35.船長さんのお仕事場


 乗船用のタラップをあがっていくと、客室ホールへと入る通路の向こうに男性がひっそりと立っていた。

「ご乗船、ありがとうございます」

 黒い肩章がある夏の白シャツ制服姿の圭太朗だった。制帽はかぶっていなかったけれど、梓の先輩と上司がいるため、丁寧にお辞儀をしてくれた。

 三好社長と本多先輩も気がついてくれる。

 三好社長がカバン片手に通路の奥へと挨拶へ向かっていく。

「松浦船長、お久しぶりです。叔父様の真田社長にはいつもお世話になっております」

「お久しぶりです。永野からいつも船長さんのことお聞きしております。乗せて頂きます、よろしくお願い致します」

 本多先輩も今日は圭太朗に丁寧に挨拶をしている。

「こちらこそ、叔父と彼女がお世話になっております。本日も暑かったですね。コンペの参加、お疲れ様でした。どうぞ客室をご準備しておりますので、涼んでお休みください」

 まるで航空パイロットのような制服姿の圭太朗が、今回はクライアントの甥っ子ではなく、船長として接してきたので、三好社長も本多先輩も違う人を見るようにぼうっとしていた。

 三好社長が後ろに控えている梓へと振り返り、にんまりとした顔を見せる。

「彼女がお世話にだって。だよなー、もうすぐ夫と妻だもんなー」

「もう~、社長。やめてくださいって」

 彼の職場だからそういうのやめてと言いたかったのに、本多先輩が思わぬことを真顔で圭太朗に告げる。

「こいつ、今日、元カレと再会しちゃったみたいなんで、俺がビシッと男のほうに釘を刺しておきましたから」

 そんなこと先輩に教えていないのに! やっぱり本多先輩にはばれていた、しかもそれを梓のお伺いもナシにいきなり圭太朗に報告するからびっくり飛び上がってしまう。

 さすがに圭太朗も『え?』と怪訝そうな表情に。

「ちょっと、私、そんなことひと言も言っていないじゃないですか!」

「おまえというより、男の顔を見たらすぐわかった。元カノに追い越されたらそりゃあ、悔しいだろ。あんだけ大人数の大手にお勤めしてりゃ、順番まわってくんの遅いわ。俺も大阪の大手で経験済み。それに、俺の手で育てた後輩がさっと大手の同期を追い越していたのも爽快だったわ。負けんなよ、永野」

 だから、そういう話をマイペースに彼の目の前でしないで欲しいと仰天していたら、そこで圭太朗がクスクスと笑い始めた。

「本多さん、頼もしいですね。これからも彼女のこと、よろしくお願いいたしますね」

「任せてください。俺が手がける以上、立派なレーターにしますから」

 そんな自分のことしか言わない先輩でも、圭太朗は嬉しそうに本多先輩を見つめている。

「お願いいたします。私はほとんどを海の上で過ごします。陸での彼女のこと、三好社長、本多さん、よろしくお願いいたします」

 彼がまた父親みたいに頭を下げてくれている。だから梓も。

「今日はコンペに参加できる経験をさせていただいて、ありがとうございました。今後も精進いたします」

 これから一緒になるふたりの挨拶に、三好社長と本多先輩も『よろしく、頑張れよ』と微笑み返してくれた。

「さあ。客室へどうぞ」

 今日はベッド付きの客室を、圭太朗のつてで特別に用意してくれたため、今回のコンペ出張の帰りは圭太朗のフェリーで帰りましょうということになった。

「いやー、申し訳なかったね。松浦船長。永野から聞いて甘えてしまいまして」

「いいえ。一等客室はそれほど毎回予約がはいるわけではないんですよ。たまの船旅、お仕事のあとでしょう、くつろいでください」

 客室ホールにはいるドアに黒い制服姿の男性が控えていて、圭太朗が『チーフ、よろしく』と伝えると、彼が社長と先輩を案内していく。

 梓はそのまま残った。

「いらっしゃい、梓」

「お疲れ様、船長さん」

 梓から久しぶりに『船長さん』と呼ばれたと、圭太朗は嬉しそうだった。

「おいで」

 梓のそばに来た圭太朗が、荷物を持ってくれる。梓の手を握るとすぐそこの階段へとあがっていく。

 船従業員しか入れない業務用のエリア、ブリッジへの階段だった。

 彼に手を引かれるまま、梓も心躍らせている。今日は、圭太朗が勤める汽船会社の許可を取って、梓も操縦室、ブリッジへ入らせてもらうことになっていて、楽しみにしていた。

 操縦室にはいると、若い航海士青年と、圭太朗と同世代らしき落ち着いた面差しの航海士男性がいた。圭太朗が紹介してくれたが、彼らはなにもかも知っているかのような顔でにんまりと圭太朗をからかうような笑みを見せただけだった。

「船長、出航準備完了です」

「アンカー、上がりました」

 若い青年とクールな航海士さんの報告に、圭太朗がレーダーがあるブリッジ中央に立つ。

 港にはたくさんのライト、そして海上には船の灯り。

「船長、どうぞ」

 航海士たちに言われ、圭太朗が頷く。彼がブリッジの向こう、暗い水平線へと見据える。

 梓はその隣で、ドキドキして、ちょっとゾクゾクして。そんな彼の船長としての横顔に釘付け。

「出航!」

 圭太朗の一声は響くと、ブリッジの景色が動き始める。エンジン音が足下から響いて、目の前の海にはモーターで巻きあがってくる海の泡が広がっている。

「いまから横付けにしていた桟橋と岸から平行で離れ、あそこで進路方向に船首を向けるために回転するんだ」

 その操縦をいま、そこの若いのがしているよ。と教えてくれる。梓が『すごい、かっこいい』と彼を見ると、操縦ハンドルを握ったままにっこりと敬礼をしてくれた。

「そして、これがレーダー。たくさんの点、これが全て周辺にいる船舶だ」

 びっしりと点で埋まっていて梓は驚く。

「スマホの船舶位置確認のアプリを見てもびっしり船の印が重なっているだろ。これはそれよりも精度が高いものだ。ここは港だからたくさん船が入ってきて、いつも渋滞状態だ」

「ここを抜けて、さらに海峡から周防灘に出るのね」

「そう。その位置確認をいま、彼が監視している」

 出航時の気を張るルートのため、いまは二人体勢で行っていると制服姿の圭太朗がいろいろと教えてくれる。

 ほんとうに暗い海の上では、港の灯り、灯台、そして船舶が夜のためにつけている灯り、車で言えばウィンカーのような灯りを目印にしてフェリーが進んでいく。

 港を出るところで大きく回転、船首が真っ暗で広くて、でもたくさんの灯りが散らばる海へと向き直った。

「小倉港、出ます」

 若い航海士の声に、船長と先輩航海士が了解と返す。

 もう梓の中の『鉄心』がわくわくと踊り始めていた。

「うわー、すごい! 大きな船が、ほんとうに、圭太朗さんと航海士さんの手だけで動いている!」

 梓が興奮する声に、圭太朗を含めた操縦室の男たちがにっこり笑顔を見せてくれる。

「あー、アンカーを上げるところ見たかったなあ」

「じゃあ、松山港で降ろす時に見てみるか」

「ほんとに!」

「なんなら特別に上げるところも見せてやろうか」

「いいの! 撮影しちゃってもいい!?」

 圭太朗がおかしそうにしながら『いいよ』と笑っていると、若い航海士さんもクールな顔だった航海士さんもやっぱりクスクスと笑い出した。

「いやー、機関長から聞いていたけれど、ほんっとに乗り物大好き女子なんですね」

「だから、俺たちの船をあんなに上手に描いてくれたってわけか」

 彼らの目線がこのブリッジの背後にある壁へと視線が向かった。そこには梓が描いた船のスケッチが簡易的とはいえちゃんと額縁に入れられ飾られていた。

「船長、海峡に入ります」

「わかった」

 わいわいと梓を挟んで和やかになっていたブリッジの空気が一変する。

 梓の目の前に見える海の幅が狭くなっていた。両脇から迫ってくる陸地。そして暗くて狭い海の向こうに幾つもの船が吸い込まれていくように進んでいる。

 白いシャツ姿の圭太朗が望遠鏡を持って、ブリッジの向こうを眺めては、レーダーを見下ろして確認している。

「悠斗、舵、気をつけろよ。そのままでOKだ」

「了解、キャプテン」

「船長、背後にタンカーがいます」

「汽笛は?」

「なしです」

 前方にいる船舶を追い越す時、後方の船舶が汽笛で合図をすると聞いていた。その汽笛が聞こえないので、タンカーがフェリーを先に海峡へと進ませてくれると判断したようだった。

「そのまま進行」

 梓も緊張する。狭い海峡に幾つもの貨物船が目の前にいて、そこへフェリーがある程度の速度を保って進行していくのを見守った。

 海峡に入ってもおなじ緊張感が続く――。操縦をしている彼も、レーダーで船と船の間を読みとっている航海士さんも、そして双眼鏡を持って船の灯りを確認している圭太朗も。皆、黙々と船を動かしている。

 かっこいい。梓はもうそれだけで震えてしまう。なのに、目の前がぱあっと明るくなってきた。

「ほら、梓。関門橋だ」

 九州の門司と本州の下関を結ぶ大きな橋がブリッジの上に見えてきた。

 暗い空と海も急に青みを増して明るくなる、そして梓の目の前には車が行き来している大きな橋が光をまとって空に浮かんでいる。

「いつも圭太朗さんが送ってくれた関門橋だね。キラキラしていると思ったけれど、本物はもっと明るい」

 その下をまたたくさんの船が行き交っている。

「船長、もういいですよ。仮眠に入ってください」

「彼女さんとどうぞ、ごゆっくり」

 もうすぐ海峡を抜けて大きな海原、周防灘に出るからと、深夜と朝方にかけてのシフトになっているという圭太朗に休むように彼らが勧める。

「じゃあ、あとは頼んだぞ」

「念願のブリッジが見られて嬉しかったです。大事な出航時にお邪魔いたしました。ありがとうございます」

 梓の挨拶にも彼らは優しく笑ってくれた。

 夏シャツ制服の圭太朗に肩を抱かれて、梓はブリッジを出た。

「そこ、俺の船長室。ちょっと一緒に休もうか」

「いいの、仮眠の時間でしょう。私も下の客室で眠るよ」

 三好社長と本多先輩はベッドがある一等客室で同部屋宿泊、梓は一般の二段ベッドを取っていてそこで一泊することになっていた。

「せっかく久しぶりに会ったんだから、ゆっくり話したいよ。それから眠るよ」

 二十日間勤務の彼に久しぶりに会えたのは本当のことだったから、梓もお誘いに甘えてしまう。

 ブリッジ通路の奥にその部屋があった。船長室というプレートが貼られているドアを彼が開ける。

 夜なのに、そこには海峡を照らしている様々なライトでほの明るくなっていた。シーツが夜明かりで青白くなっているベッド。そして船長のデスク。壁には小さなテレビ。床にはまた小さな冷蔵庫があった。

「梓が来ると思って、オレンジティーを作っておいたんだ。叔父さんから作り方を教わったんだ」

「ありがとう。もらっちゃおうかな」

「そこ、座って」

「船長さんの椅子、座っちゃってもいい?」

「あはは、いいよ」

 彼がいつも船の事務仕事をしているだろうデスクの椅子に座ってみた。

 壁には船によくある丸窓があって、それが空けられている。

 海風が入ってきて、潮の匂いが濃い。そしてちらほら見える船の灯りに、そして関門橋のきらきらとした姿も見える。

「素敵ー、ここが圭太朗さんの、……私の旦那様のお仕事場なんだね」

 ガラスコップにアイスティーを入れてくれた圭太朗が梓に差し出してくれる。その後、彼はベッドに腰をかけた。

「うん。……不思議と、落ち着くんだ」

「うん。わかる気がする」

「あ、もちろん。梓が待っている俺の家も落ち着くよ。そうではなくて」

「わかるよ。これが『船長さんの日常』なんだね。毎日毎日、朝も昼も夜も見ている窓辺なんだね」

 海上でほとんどを過ごす彼がいる場所。梓はいま初めて、彼の居る場所を知れて嬉しかった。

「あ、陸君からお礼の手紙が来たんだ」

「え!? 陸君から!」

 菜摘の息子から、汽船会社の事務所宛に届いたとのことだった。

「うん。俺とひと晩一緒にいろいろ話したこと、夜の瀬戸内海や朝の港の色とか忘れられないと書いてくれているよ」

 圭太朗は嬉しそうで、届いた封筒を梓にも見せてくれた。

「いいの? だって……、男同士の……やりとりなんじゃないの」

「梓さんにもよろしくって書いてある。一緒に読んでくださいだって」

 そうなの? いいのかなと思いながら、梓は恐る恐る封筒を開けてみた。

 手紙を開いて、梓は『里見家』の近況を知ることになる。

 だが梓はその手紙を開いた時に『最後に見た菜摘』を思い出してしまってしかたがなかった。


 

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