渡る。事態を目撃した人たちが我先にと人垣をよけて逃げようとし、状況を理解できない遠巻きの人々が何事かと騒ぎ始める。
田辺も急いで離れようとするが、逃げるサラリーマンたちに押されて乗り遅れてしまう。噛み付いた男は、次なる獲物を探すように辺りを見回し、田辺と目が合った。
――マズい!
田辺がそう思った瞬間、緊急停止のアナウンスと共に、電車が次の駅を目前に停車する。ぐぐっ、とブレーキで揺らされた体が人垣に押し付けられた。
――馬鹿野郎!こんな時に非常停止ボタンなんか押すな!!
心の中で罵声を上げる田辺だったが、ドアへと殺到する人々の列は遅々として動かない。田辺の革靴は、床に転がった新聞紙を踏み、その弾みで床へ転んでしまった。人垣の多さに尻餅を付けるほどの余裕も無く、田辺は周りの人のスーツを掴みながら必死に立ち上がろうとした。だが、それを無視して口から肉片と血を滴らせた男が、低い呻き声を上げながらその両手で田辺の身体を掴んだ。
「ひぃっ」
情けない声を上げた瞬間、田辺は男に噛み付かれた。顔面――右目と鼻――を削り取るように、歯が皮膚と肉を抉り取る。激痛と共に鮮血が漏れ出し、スーツの襟元にぼたぼたと垂れ落ちた。
田辺の金きり声と、通勤者の絶叫に近い悲鳴が車内を埋める中、その視界の外れでは、最初に噛み殺された男が、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。
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