18.初めての夜


「結婚したんだから、俺も彼女のこと愛していた。記憶が戻ると信じていたから、なんとか元に戻るまではと思っていた」

 でも。戻らなかったら? なにも知らない男の人との生活なんてできるわけないのでは? 梓なら怖くて一緒にいられないと思う。

「俺のこと怖かったんだろ。次の乗船が終わって帰港すると、彼女は実家に帰っていた。まあ別居でもいい。ゆっくり元に戻ろう、そう思っていたのに。一年もしない内に彼女はあの男と結婚をしたいと言いだした。別れて欲しいと突きつけられ、納得できず、話し合おうとしても離婚してくれしてくれとしか返答がない。埒があかなくてとにかく彼女に会いたくて追いかけ回していたら、ストーカー扱い。もうちょっとで接近禁止の念書を書かされるところだった」

 そこで梓はようやっとあの言葉の意味を思い出す。『女の性(さが)が怖い』。これのことだったんだと悟った。

「真田の叔父がそれを聞いて、筋を通していないのはあちらの男と妻で、夫の要求をまるで罪があるようにして念書を突きつけたそちらこそ『強要、脅迫』ではないかと憤慨して、東京まで弁護士を世話してくれたほどだったよ」

 腸が煮えくりかえると言っていたのは、このことだったかと、梓も唖然とする。

 とにかく、揉めに揉めたというのが窺えた。

 そうこうしているうちに、若いうちはともかく、歳を経て、仕事に没頭しているうちに、男としての機能が衰えてしまったということらしい。

 彼の過去を聞いて沈んでしまったけれど、どうして船長さんが傷ついているのが梓には良くわかった。

「汗かいてきちゃった。圭太朗さんも温まった?」

 辛い過去を話すだけでも心が痛むだろうに、梓に話してくれたから。

「オレンジのバスソルト。また持ってくるね」

 またこの匂いで癒されて。そして、また一緒にくつろごう。梓が微笑むと、ようやっと彼らしい優しい顔になった。

「腹減ったな。なんか作ろうかな」

「え、作ってくれるの?」

「船の男はなんでもやれるようになってんの」

 オレンジの匂いがするバスルームを出て、二人はすっかり元の洋服を着た姿に戻る。

 簡単な食事を圭太朗が作ってくれる間、梓は本棚の船舶書籍や、彼のベッドルームの窓から見える海をじっと眺めて過ごす。

 遠くに灯台が見え、島も見えて、目の前を漁船が通り過ぎたり。海が直ぐそこ。古いマンションでも、いい雰囲気の窓辺だった。

「できたよ。気温が下がってきたから、窓辺にいると湯冷めしてしまう」

 ベッドルームでぼんやりしていた梓を彼が呼びに来る。

 ダイニングテーブルで向きあって食事をする。男らしい野菜と肉を炒めた料理と簡単な汁物が出てきた。

 でも。ひとくち食べて。

「わ、おいしい!」

「甘味噌生姜焼きだよ」

「えー、どうやって作るの?」

「簡単だよ。今度、教えてあげるよ」

 『ぜひ』と頷きながら食べる梓を、やっぱり船長さんは嬉しそうに見ている。

「今夜はどうする。メシ食ったら送ろうか」

 言葉は梓を大事にしてくれる大人の言葉だったけれど、表情は寂しげなものを隠せなかったようだった。

「泊まってもいいの?」

「もちろん。ああ、そうか。着替えがないのか」

「それぐらい、そこらへんのお店でどうにでもなるから」

「そっか。……俺がなにも、できないと思うけれど……」

 なにもできなかった男であるのを気にしている。でもそれは梓も同じ。全然駄目な女だった。

 だからこそ。

「残念な夜だったなんて思いたくないの。あったかくして一緒にいたい」

 そして、明日。あの海の窓辺でどんな温かみのある朝を迎えられるのか。梓はそうしたい。

「俺、急ぎすぎたな。また二十日間、梓と離れると思うと堪らなかったんだ。自分が完全ではないとわかっていても、それから、今度はいけるぐらいの確信と自信もあってのことだったんだけれどな……その……、梓にとっては、ただの船長さんなんだろうなと……」

 彼が急に自信なさげにうつむいた。しかも、思わぬことまで呟いた。

「ほら。仕事を教えてくれているあの人気デザイナーの彼。お洒落でいまふうの男でイケメンだったから。俺より一緒にいる時間も長いだろうし、気持ちを通わす回数も違う。だったら、もしかして、そのうちと焦っていたのもあったかな」

 それを聞いて梓はギョッとしてしまう。

「ぜ、絶対にあり得ないから!」

「でも、梓ぐらいの女の子だと、あれぐらいの兄貴みたいな男が好みかと思ったんだけれどな」

「仕事にストイックな人だけれど、その分ほんっとに気難しくて、仕事のためなら女は邪魔って人だから。私もアシスタントになって数年間、いろいろ気を遣ってきたから、プライベートも一緒なんて無理」

 やっと彼がほっとした顔になった。

「それなら良かった。ああ、それがわかれば焦らなかったのにな……」

「ううん。これで良かったの。圭太朗さんの気持ちがわかったから」

 俺もだよ。思い切って良かった。そこは安心して出航できると彼も言う。

 もしかして。船の男はなんでも出航前にこうして決断するのだろうかとも思ってしまった。離れる前に、俺が留守にする前に、陸にいる彼女に家族に伝えておかなければならない。だから、あるべきタイミングを外してでも伝えなくてはならないのかもしれないと梓は思った。

「わかった。よし、久しぶりにこのサイフォンでコーヒーを淹れるか」

「すごい。自宅サイフォン!」

「叔父のお古だけれどな」

 さすが真田珈琲の甥っ子と、徐々にいままでどおりの船長さんと女の子の楽しい雰囲気に戻っていく。

 食事が終わって、一緒に片づけをして。彼がコーヒー豆を挽いて、サイフォンにセットする。

 一番下にあるアルコールランプに火をつけて、すぐ上のフラスコ(下ボール)に入れたお水が沸騰するのを待つ。フラスコの水が加熱され沸騰すると、フラスコ内の気圧が上昇し、挽いたコーヒーを濾過する上ボールに湯が管を伝って吸引されていく。いちばん上の濾過ボールの中で湯とコーヒーが一緒になる。最後は冷却する時点で、濾過ボールから下のフラスコボールへとコーヒーが濾過され落ちてきたら出来上がり。

 それを梓はテーブルでじっと見つめている。

「化学みたい。これ船でもやっているの」

「あまり余裕がないかな。俺も操縦するから。なんでも簡単になってしまう」

 操縦もするんだと梓は驚く。

「するよ。ブリッジは三人の航海士で交代制。特にいまのフェリーは夜間航行で船舶が多い内海を行くから気を遣うしね」

「また無事に戻ってきてくださいね」

「うん。梓とまたこうして一緒に過ごせる休暇を楽しみにしているよ。そうだ。梓も叔父のところの仕事、これから煮詰めていくんだろう」

「イメージラフのOKが出たから、これからパッケージにあわせたイラストカットを描いていく段階なの」

 コーヒーが出来上がり、彼がカップに入れてくれる。

 そうして梓の隣に腰をかけた。

「それが出来上がって販売されるのも楽しみだな。売り出したら、俺、真田珈琲でいちばんに買うよ。パッケージは大事に記念に取っておく」

「じゃあ、頑張らないと。圭太朗さんがお仕事に集中している時は、私もデザインに集中するね」

 だから。寂しく待たないよ――と仄めかした。それは彼にも伝わったようで、ほっとした様子でコーヒーをゆったり味わっている。

 そんな他愛もない会話を重ね、夜が更けた頃。お互い薄着になってベッドに入った。

 梓の望みどおりに、二人の体温で温まる静かな夜。さざ波の音。

 それでも、男として感じるものはあるのか、圭太朗の手が後ろから梓を抱きしめると、熱い唇が梓の肌に這う。

 少しずつ、少しずつ。でも、やっぱり触れあいたい。

 男の機能が不完全でも、女としてまだ未熟な身体でも。キスをして、その手先はお互いの身体や肌を知ろうとあちこちを撫であう。

 素肌にタンクトップを着ているだけ。彼がそっとお腹から手を差し込んできて、梓の無防備になっている胸の膨らみを両手で優しく包んだ。

 後ろから抱きついている彼が、梓の耳元にキスをする。

「すごくやわらかい。俺の手でもこぼれるな」

 意地悪な触り方はしなくて、優しく優しく。でも彼のキス、耳元で囁く息は熱い。

「あ、でも……」

 でも。やっぱり男の人がそうして側にいて触られているのも、好きになった彼が耳元で優しく囁くのも、梓には甘い行為。

「ひとつにはなれないけれど……」

「あ、あっ、えっと……」

 後ろから抱きしめられるまま――。感じた。初めて、身体の奥にある芯のようなものがつきんと脈打つのを感じた。そして奥から熱くなっていく、頬がほてっていく。

「だ、だめ……。私だけなんて……」

「だめだ。梓、俺を忘れないようにする」

 なにもかも許すこと、女をさらけ出すことはずうっと嫌だと思ってきたのに、梓はいま甘い熱気に初めて『とろける』という快楽を味わっている。

「大丈夫。梓はちゃんと感じる女だよ。ほら」

 梓はうわずる声で応える。

「そ、そんなふうになったこと、ないもの……」

「だったら。お互いに若かったのかもしれないな」

 学生時代、彼も梓も若かった。どう感じていいかわからない彼女と、どう感じさせてあげたらいいかわからない彼氏。ほんとうに未熟な性関係。

 でもいま梓の肌を熱く愛撫する男は、機能は衰えていても経験があるということらしい。

「安心したよ。俺を感じてくれたみたいで。しかもこんな気持ちよさそうに感じたのが、俺が初めてみたいで」

 それだけで彼は嬉しそうで、梓、良かった、かわいかったとずっときつく抱きしめて肌のあちこちに唇にキスばかりしてくれた。

 翌朝、けだるく目覚めたのもお互いに裸。それでも彼の機能が一時戻った気がしたのに、でも、彼は梓の中に入ってこようとしなかった。梓も望まなかった。

 ただ、彼と肌を触れ合う。いまはそれだけで。彼とひとつになるのは、またいつか、今度。

 もうすぐ冬。朝の海は白いもやでけぶる。すこしひんやりする部屋、ベッドの上で、初めての朝のキスをした。


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