21.船の男は突然に
年末年始休の休暇が始まったら、梓は宇部の実家に帰省する予定。
その頃にはもう、圭太朗はまた出航してしまう。彼の年末年始は海の上。乗員達とひっそりと迎えるとのこと。しかもその頃は帰省ラッシュや休暇旅行などで人が増えるので忙しくなるらしい。
ゆっくり実家に帰っておいで。ご家族を安心させてあげたらいい。いつもの穏やかな大人の顔で彼が言った。
それまでは。ふたりで!
仕事が終わると、梓はまっすぐに自宅へ向かう。玄関を開けるとすでに灯りがついている。
「おかえり。今日も遅かったな。お疲れ様。そろそろ帰るというメッセージをくれたから温めておいた」
今夜は魚のフライとクリームシチューだよ――と、黒いエプロンをしている圭太朗がキッチンで迎えてくれる。
「帰ったらごはんが出来ているなんて……。しかも温かい手作りなの。信じられない」
まさかの彼氏が作ってくれる状況に出会えるなんて、夢にも思っていなかった梓にとっては、毎日がふわふわ幸せで仕方がない。
「ほら。また明日も残業になるんだろ。早く食べて、早く寝る。体力回復、温存だ」
船乗りは海の上ではそうして体調に気遣っていると、どんなにふたりで毎日一緒にいても、圭太朗は生活リズムを大事にしていた。決して男女の熱に堕落するような生活に崩したりしない。
そんなところは、梓も熱くときめいていても、繁忙期なので助かっていた。
「手を洗ってこいよ」
「もう、子供じゃないよ。ちゃんと毎日しているから」
ちょっとむくれて、大人の船長さんにくちごたえする気易さも備わってきた。でもそうして梓がぷっとむくれても、やっぱり船長さんは『はいはい』と余裕で笑ってくれている。
彼も梓を待っているのが楽しそうで、一緒に食事をすると笑ってばかりで、そして、夜になるとそっとふたりで触れあって、とろけるような愛撫をして抱き合って眠る毎日だった。
そんな楽しい休暇はあっという間に過ぎていく。
今夜もお風呂はオレンジの匂い。今日は梓ひとりで入った。何故なら、圭太朗は梓がいつもスケッチをしているテーブルで参考書を開いて勉強中だから。
「圭太朗さん、出たよ」
「うん。わかった」
いつか梓に『それでもやらなくちゃいけないだろう』と、仕事をする男の厳しさを見せてくれた横顔そのままで、彼は海の勉強をしている。
平日は梓の自宅と港の社宅を行き来している圭太朗だったが、夜はこうして梓の部屋で過ごすため、ある時その参考書や書籍を持ち込んできた。
その書籍には『水先人』と記されていた。
水先人……てなに?
その名の通り、船を導く人のこと。『パイロット』だ。
パイロット? 飛行機を操縦する?
元は水先人の『パイロット』が語源といわれている。海の潮の流れや気候を読みとって、混み合う海峡や港などを安全に運航してもらうために、どのようなコースを辿るかアドバイスをする。それが『水先人』だ。
圭太朗のいつにない真剣な説明に、梓も悟る。
圭太朗さん、水先人になりたいの?
船長を務めた者がランクアップした職業だ。船の運航を護る仕事でもあるんだよ。
聞けば、規定の船長職歴と高度な英語力が必須のためその資格も必要だとのことだった。水先人にも1級、2級、3級とあり、圭太朗は自分の職歴に合わせたところを狙って勉強をしていると教えてくれた。
ゆくゆくはその水先人になってみたいという目標があることを梓は知る。
瀬戸内海も混雑する海域、日本国籍以外の外国船舶も航行する。外国人船長や海外へと航行する船長たちは、訪れた国の内海の性質を知らないため、そこでその国の水先人が呼ばれ、その日の天候や潮の流れをアドバイスをして、船長が航行するコースを決めるのだそう。
船の男たちは、経験を経てその職に就くベテランに敬意を示し、憧れるものなんだと教えてくれた。
水先人は一日に五、六隻の船をクルーザーやタグボートで移動して訪問するとのことだった。しかもその船に到着したら、港であるようなハッチを開けての乗船ができないため、船の側面に縄ばしごを垂らして登って乗船するのが一般的だと聞かされ、梓は驚くしかなかった。
俺もいまのフェリーに乗った時に、元船長の水先人が来てくれていろいろ教えてくれた。ほんとうにかっこいいんだと嬉しそうに話してくれた。
彼がいつかその仕事に就くのかもしれない。そうしてこつこつと空いた時間は勉強をしているとのことだった。
そして今夜も彼は黙々と参考書を読み込んでいる。
そっとして梓もお肌を整えたりして寝る準備をする。そのうちに彼がすっかり慣れた様子でバスルームに行った。
部屋の灯りを消して、梓はさきにベッドに横になる。
もちろん、なるべく眠らないよう彼を待っている。その間に、梓にも仕事のことが頭に浮かぶ。
年末年始の商戦に合わせたオーダーが立て込んでいる中、本多先輩が梓に二つのオーダー票を見せた。
『ひとつは大手カメリア珈琲の春向けスイーツフェアのチラシ、もうひとつは地元の洋菓子会社の春スイーツフェアだ』
今年も春向けスイーツに向けての準備がはじまった。真田珈琲の春スイーツ定番は『苺ミルフィーユ』。琴子先輩が絶対に毎年欠かさず、どんなに忙しくても食べに行くという一品。それは梓も琴子先輩に誘われて一度食べてから虜になってしまったから、納得の絶品だと思っている。
他社も同様、春向け商戦へと力を入れてくる。今年もそのオーダーが本多先輩にやってきた。梓もこれでこの二社の春商戦制作アシストは何度目か。
『どちらかおまえがやれ。どっちをやってみたいか決めろ』
アシストではない。梓のオーダーにしろとまたいきなり本多先輩が突きつけてきた。
『あの、ですが』
また戸惑う梓に、業を煮やした渋い顔で本多先輩がきっぱり言い放つ。
『もちろん、俺が指導する。おまえひとりにやらせられるか。俺の仕事だから、おまえにもやらせてやるって言っているんだ』
口は悪いが、師匠の愛は感じられた。他のヤツになんか絶対に譲らない、俺が認めた弟子だからやらせてやるんだ――と。どんなに尊大な言い方でも、気難しいこの人からこんなふうに言ってもらえるのはなかなかないこと。
『こちらで……』
恐る恐る指さしたのは、全国大手のカメリア珈琲ではなく地元の洋菓子会社のチラシ。
『わかった。過去数年間のチラシを参考にしろ。全国区大手を避けたな。でもな、地元で根付いている会社には地元の空気感が必要になる。それと共にもちろん市民の心を躍らせるトレンド感だわかったな』
頷いて、梓はさっそく選んだ洋菓子会社の過去チラシを、社長と琴子先輩がいる事務室資料棚からピックアップした。
また新しい仕事が梓には待っていた。
こんな仕事も急展開、恋も急にやってきた。なにもかも突然すぎて、自分の日常として取り込むのにいまはいっぱいいっぱい。
でも、しあわせ。
圭太朗がバスルームから戻ってくる。暗くなった部屋からキッチン冷蔵庫へ、水分補給でミネラルウォーターを飲む素肌の背中が見えた。
オレンジの匂いがする男が素肌で、梓のベッドに潜り込んでくるのも日常になってしまった。
「起きていてくれたんだ。眠っていていいのに」
「まだ眠くないよ」
また静かに触れあうだけの夜を過ごす。彼と一緒に素肌で眠ろうとしたが、圭太朗がふと呟いた。
「俺が泊まるようになって、寝心地悪くなっただろう」
「ううん。つま先まで温かくなるから助かってるよ。逆に背が高い圭太朗さんのほうが身体痛くなっていない?」
なるべく梓の寝床を邪魔しないようにと、彼が遠慮して片側で縮こまっているのが伝わっていた。
今回の十日休暇は一度だけ週末土日が挟まっていたため、その時は部屋もベッドも広い圭太朗の社宅で過ごした。しかし平日は圭太朗は休暇でも梓は仕事。職場近くの自宅から通うために、こうして圭太朗がこちらで過ごすことになっていた。
僅かな時間だから一緒にいたい。だから生活するのに居心地よくないことがあっても、ふたり一緒にいたいから感じないようにする。いまそんな日々。
「陸に帰ってきたら、やっぱりこうしてくっついて一緒にいたいんだ」
彼にまた背中からぴったり抱きつかれる。腕の中でくつろぐ梓の黒髪を指ですいたり巻いたりして圭太朗がずっと眺めている。
「俺の部屋から通うのも大変だよな」
港の社宅と電鉄の駅は離れている。平日そこからデザイン事務所に通勤するのは確かに大変だった。だから平日は梓の部屋で過ごそうということになった。
「なあ、どうせなら。俺と一緒に住む?」
「え、あの社宅に?」
違う――と彼が首を振る。そして真剣な眼差しで、梓の顔を覗き込んだ。
「梓も通える駅が近い、そして港ともそれほど離れていないところに、新しい部屋を探して暮らすんだよ」
「え! あ、新しい部屋……!?」
また唐突なことが起きて、梓はがばっと起きあがってしまった。
「今度の休暇、一緒に住む部屋を探さないか」
「待って、待って」
男の人と同棲なんて考えたこともない! ただでさえ社会人になって大人の恋を初めて経験し始めたばかりなのに!
「心配しないでも、俺が借りるよ。船乗りは高給取りだって知らないだろう。しかも俺独身、けっこう余裕があるから良い部屋見つけような!」
やっぱり船の男は急激すぎる。やっぱり出航前に大事なことを突然言い出す。
―◆・◆・◆・◆・◆―
突然『一緒に暮らそう』と驚くことを言いだしたまま、船長さんはまた海へと出航してしまった。
もうすぐお正月休み。仕事もひと段落、梓は帰省するための準備をようやっと頭の中に思い浮かべていた。
昨日までは玄関を開けると、暖かい空気に、料理をしているいい匂い、そして明るい部屋だったのに。『ただいま』と入ると真っ暗で誰もいない。
寂しくないと言ったら嘘になる。あんなに濃密な毎日を送った後に、一人きりの部屋に帰るその味気なさもとことん味わうことになった。
でも。梓は暗い玄関で靴を脱いで、ひとりで部屋に入る。
その分、彼がたくさん愛してくれた。それがあるから、それが肌にも、心の中にも、目をつむっても、そして匂いも。なにもかも梓の全てに刻まれているから『大丈夫』。
部屋の電気をつける。明るくなった部屋、いつもイラストを描いているテーブル、圭太朗が参考書を読んでいたテーブル。そこに赤いポインセチアの小さな鉢植えと、綺麗なリボン飾りの包みを見つけて驚く。
十字にかけてある金色シフォンのリボンに、カードが差し込まれていた。
【 メリークリスマス こんなの十何年ぶりだよ。梓も忘れていたみたいだったけど、なんとか俺が思い出した。いまどきの女の子の好みがわかりませんでした。でも、これ梓らしいなと思うものを選んでみました 】
「嘘、なにこれ」
忘れていたのではない。きっと圭太朗も同じはず。今がクリスマスの時期と耳と目で確認していても、なにも感じなくなっていただけ。クリスマスなんて、梓もずっとしていない。学生時代に仲間とパーティをしたぐらい。仕事で散々、クリスマス商戦のデザインにオーダーをこなしても、もうそういう仕事になるシーズンというだけで、クリスマスなんてもう存在しない。『ぼっち』とも思っていなかったほどに。
ふわっとした薄紙に包まれたものを、そっと梓は手に取った。
「私、なんにも……考えていなかったのに……」
その包みに顔を埋めて泣いた。
ひとりきりが長かったから? 不惑の歳までひとりを噛みしめてきたから? だから気がつくの?
「圭太朗さんに、なにも、しなかった」
約束のバスソルトのボトルをそのままあげたぐらい。クリスマスの気持ちであげたわけではない。なのに、彼は……。
船の男は一年の三分の二は海上にいる。貨物船は三ヶ月勤務に一ヶ月の休暇、客船は二十日勤務に十日の休暇。外国へ行く外航船は、六ヶ月乗船の四ヶ月休暇。だから、離れている分、休暇になると海で触れ合えなかった分、濃密に甘くなる。
今回の休暇も、彼は梓の中に色濃く痕を残して、甘い味を覚えさせて。
包みを開けると、たしかに梓が好きそうなマフラーと、そして、小さなダイヤがついているプラチナペンダント。
女性に、しかも歳が離れている女の子に、久しぶりのプレゼント。どこでどんなふうに探して決めてきてくれたのか。梓が働いている日中に、彼が黒いセリカを運転してあちこち探してくれた姿が見えてしまう。
「うん。一緒に暮らす。そこで待ってる、圭太朗さんを」
陸で一緒にいたい、少しでも一緒に。そう望んだ彼のために、梓は一緒に暮らすことを決意した。
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