20.二十日間の妙薬
もう年の瀬、街中は蜜柑や柚子にレモンが庭木に見られる季節になってきた。
彼と通信で連絡を取りながら、仕事に没頭しているうちに、あっという間に二十日間が過ぎた。
その間に、窓枠をイメージしたフレームが採用された。
本多先輩と梓が描いたフレームのイラスト数点の中から、お好みのものを選んでもらう。
本多先輩の綺麗で精巧な色合いのフレームも、梓の素朴でほんわりとしたフレームも、時間帯とイラストのイメージに合わせて選んでもらえた。
また打ち合わせの帰り際、真田社長に呼び止められる。
今回は三好社長が事務室の社長デスクに構えていたので、お見送りという名目で真田社長と一緒に駐車場に出た。
白いアルファロメオの運転席まで見送るふりをして、そこで真田社長と向きあった。
「船に乗っている圭太朗から連絡がありました。お付き合いを始めることにしたそうですね」
「はい。どうぞよろしくお願いいたします」
今日は黒いレザーのハーフコートに千鳥格子のマフラーをしている社長が、眼鏡の奥の眼差しを緩めた。
「これで、叔父と姪のようになるかもしれませんね」
「いいえ、まだそんな……」
「ですが、だからこそお仕事では容赦しませんよ。これでも、いいイラストを描いてくれる女性を見つけたと思っていたのですよ。それがまた、甥の恋人となれば、立派なイラストレーターになって欲しいですからね」
「まだ本多の指導がなければ未熟ではございますが、今回いろいろと勉強になっております」
そうして梓は、ほんとうに自分の良きおじ様になってくれそうな社長を見つめた。
「圭太朗さんに出会ってから急に、色が溢れてくるんです」
「色、ですか」
「はい。気がつかなかった色、思い出した色、知らなかった色、様々です。すみません、こんな言い方しかできなくて」
だが、それが梓に描かせているのも本当だった。避けていた海に愛おしさを感じることで溢れてくる色。それがまた仕事で梓を助けてくれている。
冬の夕はもう夜空。また機関長のように、真田社長も空を見上げる。今夜はハーフムーン、小舟のような月が見える。
「絵描きらしい感覚なのでしょうね。私が『そうだ、このテイストだ』と閃くのと同じなのでしょう」
その感覚が通じて、梓も嬉しく微笑んだ。
「それにしても、不思議なことです。私の車が故障したから、デザインや商売には関係のない甥を連れてきた。そこに、乗り物が好きな女性がいて、港で出会うなんて。やはりご縁だったのでしょうね」
最後に真田社長が『下船、上陸したら、貴女を連れて本店に来ると連絡がありました。お待ちしております』と言ってくれた。
梓ももうすぐ交代上陸になる圭太朗から【 休暇前に叔父には報告しておくな。梓と仕事で面と向かっているから、無関係というわけにはいかないだろう。いいよな 】というお伺いのメッセージも届いていて、梓はもちろんクライアントにもなるためそこはケジメをつけておこうと了解していた。
「このぶんだと、春には予定どおりイメージどおりでフルーツ紅茶が販売できそうですね。あと少し、よろしくお願いしますよ。梓さん」
「はい。社長。どうぞお気をつけてお帰りください」
「私の店や外では、おじさんでかまいませんよ」
そう言ってくれた社長の顔はもう、狼社長さんではなくて、ほんとうに優しい叔父様の顔だった。
船長さん、ついに上陸。朝方【 港に着いた 】との連絡。
【 自宅で休息を取りますが、夕には会いに行きます。仕事が終わったら連絡をください 】
夕方になり自宅に戻った梓もすぐに【 仕事、終わりました。自宅で待っています 】とメッセージを送信する。
【 いま車を駐車場に入れた。梓のマンションから歩いて……、神社の近くの…… 】
梓の自宅前には駐車できないため、あらかじめ調べておいた近所のコインパーキングにセリカを駐車したとのメッセージを着信する。
コートを羽織って、梓は自宅を出る。白い息がでる夜道を急いだ。古い街だから古い道は狭い。なのに帰宅ラッシュで車がわりと行き来する。
彼が教えてくれたコインパーキングはバイパスの道沿いにある。大きなスーパーにパチンコ店、ドラッグストアが煌々と並んでいる道筋。でもそこから奥にはいると、古くからある街の住宅道になる。
小さくて古い神社の前を通り過ぎようとした時だった。
「梓」
黒いハーフコートに、いつものデニムパンツ姿の彼がそこにいた。
「迎えに来てくれたんだ」
二十日ぶり、船長さんではない、大人の男の笑顔がそこにあって、梓はなにも言わずに彼に勢いよく抱きついてしまった。
「お帰りなさい」
「ただいま。元気だったか」
背が高い彼の胸元で『うん』と頷く。彼もすぐに梓の黒髪を愛おしそうに撫でてくれる。
「なんだ、ほっぺたが冷たくなっている。あったかい部屋で待っていてくれてよかったのに。梓の自宅は知っているからちゃんと一人で行けたんだから」
それでもコートの衿を開いて、彼の胸へと梓を抱き寄せ温めるように包んでくれる。下に来ているフリースに柔らかに頬がうずまって暖かかった。
「じゃあ、いまから俺も梓の部屋で温めてもらうかな」
「狭いよ。部屋もベッドも」
「ベッドの心配してくれていたんだ」
圭太朗が余裕顔で笑った。そして梓も『そういうことを想像して待っていた、案じていた』という気持ちが言葉に出てしまったとわかって、頬が熱くなった。
神社の周辺は暗くなると人気がなく、静か。街灯しかない細い道で、圭太朗がそっと梓のくちびるにキスをする。
「忘れられなかった? この前のこと」
あの休暇の夜、初めて触れあう夜は優しくとろりとしたキスをしてれた彼だったのに。
「うん……、忘れられなかった・・んっ」
食む。そんな言葉がぴったりと思うような、梓のくちびるも舌先も彼の唇に吸われている。
それだけで、梓の身体の芯が熱くなることを覚える。奥に残された『男の指の痕』がまるでスイッチを入れたようにして脈を打つ。
車のライトが近づくのを知って、二人は我に返って離れた。
「梓が甘いから……」
そういうこと臆面もなくいってくれる彼が、思いの外真剣な眼差しだから、また梓の頬がさらに熱くなってぼうっとしてしまう。
車がやってきて、狭い道ですれ違う時、彼が梓の肩を力強く抱き寄せ道端に寄せてくれた。
梓もそのまま、彼の胸に頬を寄せて歩いた。
―◆・◆・◆・◆・◆―
「うわ、ほんっとうに模型がある!」
梓の部屋に入るなり、小物ラックに鉄道模型を飾っているのを圭太朗が見つけた。
「三段目も四段目も、五段目はミニカーと飛行機!?」
ほんとうに鉄子だったと驚いている大人の船長さんを見て、梓も笑ってしまう。
「飛行機はお祖父ちゃんがプレゼントしてくれたものなの。これはボーイングの747、引退しちゃったの。これは三菱重工のF-2、航空自衛隊の戦闘機ね」
「この段は梓の目線だろ。さてはお気に入りを飾っているな。特急あずさはどれだ」
「お気に入りは正解なんだけれど……。この目線の位置に展示しているのは……、ここ近年に引退しちゃったお気に入りさんたちなの」
ラストランをした車両を惜しむように飾っていると知った圭太朗がますます『本物の鉄子』と実感が湧いたようだった。
「俺は梓の由来になった『特急あずさ』を見たいな」
本棚から鉄道雑誌を取り出して、そのページを開き『特急あずさ』を圭太朗に見せた。
「これが国鉄時代の国鉄色あずさで、これがあずさ、これがスーパーあずさ……」
「思った以上にいっぱいあるんだ」
それでも圭太朗がその鉄道雑誌をしげしげと眺め読み始めてしまった。
しばらくページをめくってひととおり眺め終えると、彼が雑誌を閉じる。カーテンを閉めている窓辺をじっと見つめている。
「模型があっても、部屋の雰囲気は女の子だな」
今度はテーブルの上にあるスケッチブックや色鉛筆などの画材を眺めている。
「俺が知っている梓そのものだ」
模型も雑誌も集めているけれど、好きな服はガーリーなものが多く、部屋のインテリアに小物もかわいらしいものを梓は選んでいる。鉄道車両を描いたスケッチブック片手に、カラフルなタイツに柔らかい生地のロングスカート、シンプルなトップスにパーカーかカーディガンのガーリースタイル。そんな梓のスタイルのまま、部屋も同じだと圭太朗が言う。
「あのオレンジの匂いも、梓からする」
すぐそばにいて一緒に鉄道雑誌を眺めていた梓の黒髪の匂いを圭太朗はかいでる。
「陸に帰ってきた、と感じるよ」
そうして、彼が梓を背中から力強く抱きしめる。彼の唇がそっと梓の耳に触れる。耳、頬。梓が彼を見上げると目が合う、自然と目を瞑れるし、彼の肌が近づいてくるのがわかる。冬の夜は静かだから、ちゅっと何度も強く吸われる音が聞こえてしまう。
「梓、あずさ」
彼の息が梓の首元に熱く降りかかる。熱い唇が首筋を這い、男の大きな手が梓の身体を肌をさぐる。
「肌から、バスソルトの匂いがする。もしかして」
そういいながら、圭太朗は梓が着ているパーカーのジッパーを降ろしていく。
「もしかして、もう風呂に入った?」
パーカーを肩から脱がされ、急ぐようにして彼の手がセーターをめくって素肌へと潜っていく。
「入ったよ。帰ってきた圭太朗さんに、この匂い感じて欲しくて」
「一緒に入りたかったのにな」
「また、……あと、でっ」
初めて触れた先月と違う彼の触り方、すこし痛みを感じる粗っぽさ。
「痛かった? ごめん」
梓は首を振る。その行為でさえ、梓には甘い痛み。もう身体の奥がつきんつきんと脈を打ち始めている。
「だ、大丈夫……」
先月より彼を受け入れて、自分の身体も肌も柔らかくなっているし、熱く感じている。
うそ、私、そんなんじゃなかった。梓は戸惑いながらも、圭太朗が上手に梓の衣服を解いていくのも素直に従って、そのままベッドに寝かされる。
ベッドに寝そべった梓の上に、また圭太朗がまたがる。彼も自信があるとかないとかもう気にしていないかのように、真剣な眼差しで梓を見下ろしながら、衣服を脱ぎ始める。
部屋の灯りを落とし、ベッドサイドのライトだけ。
「うっ、あん……」
「この匂い、狂いそうだ。この柔らかいのも、優しいのも、あずさ……あずさだから……」
そう呟きながら彼が肌のあちこちにキスを落としていく。ちゅっと優しいものから、男の情念を垣間見るような執拗な愛撫も、梓はどれもこれも感じずにいられず、どれもこれも気持ちが良くて悦んでいる。
汗ばんできた肌と、自分でも聞いたことがない女っぽい声、吐息。ほんとうに空に昇るみたいとはこのことかと思うほど。男に愛されるのがどのようなことか知ってしまう。
もう戻れなくなってしまう。慎ましいセックスしか知らなかったのに、知らなかったのに。
愛されるほどに頬が熱くなってきて、なにもかもが灼けそうで、あの時のように、あの時のように、また甘美の風にさらわれていきそう……。
もうダメ、またなにもかも弾けて我を忘れる。そう思った時と同時に、今までにない感触が梓の身体の中で起きる。
「え」
おもわず、梓は目を開けてしまう。彼も『え』という目をしている。お互いにほてっている身体を密着させて、一瞬だけ見つめ合った。たぶん、おなじこと思っているはず。
それでも圭太朗は続けた。梓のすぐ真上で見つめる目が、強い男の目。
「梓っ」
安いベッドが彼が力んだことでギシッと音を立てた。
堅い爪がある指ではない感触、それがなにか梓ももうわかってしまう。
「あん、う、うそ、圭……さん?」
またベッドがギシッと音を立てた。
二、三回、ベッドの音が小刻みに軋む。
圭太朗さん! 心でそう叫びそうになったが、梓の中でなにもなくなった感覚に戻ってしまった。
梓の真上で、裸の男がはあはあと息を切らし、悔しそうに眉間に皺を寄せて額の汗を拭っていた。
「ほんとに……、消えてなくなりたい」
梓の身体の中にはもうなにも感じられるものはない。力をなくした生き物が攻撃能力を失って退散していくように。
でも梓はすぐに起きあがって、うつむいている圭太朗に抱きついた。
「いなくならないで。お願い。ひとつになれたんだよ。愛してくれたじゃない、いま」
「でも、続かなかった」
「どうして! 嬉しかったよ、私。ひとつになれたんだよ。まだ会ったばかりの、圭太朗さんから見たら子供みたいな私なのに」
「梓――」
本当にどこかに行ってしまいそうな顔をしていた彼に、梓は素肌のまま、きつく抱きついた。彼がどこにもいなくならないように。
「いや……、消えないで。お願い。私、嬉しかったんだから!」
裸の男の胸に抱きついた。こんなに熱くて、官能的な男の匂いがするのに。それだけでもう梓にとっては大人の行為で時間を過ごしている感覚。
「気持ちよかったよ、私」
「うん、わかった」
やっと彼も、胸にいる梓の黒髪を優しく撫でてくれ、よく知っている大人の男の笑みに戻ってくれていた。
「いや、その、自分でもちょっと驚いてしまって、このまま行けるか行けないかもわからなくて不安になった途端……また……」
「私もびっくりしちゃった。だって……、急にだったんだもの」
もし、彼とひとつになるならもっと先のことだと思っていた。もっともっと恋人らしいことをいっぱいして、何度もキスして裸で抱き合って、いろいろなことを話して、一緒の時間を過ごして、その積み重ねのうえで、心が通えばきっとと気長に梓は構えるつもりだったから。
彼も汗ばんだまま、自分の目の前にちょこんと裸で座っている梓を愛おしそうに見つめてくれている。彼の手が梓の熱くなっている頬をつつむ。長い指先が、黒髪を巻いてそこにキスをしてくれた。
「女の顔をしているよ、梓。色っぽく頬がほんのり染まって……綺麗だ」
かわいいから綺麗と言ってもらえて、梓の頬はさらに熱くなった。
「海上で離れている間、梓のことなんども思い描いていた。オレンジの匂い、黒髪、小さな顔。じっと俺を見上げてくれる黒い目、かわいいパーカー姿、柔らかい肌、エッチな胸とか、ね」
最後はすこしふざけてニヤッと笑ってくれた。もう大丈夫そうと梓も微笑む。
「逆に二十日間、離れていたのが良かったのかな。もう帰ったらすぐに触りたいと思っていたんだもんな」
「エッチな気持ちはいっぱいあったんだね」
「梓もだろ。ベッドの心配していたり、風呂に入っていたり」
そこまで言われると梓も恥ずかしくなって、そこの毛布をかぶって隠れたくなる。
「でも。そうして俺を待ってくれていること、欲しく思ってくれていることがわかるから、伝わったから、俺も梓におもいっきりぶつけていけたんだよ」
ありがとう。待っていてくれて。好きだよ、梓。
また、額の黒髪をすっとかき分け、そこに優しいキスをしてくれる。もうこのキスがいちばん好きになってしまいそうなほど。愛を感じた。
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