19.時間が止まっていた男
彼が乗船するその朝まで、梓は彼の部屋で過ごした。
週末の二日、ずっと一緒にいたことで、たいぶ心が通った気がした。
小倉の船が着岸するのは朝の五時。就寝している乗客が最終的に降りるのは七時。交代引き継ぎ業務があるとのことで、圭太朗の朝は早い。
出航出勤までは彼とずっと一緒にいた梓も、一度自宅に帰るために、日が昇らないうちに彼と共に起きた。
「車で送っていくのに。着替えてまた事務所に出勤するんだろう。疲れるじゃないか」
「いいの。朝の海の景色も見たいから。圭太朗さんも疲れちゃうよ。これから二十日間も海の上、夜も起きて操縦するんでしょう」
「俺はね、この仕事二十年近くしてきたからいいんだって。小倉の港で日中は仮眠を取っているんだから」
そういいながら、肩に船長の黒い肩章がついている白シャツに黒いネクタイを結んでいる。片手間にコーヒーを飲むその男性が制服姿に整っていくのを、梓はうっとり眺めてしまう。
「な、なんだよ。さっきからじっと俺を見て」
「やっぱり、かっこいい。船長さん」
「制服のせいだろ」
梓はさらににっこり微笑む。
「セリカを運転する圭太朗さんも素敵だから」
「それはセリカのせいだろ」
「裸の、」
言いそうになって、こんな大胆なこと言える自分にびっくりして梓は口ごもってしまった。
「なに、はだ……がなに?」
聞こえにくかったようで、でも、俺のなにがかっこいいのと聞きたそうにしているから、梓は笑ってしまう。
「裸で一緒に眠るの、すごくよくて、圭太朗さん……素敵だったよ。あんなの、ほんとうに忘れられなくなっちゃう」
さすがに彼が少しだけ気恥ずかしそうにして、梓から目線を逸らしてしまった。
「いや、梓が……その、やわらかくて、触り心地よくて。帰らずに一緒にいてくれたのは、本当に嬉しかった」
「待っているから。心配しないで帰ってきてね」
袖口に船長の印、四本の金ラインがある濃紺のジャケット。そのジャケットの背中に梓はそっと頬を寄せた。
船長さんに初めて会った時と同じ匂いがした。そんな梓を見て、圭太朗も振り向いて今度は胸の中に抱きしめてくれる。
「よかったよ。思い切って梓をここに連れてきて。来月の休暇はまた一緒に」
胸の中に収まっている梓の黒髪にキスをすると、彼が身をかがめ、梓の唇を探している。
もう行かなくちゃといいながらも、彼が別れがたそうにずっとずっとキスをしてくれる。梓も彼の背中にぎゅっとしがみついてしまう。
でも寂しいと思わなかった。初めて愛されて満たされているからだと思う。でもこの満たされたまま陸で待つことがいつまでもできるのだろうか。
別れた奥さんのように、寂しくてたまらなくて、気が狂うほどに夫を離したくなくなる。梓はその気持ちが女としてわかるような気がしていた。
女だからわかる気持ち。きっとそれが圭太朗が言うところの『女の性』なのだろうと梓は感じていた。
彼との別れは港で。梓は電鉄駅へと向かうバスの停留所へ。圭太朗はチケットセンターの二階にあるという汽船会社の事務所へ向かう。
もうフェリーは着岸していて、船尾のハッチが大きく開いていて、そこから運輸トラックなどが上陸しているところだった。
まだ暗いその桟橋で手を振って別れる。凛々しい船長の制服姿で事務所へ向かうその背は、もう仕事に向かう男の背中だった。でも梓はその背を確かめて安堵している。
停留場に始発のバスが到着するのを待っている。まだ暗い港。それでも遠く船の汽笛が聞こえる。向こうの古い港でも、フェリーが出航したり、貨物が入港したり、朝の慌ただしさが伝わってくる。
冬の朝、白い息が出始める季節。潮の匂いと波の音、フェリーの貨物運搬作業の音。朝の港の空気。
「お姉さん」
しゃがれた低い声がすぐ隣で聞こえて、梓は自分一人だと思っていたのでびくっとする。
上下が青い作業服を着ている機関長が立っていた。
「機関長さん、越智さんでしたよね」
「おはよう。圭太朗のところから帰るんかね」
いきなりプライベートに踏む込まれ、梓は戸惑う。
まだふさっとしている豊かな白髪、白い口ひげ、怖い顔。低くてしゃがれた声。見るだけで怖いおじさんだった。だから、梓も容易に応えられない。
「俺もあの社宅に女房と二人暮らしなんやわ。昨日は二人が一緒に出掛けるところを見かけてしまったもんで。で、朝帰りってところか」
もう言い逃れできなかったが、梓からは認められないと思って黙っていた。
「さっきそこで事務所に向かう圭太朗とすれ違ったけれどな、晴れやかな顔していたもんな。あいつ、船に乗る前は気合いはいった目つきしているもんだからさ。こりゃ、彼女と上手く行ったんだろなと丸わかりなんだよ」
うそー、そんな普段と違うとわかっちゃう顔していたの? やめて、いつものシビアな船長さんに戻ってと梓は顔を覆いたくなった。
「別に、俺も怒っている訳ではないんだよ」
「私から言えることはなにもありません。船長さんに聞いてください」
「口も堅いんだな。悪かったよ。圭には聞きにくいもんだから。圭と一緒にいられたなら、離婚の話も聞いたよな」
梓は頷かなかった。でもそれもわかりきった顔で越智機関長が話し出す。
「あいつ、もう二十年近く時間が止まっている。わかるだろ」
それには梓も反応してしまった。
「離婚してから時が止まっている……ということですか」
「そう、片方だけ動けばいいってもんじゃない。でも動かさなくちゃな。梓さんだったかな。頼んだぞ。船乗りは船に乗った以上、様々なことに精神を使う。特にいまは客船。人の命を預かっているんや」
「わかっています。子供の頃から乗り物が好きな父のそばにいましたから。父が大きな鉄を動かす男たちは大きな責任を背負っている。だからかっこいいんだと言っていました」
越智機関長が『ほう』と目を瞠った。
「そういうことやったんか。ようわかったわ。あんたが船が上手に描けたのも、それが良い絵だったのも、鉄に敬意があったからなのかもな。それが、圭の心を開いたんかもしれん」
「私も同じです。ずっと前に嫌なことがあって引きずっていたけれど、圭太朗さんが大人だから、諭してくれたんです」
ようやっと機関長の強ばっていた表情がほころんだ。
「ほうかい。お互い様やったんか。まあ、健気に港に来て絵を描いているあんたを、ブリッジから圭が心配そうに見ていた時から、こうなるとは思っていたけれどよ」
もう否定もできなくなってしまった。認めた発言はしていないけれど、上手い具合に認めるように持っていかれていた。こちらは、敵わない機関長さんだった。
「船乗りの女も甘くないで」
「わかっています」
「男が海にいる間は、その男の家族を頼りな。なにかあった時、真田さんに連絡すれば俺のところにも来るからよ」
『そうなんですか』と梓は驚いてしまう。圭太朗を見守る目上の男がふたり、背後で連携していたから。
「うちの母ちゃんも、船乗りの女には強い味方やけん。社宅の越智を訪ねてもかまわんよ。女ひとり、待つのが重くなったらなんとか軽くせな」
「はい。ありがとうございます」
「海の上では、俺が圭太朗みとるけん。安心しいや」
越智機関長がどのような男性か梓にはまだわからなかったが、もしなにかあってもちゃんと圭太朗を取り巻くネットワークが出来上がっているんだと安心できた。
始発のバスが停留場にやってきた。そこで梓と機関長は別れようとしたが、まだ星が残る明け方の空を見上げた機関長が、白い息を吐きながらふと言った。
「もうな。なんであんな必死に動かそうとしたんやろな。でももう動かんでええと思うこともあるんやわ。動くなら圭と梓ちゃんだけでええわいな」
その意味が梓にはわからなかった。それだけ言い残して機関長が去ったため、その言葉はすぐ梓の中で消えてしまう。
空が明ける海は、朝日の黄金に揺れていて、海猫の鳴き声が響いている。バスの車窓で明ける海を見つめているだけで、甘美だった週末ばかりが思い起こされ、なにも不安に思うことなど梓にはなくなっている。
ひとつになれなくても、梓の肌には彼のキスの感触が残っているし、身体の奥に覚えさせられてしまった熱と男の指の感触が残ったまま。
―◆・◆・◆・◆・◆―
彼はいま瀬戸内の海の上。大きな船の船長さん。
「永野、このパッケージでまずサンプルを作ってみるか」
「はい。配置はどうしたらいいですか」
「このあたりだな。真田さんが希望していた、茶葉とドライフルーツが見えるような切り抜きの窓がここ。バランスをよく考えて、まずカットを作成してみよう」
梓も瀬戸内フルーツ紅茶のパッケージ制作に、神経を傾けた。
デザインブースデスクで黙々とイラストを作成する。思いついたことはなんでもやってみろと言われたので、それも思い切って描いてみる。
でもその間も、梓は週末の満ち足りた時間をふと思い出してしまう。
そういう時に何故だろう? 真田さんの『オランジュの紅茶』が飲みたくなる。夜のオレンジは官能的。梓のなかで、恋人のベッドルーム、海の窓辺が思い起こされる。
そしていま梓の頭の中に浮かぶのは、制服姿の船長さん。
彼はいま船の安全と乗客の命を守る船長。余計な心配はさせたらいけない。彼の船が事故に遭えば、周りの船の船員にも危害が及ぶ。そういう責任を背負っているのだから。
乗り物が好きだとそのフォルムだけでなく、その鉄の塊を管理する男の仕事にも興味が広がる。航空、鉄道、道路運輸、船舶。どれを取っても責任がなければこの社会に貢献できないものばかり。乗り物とはそういう社会的役割を担っているのだから。
だからこそ、機長、船長、車掌、操縦者、パイロット、ドライバー。鉄を動かす男たちに、梓は子供の頃から大いなる敬意を抱いている。
船長さんと出会ったのは、自分がたまたま乗り物が好きだったのもある。だから船長さんには、圭太朗には、梓が子供の頃から敬ってきた『かっこいい船長さん』であって欲しいと思う。
そしてその『かっこいい鉄を動かす男たち』が、一般的な生活をする者たちとは異なる日常生活をして物流を賄ってくれているのは、その家族の支えがあることも忘れてはならない。
その覚悟を、せめて『恋人』として持ちたい。梓はそう思っていた。
「永野、それなんだ」
夢中で描いていたら、様子を見に来た本多先輩がパソコンのモニターを見て唸っていた。
「パッケージの外回りを囲むフレームです。どうですか」
「ふうん。長方形のパッケージそのものを窓辺にしたわけか。なるほど」
「でも、木枠ではなくて。オランジュはモザイク風タイルとかステンドグラスの枠とか……」
あの夜の窓辺の甘いけれど、青くてこっくりとした大人の空間。それが色や雰囲気を選んでいた。
「それだけ突出していてもな。ほかの時間帯の窓辺の枠も描いて見せてみろ。俺もちょっとやってみる。フレームぐらいならアシストできる。マッチした方を採用しよう」
本多先輩もアシストとはいえ、梓との仕事にエンジンがかかってきたようだった。
そんな本多先輩を見て、梓はふと笑いたくなる。
たしかに。いまふうのお洒落にパーマをかけたヘアスタイルに、カジュアルなトラッドスタイル。追い込みになるともさっとするけれど、普段の彼は確かにデザイナーらしい洒落た男性だった。
歳も近い兄貴のような洒落た男がそばにいると焦った大人の船長さん。それを思い出すとまた頬が緩んでしまう。
あれ、もしかすると。これって本多先輩に感謝しなくちゃいけないのかなと思ってしまうほどだった。
自宅での夜を過ごしていると、圭太朗からメッセージが届く。
【 小倉港、出航です 】
またライトがきらめく関門橋と、船のライトが揺れる海峡の画像が送信されてきた。
【 仕事はどうかな。週末は俺の自宅にずっといて、そのまま出勤で疲れていなかったか心配していた 】
【 全然、大丈夫。今日も新しいアイデアが浮かんで、先輩と一緒の作製に入りました。圭太朗さんこそ、気をつけてね 】
【 また朝方、操縦をするシフトなので夜明けの海を送ります 】
待っています――と送信をした。
また二十日間、彼と衛星通信を介してのコミュニケーション。
彼が送る海の画像はひとつとして同じ色合いがなく、いまは梓にとっても楽しみなもので、仕事で色を引き出すのにいいインスピレーションを与えてくれていた。
そんな通信での会話の中で約束したこと。
【 今度は梓の部屋に行ってもいいかな。平日は俺が食事を作ったりするよ 】
【 ほんとに!? 船長さんのごはん美味しいからそれは楽しみ。でも私の部屋、模型がいっぱいだからびっくりしないでね 】
【 それはますます見てみたいな! 】
次の休暇は毎日一緒にいよう――ということになった。
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