6.航海のお守りに


 あの日、ただクライアントの親戚さんとして別れた男性との再会。彼は目の前に停泊するフェリーの船長さんだった。

「びっくりしました。海運と仰っていらしたので、てっきり貨物船かと……」

「今年の春に、あのフェリーの会社に雇われて船長をすることになって、この街に帰ってきたんだ」

「そうだったんですか」

 男の人の制服ってズルイと思った。この前はシンプルで一般的カジュアルの独身男性ぐらいにしか思わなかったのに。

 すごく、かっこいい――。しかもあんな大きな鉄を動かす責任者、船長さん!!! 乗り物好きの梓が尊敬するポジションにいる人だった。

「あの、私の名前……」

 よく覚えていてくれたなと思った。

「そりゃ……、お父さんが鉄道好きで、名字がナガノだから、じゃあ長野の特急の『あずさ』にしようなんてエピソード聞いたら、忘れられないよ」

「ほんと、単純で鉄道が好きすぎて困った父なんです」

「でも、梓という名はいい名前だと思うよ。人を乗せる乗り物だから良い名はつけられているだろうからね」

 そんなふうに言ってくれた人も初めてで、梓はそのままぼうっと制帽をかぶっている彼を見上げてしまっていた。

「うわ、それ。梓さんがスケッチしたもの?」

 彼がスケッチブックを覗き込んで、驚いた顔。

「はい。海の背景を描いてこいと本多にいわれてここに来たんです」

「それ。俺の船だよね」

「ここに来たらちょうど停泊していたので描いていました」

 『見せてくれますか』と丁寧に求めてくれたので、梓はそのままスケッチブックを手渡した。

「すごい。俺の船、こんなふうに描いてくれるだなんて」

 彼が嬉しそうに目元をゆるめる。その笑顔が、あの時の真田社長にそっくり、血が繋がっている叔父様と甥っ子なんだと初めて感じた。

「叔父が梓さんが描かれたアルファロメオを見て嬉しそうにしていた気持ち、俺にもいまよくわかります。あの叔父があんなふうに笑うのは滅多にないので、嬉しかったのでしょうね」

「真田社長はよく来てくださるので、駐車している時にスケッチして、それをちょっとデフォルメしただけだったんですけれど」

「船もあったよね」

 あの時、彼が指さしたもののことだろう。

「はい。私が宇部の実家に帰省する時に乗っているフェリーです」

「実家が宇部なんだ。柳井港行きに乗っているってことか」

「そうです。そこから山陽本線に乗って……」

「小郡の新山口駅で乗り換えて、宇部線だね。あの沖合はこのフェリーでもよく通過するよ。でも宇部線も海沿いを走っていて綺麗なところがあるね」

 よく知っていると、今度は梓も嬉しくなる。

「海って、毎日おなじ色ではないですよね。季節や時間帯でとても違うんです。あの時みた駅の海はもう二度と見られなかったりして……。そういうとき、私に描く力や収めるカメラがあったらよかったのにと、忘れられない色があります」

 と、思わず自分のことを話していて、梓はびっくりして口をつぐんだ。でも、制帽のつばの下で、優しい眼差しの彼がじっと微笑んで見つめてくれている。

「船をあんなふうにデザインしてくれていて嬉しかった。この仕事、なかなか知ってもらう機会がなくてね。そして、海の色のことも、よくわかるよ。毎日、海の表情を読みとる場所にいるからね」

 優しい笑顔を黒い瞳に吸い込まれそうになって、梓はただただ彼に見つめられるまま。また頬が熱くなってくる。

 ―― おい、圭太朗! なにをしている!

 彼とじっと黙ってただ見つめ合っていたそこに、そんな険しい男性の声がまた、桟橋の道から聞こえてきた。

「あー、見つかってしまった」

 白髪で口ひげがある作業服姿の男性が強面で叫んでいる。

「機関長の越智さんだよ」

 その男性が怒ったような顔でずかずかとこちらに向かってきた。

「なんだ、ナンパなんかしてるのか珍しいな」

 しゃがれた声だけれど、重厚な威圧感。顔も怖くて、梓は一気に緊張してしまう。

「これから乗船なのにナンパもなにも。叔父が取引している事務所の方ですよ。先日、そこで顔を合わせたばかりだったんです」

「あの珈琲屋のオジキの知り合いか」

 真田社長に負けず劣らず渋いおじ様だったが、こちらは完璧に海と汗の匂いがする男衆といいたくなる。その白い口ひげ強面のおじ様も急に目の色を変える。

「なんだ、これは。俺たちの船じゃねえか」

 彼が眺めていたスケッチに機関長のおじ様も気がついた。

「すごいでしょ。彼女、デザイン事務所のイラストレーターさんなんですよ。今度、叔父のところの仕事をしてくれる担当さん」

 そんな、本多先輩みたいな立派なプロみたいな紹介をされてしまい、梓はまだ自信がないからどこかに隠れたくなってしまう。

「おお、すげえな! こんなふうに俺たちの船、描いてくれたの見たことあるか!」

「ないですよ。だから俺もびっくりして、嬉しくて――」

 そんなに? そんなに嬉しいものなの? 梓も意外すぎてどう反応していいかわからない。

「ほう、すげえなあ」

 強面のおじ様の表情まで優しくなった。

「よろしかったら、どうぞ。さっと描いたものでかえって申し訳ないのですけれど」

 船長さんと機関長さんが『え』と驚いた顔で固まった。非常に困った顔を揃えている。どうしてそんな顔?

「だってこれ。梓さんが一生懸命描いたものでしょう。そんな……」

「いえ、ほんとうに。さっと描いたものなのです」

「お姉さん、仕事でこれ使うんじゃないのか。そんな簡単にあげてしまっていいのか。立派な秀作ではないか」

 機関長さんまで、しかもこちらが凄い剣幕で詰め寄ってきたので、梓は怖くて後ずさりしたくなるほど。

「今日は仕事のアイデアを養うためにスケッチに来ているので、それはほんとうにさっと描いたものなんです。ここに来て一時間も経っていません」

 一時間も経っていないのに、こんな絵が描けるのか!! 二人が揃ってさらに驚いているので、梓も驚いてしまう。

「そ、そういうものです。描くのが仕事ですから。ほんとうに」

 おじ様がじっと船長さんの顔を覗き込む。まるで父親のような顔つきで。

「圭(ケイ)、どうする」

「どうするって……」

「おまえ、ほしそうな顔しているじゃないか」

 大人の凛々しい船長の顔だったのに、そんな男性が照れくさそうにして、でも梓のスケッチをいつまでも眺めてくれている。

「どうぞ。またすぐに描いて帰ります。いま製品の背景を掴むために、市内のあちこちスケッチにでかけているところなんです」

「叔父のあの製品のために……。この港に来てくれたんだ」

「はい、来て良かったです。少しいいヒントが見えました。ですから、よろしかったらどうぞ」

 遠慮してくれている彼からスケッチブックを取りさり、梓からフェリーを描いた紙をばりっとスケッチブックから外した。

「どうぞ」

 彼が嬉しそうに受け取ってくれた。

「ありがとう。今夜からの航海のお守りにします」

「おう、圭(ケイ)。よかったじゃねえか」

 凛々しい制服姿の若い船長と、ベテランだろう機関長が寄り添ってその絵を大切そうに眺めてくれる。

「いまから乗船なのですね。どうぞお気を付けて――」

「ありがとう。梓さん。いい作品ができること祈っています」

 彼がそっとお辞儀をしてくれたので、梓も慌てて頭を下げた。

「それでは、失礼いたします」

「いってらっしゃいませ」

 機関長と桟橋の道に戻っていくのを梓は見送った。

 その絵をいつまでも眺めながら、親しく会話を交わす彼と機関長が停泊しているフェリー後部の、大きく口が開いている車両乗船口へと消えていった。

 梓の頬はまだ熱い。なんか、自分の描く絵であんなに喜んでもらえたの久しぶりかもしれない。胸がドキドキしている。

 嬉しいから? それとも……、制帽のつばの下で優しく緩んだ大人っぽい眼差しも忘れられそうにない。


 夜間に出航するだろう客船フェリーだが、こうして船に乗り込むクルーは早めに乗船してもう仕事を始めている。

 この港での『背景スケッチ』をプレゼントしてしまったので、梓はもう一枚描くことにする。

 今度は島から描きこんで、ただのスケッチではない……、この港の空気に包まれたすべてを、リアルなスケッチではなく、絵本の1ページのようにして描きはじめた。

 また小一時間、そこでじっと描く。もう先ほどの興奮はひとまずどこかにしまって、梓は湧いてきたなにかをなんとか描き留めようとした。

 日が高く昇り、すこし汗を感じた時、梓は筆を置く。持ってきたペットボトルの水をくっと空に向けて飲み干した時だった。

 停泊してるフェリーの上部、ガラス窓が並んでいるブリッジで手を振っている人影に気がついた。

 じっと目を懲らすと、白い制帽の人と作業服の男性が手を振っていると判り、彼と機関長だと梓は驚く。

 あそこで、彼がフェリーを見守っているんだ。そして、あそこで、海の色、表情を読みとって、安全運行になるよう守っているんだと思った。

 梓も思いきって手を振ってみる。また彼が手を振っているのが見えた。

「また、ここに来よう」

 時計はもう午後を過ぎている。ランチタイムも終わった頃で、ようやっとお腹が空いている感覚に襲われた。

 道具を片付け、梓がもう一度ブリッジを見上げた時にはもう、誰も見えなかった。


 

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