7.気難しい先輩
スケッチブックを抱え、梓は十五時過ぎに三好堂デザイン事務所に戻った。
帰るとさっそく、本多先輩が『見せろ』とスケッチを奪っていく。
いつもならここでちょっと緊張をしてしまうところなのに、今日の梓は不思議とすんなりとした心持ちで彼の評価を待っている。
「おい……、これ一発で描いたのか」
「いえ、最初にフェリーの写生をしていました」
「それ、どうした」
どうしよう。クライアント社長の甥っ子さんにまたお会いしたというべきか迷った。
「そのフェリーに乗船する方が気に入ってくださったので差し上げました」
「じゃあ、これはその後に出てきたイラストか」
「はい」
そう返答すると、あちらも梓が何を持って帰ってくるのかと構えていた力みのようなものが和らいだ。
いつも梓が使っているデスクの横に、本多先輩がパイプ椅子を持ってきて座り込んだ。
「おまえさ、よく海に行けたな」
「はい? 港と島に行けと本多さんが言ったんですよ?」
「だってさ、おまえ。船はあまり描かないんだなあと思ってさ。自分が帰省で乗船する船しか描いていない。なんか避けていただろう」
うわ、気がつかれていた! 年上の男だから? 鋭いなと梓はどきりとさせられた。
「まあ、どうでもいいけれどさ。今日ぐらいは市内でただただ鉄を描いてくると予測していた。もちろん、その時は怒ろうと決めていたけどな」
やっぱり、当たっていた。仕事として海に行く気持ちに切り替えたのは正解だったと、梓は胸を撫で下ろす。
「あら、梓さん帰ってきたの」
社長と一緒に事務室にいる琴子マネージャーがデザインブースに顔を見せる。
「琴子、これどう思う」
本多先輩がさっそく、梓のスケッチブックを琴子マネージャーに見せてしまう。
「わあ、素敵。かわいいわね!」
琴子マネージャーが喜ぶ姿を確認すると、彼女がまだじっと眺めているのに、本多先輩がぞんざいにスケッチを取り上げた。それでも琴子マネージャーは怒ったりしない。
「女子で乙女な琴子が喜べば合格だ。だがこの路線で行けともいえない。しばらくは天気がよければ外に出て、なにか掴んでこい。いいな」
梓はほんとにそれでいいのかと、琴子マネージャーをちらっと見てしまった。でも、彼女は余裕でにっこり。
「そうしたら、梓さん。私も三好社長も本多君に任せているから、彼の言うとおりにしてみて」
「わかりました。明日も雨でなければ行ってきます」
スケッチを重ねて、今日のように湧いてきたアイデアをそこで書き留めてこいということになった。
残った就業時間はいつもどおりに本多先輩の手伝いをする。彼の下書きをスキャンしてパソコンに取り込んだり、彼がパソコンで仕上げた色合いが印刷で綺麗に再現されるかチェックしたりする。印刷は四色「ブラック(黒)、イエロー(黄)、マゼンダ(赤)、シアン(青)」だけで千差万別の色を表現するようになっている。クライアントのイメージに添えるよう、最後はその微調整も大事になってくる。
いま彼が担当しているデザインすべての細々としたチェックと報告は梓に任されていた。もちろん全てが作者本人である本多先輩の了承が必要になる。
外に出ていたらそういった細かい仕事が溜まっているはずなのに。梓がいつもの時間に帰れるだけの分量にちゃんと捌けている。
本多先輩がひとりでやったのかな? いつものメインの作業をしつつも、こうした細々としたことを嫌がらずに自分でやっていたのだろうか。
本気で梓に真田珈琲の仕事をさせるつもりなのか、まだ信じがたいけれど、厳しくてもいいことも悪いこともきちんと伝えて評してくれるのは本多先輩だけ。
いま目の前にあるアシストをきちんとこなそう。今日は不思議、心の底からなにかが湧いてくるこの感じ……。
秋の夕暮れは早い。窓の向こうはもう真っ暗で三日月が、梓を見つめていることに気がつく。
まだ本多先輩がなにか夢中に描いているから、梓もスケッチの続きをしてみる。
事務室から琴子マネージャーが様子見にやってきた。本多先輩のブースを彼女が覗く。
「まだ終わらないの? 早く帰れる日に帰って、ちゃんと休養したら」
「わかってる。俺のことはいいから、おまえこそ早く帰れよ」
いつも思う。なんかこのお二人は息が合っていて、気持ちが通じているのが透けて見える。つっけんどんで自分中心の本多先輩が唯一気を許しているのが琴子マネージャーで、彼女であれば譲ることもあって、でも、だからこそ譲れずに我を貫き通そうと誰よりもきつくあたるのも琴子マネージャーだった。
なのに男と女になりそうな匂いがどこにもない。
「帰りたいけれど、来ないんだもの」
琴子マネージャーが仕事ではない口調になった。そういう話し方を本多先輩にする時がある。まるで、ほんとうに同級生のような気易さを見せることがある。
「なんだ。今日は駐車場にゼットがないと思ったら……。お迎えの日かよ」
「うん。ひさしぶりに漁村のマスターのところに行くの」
「へえ、いいな。俺もしばらく行っていない。今度休みの日に行ってみるかな」
「そうしてよ。伊賀上マスター、本多君に最近会っていないと心配したいたみたいよ。英児さんが電話でそう話したって」
『そうか。うん、顔を出してみる』と、本多先輩が素直な返答。
本多デザイナーと琴子マネージャとしてやりとりしている姿と違った。これはもう琴子マネージャーもプライベートモードになっていると梓は感じる。
どうやら今日は旦那様とデートらしい。彼女が朝、ゼットで出勤をしなかった日は、旦那さんのスカイラインで送ってもらって出勤になる。そうすると大抵は、迎えも旦那様のスカイラインでそのまま二人でドライブデートという約束らしい。
まだ子供もいないようなので、新婚気分のまま、いつだって仲がいい。
そうして旦那さんのお迎えを待ちながらも、没頭すると周りが見えなくなるデザイナーのことも気にかけている琴子マネージャーが呟いた。
「本多君、それ……」
「考えがあってやっているんだよ、黙っていてくれ」
琴子先輩がちょっと不安そうな顔になった。いまパーテンションの影に隠れていて、本多先輩がなにをパソコンモニターで作成しているのか梓には見えない。
「ちゃんとしてよ」
琴子先輩もそれだけいうと、彼のことはそっとしておこうとブースから離れた。
そしてブースの外、すぐそばのデスクで梓が手持ち無沙汰にスケッチをしている姿に気がついてくれる。
「本多君、また梓さんを放っているの」
「あ、忘れていた。永野、帰っていいからな」
「もう~、没頭するとそういうことすぐ忘れちゃうんだから」
「うるさいな。気が散る。さっさと旦那とデートに行って来いっつーの」
小言をいわれ、口悪い返答をする本多先輩に琴子マネージャーもさすがに呆れて、そこから離れていく。
それと同時に、事務所の窓の外から『ドウンドウン!』と重たいエンジン音が聞こえてきた。
梓も思わず椅子から立ち上がってしまう。宵闇に真っ黒なスカイライン、ライトをぴかっと光らせ停車した。
琴子マネージャーも気がつき、もうそれだけで頬を染めて嬉しそうに事務室に戻っていく。
事務所のドアが開くと、腕に龍と星のワッペンをつけている紺色の作業ジャケットを着た男性が現れる。
「お邪魔しまーす。女房迎えに来ました」
滝田英児社長だった。琴子マネージャーの夫で、滝田モータース社長、龍星轟という車の整備屋を経営している。なので、趣味で90年代頃のスポーツカーを何台か所有し、愛車は日産スカイラインR32 GTR。だいたいこの車でいつも訪ねてくる。
「おう、英児君。今夜は琴子とデートだって」
三好社長とも社長同士、愛車の点検を頼む顧客、元々知り合いだったようで親しくしているとのこと。だから、三好社長も滝田社長がやってくると楽しそうに話かける。
そして、三好社長に話しかけられ、滝田社長はいつもそこでにぱっと明るい笑顔をほころばせる。
「そうなんすよ。漁村のマスターからまた車の相談受けたんですけれど、どうもこっちまで運転してくれるのがしんどいとかで、様子を見に行くことにしたんです」
「そうか。伊賀上マスターも年だもんな。俺も近いうちに行ってみようかな」
「行ってやってください。おっちゃん、みんなに会えるのが元気の素だから」
デートというドライブのようであって、実際はそのマスターを案じて行ってみようということだったらしい。
この滝田社長がやってくると、なんだかそこがパッと明るくなる。元ヤンキーだと聞かされていたけれど、梓はぜんぜんそう感じたことがない。ハキハキした軽快で明快な社長さんというイメージしかない。いつも男らしい匂いを放って、柔らかで女性らしい匂いばかりの琴子先輩とほんとうにお似合いだった。
その明るさに惹かれる者がここにもひとり。あんなに没頭して琴子先輩を追い払った本多先輩が、滝田社長の声を聞いただけでブースから出てしまう。
しかもその明るさと男らしさに吸い寄せられるようにして、事務所の玄関にいる滝田社長へと自分から近づいていく。
「社長、久しぶりですね」
「おう、本多君! なんか真田さんのオーダーで追い込み中と聞いていたんだけど終わったのかな」
「ええ、まあ、なんとか」
ハキハキしている滝田社長に対しても、本多先輩はぶっきらぼうな返答。それでも滝田社長はなんのその。そんなもやっとした返答でもぱっとさらなる笑顔をみせる。
「なあ、それならさ。今度、小龍包を食べにいかね?」
「いいっすね」
ハキハキしたお誘いに、ぶっきらぼうながらあの本多先輩は即答する。しかも自分からスマートフォンをポケットから取りだして、スケジュールを確認しはじめる。
「来週、水曜とかどうですか」
「いいよ。じゃ、また俺から電話するな」
「俺からしますよ」
「わかった。楽しみにしているな!」
即決で一緒に食事の約束が成立。滝田社長はそうして、どんな人もふわっと明るい空気に巻き込んでさっと動かしてしまう人。そしてどんな人も滝田社長を信じている。人望があると梓は聞かされていた。
そんな梓にも滝田社長は気がついてくれた。
「梓さん、こんばんは。今度また、俺の車を描いたら見せてくれよな」
「はい。是非。今度はハチロクが見たいです」
「おう、じゃあ。今度、琴子を迎えにくる時はレビンに乗ってくるわ」
白い歯をにぱっとみせてくれる明るい笑顔とさっぱり爽やかな挨拶を、いつも忘れずにしてくれる。
まだ彼のお店に行ったことはないけれど、ガレージにはスカイラインをはじめ、数台のスポーツカーを愛蔵しているらしい。そのガレージを見てみたい。
「それでは、お先に失礼いたします」
琴子マネージャーが身支度を終え、玄関で待っている旦那様のところへ。
「では、琴子もらって帰ります。お邪魔しました」
滝田社長が顔が見えるメンバーに挨拶をして、琴子マネージャーの肩をぐっと抱き寄せた。
いつもそう。奥さんの琴子先輩が隣に来ると遠慮無く自分の側へと抱き寄せる。そうして力強く連れていく。男らしいさ満載で、梓はいつもあてられる。いいな、男っぽい旦那様!
それでも滝田社長は最後に、肩越しに振り返ると、本多先輩に手を振った。本多先輩はまたちょこっと会釈をしただけ。
こんなぶっきらぼうで気むずかしい男に良くあわせてくれるのは、なにも琴子マネージャーだけではなくて、彼女の旦那様まで。そういうご夫妻だった。
スカイラインがまた重いエンジン音を唸らせ、駐車場から発進していく。それを見届けた本多先輩も溜め息ひとつ、ブースに戻った。
「はあ、滝田社長が来ると調子が狂う。俺ももうやめた」
なにかを描きこもうとしていたようなのに、本多先輩がもうそこで集中力が切れたとばかりに片づけをはじめた。
「永野も帰っていいからな」
「はい」
梓も片づけをはじめると、事務室から『おい、雅彦』と本多先輩を呼ぶ三好社長の声。そのまま彼も『はい』と返事をして、ブースを放って事務室、社長のところへと向かっていく。
片づけを終えた梓も事務室のロッカーへと向かおうとしたが、また本多先輩のデスクが散らかっているのが目に留まってしまう。
いまにも落ちそうなプリントがあったのでそれだけでもデスクの上に戻そうとした時……、彼が放っているパソコンモニターに映し出されているイラストを見て驚愕する。
「これ、私の……、」
今日、港で絵本のような1ページの気持ちで描ききったイラストだった。
でも梓のラインではない。上級者が描く、プロの描き方。おなじ構図、おなじイラスト。でも雰囲気がまったく異なる。しかもプロの先輩が描いたから洗練されている!
琴子マネージャーが見て不安そうな顔になったのはこれを見たから?
もちろん、梓にもなんともいえない不安が襲ってきた。
なんのために。梓がやっと描いた一枚を自分の作品のように描いているの? まさか――。
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