17.セックスなんて
海辺の夜明かり、遠くさざ波の音が聞こえる社宅。急に濃厚になる男と女の匂い。
強くもないけれど弱くもない勢いで、背が高い船長に押し倒される。ふわりとしたロングスカートがベッドの上にひろがった。
その上にデニムパンツスタイルの彼がまたいでいて、梓の目の前でポロシャツをさっと脱いだ。
目の前に、ある程度鍛えた海の男の肉体が現れる。いままで感じたことがない大人の男の匂いに圧倒されるばかりの梓の真上に、彼が覆い被さってくる。
「ほんとうに大丈夫?」
梓もこっくり頷く、でも不安はある。
「私、その、あんまり……」
「わかっている。きっとそうだろうと……話を聞いて思った。そんな女じゃないのもわかる」
だから大事にしてしまう。そういいながら、またキスをされた。
彼の手がパーカーのジッパーを降ろした。飾り気のないシンプルなシャツの下にすぐに男の手が潜り込む。その先にある女のふくらみにも彼の手がすぐに辿り着いた。
熱いキスをされながら、彼の手が優しく梓の肌をほぐしていく。梓も任せっきりにしないで、自分からスカートとカラフルなボーダーのタイツを脱いだ。
キスと皮膚の熱さを確かめ合うように触れあって、やがてお互いに裸になる。
最後のショーツを脱ぐと、目の前の彼ももうなにもかも取り払った男になっていた。
梓、あずさ。
覆い被さってきた裸の彼が梓の耳元に熱い息で名を呼ぶ。耳下のキスも、顎先にしてくれたキスも、全部熱くて……とろけそう。初めて梓は男性に触れてもらう気持ちよさを感じていた。
素肌へのたくさんのキス、どうしようもなく感じてしまう。
うそ、こんなに気持ちよかった? 初めて思う。なんだったの、いままでの。どうして船長さんにはこんなに私、平気で……。
そのうちに男の指先が梓の奥へと忍び込んでいく。その時、また梓に緊張が襲う。
それほど楽しくもなかった時の感触が蘇る。私、ちゃんと感じることできる? 船長さんに悦んでもらえる?
梓の気持ちとは裏腹に、彼のキスがどんどん下腹へと降りていく――。
女として感じているのか、どうかわからない。だって、今日、こんなことになるなんて、梓は思っていなかったから心の準備もなくて、急激にさらわれているだけで……。気持ちは熱くなっているし、肌も気持ちよく感じている。でも!
男の指先が梓が女として感じているか確かめ、そっと彼の熱い身体がのいていく。
梓にまたがっている彼がもう目の前で男の準備を始めた。恥ずかしくて梓は目を逸らして待っている。
彼がその気になったということは、私、大丈夫だったんだよね? ちゃんと男の人が悦ぶ準備できているんだよね?
そう思い巡っているうちに、また松浦船長が梓の真上に覆い被さる。
梓をじっと見つめて、彼が梓の黒髪を何度も何度も撫でている。彼の目も緊張しているように見えた。初めての交わりだもの。大人の男性もそうなるよね?
梓も自分は大丈夫という意志だけは見せておこうと、彼の瞳を心落ち着けて見つめ返す。
梓も息を止めて、彼とこれから愛しあうんだという鼓動を感じながら抑えて……。
大人の彼に任せて、じっとして、愛しあうその時が訪れるのを待って、待って、待って……。
久しぶりだけれど、一度は男性と付き合ったことがあって経験があるのだから、梓だって男がどんなものかわかっている。その時だけ、男は獰猛になる。猛々しく別人のようになる。別人のようでも受け入れるのが恋人だから、ちょっと違う人みたいと思ってもそれが普通だと思って。
でも。梓はそっと目を開く。そういうのじゃない違和感。
「ごめん。待って」
梓の下腹で彼の手元が焦っているように見えた。梓が思っていた男だけが持つ感触もなかった。
ようやっと梓も気がつく。もしかして、もしかして?
「あの……?」
「いや、大丈夫だから」
寝そべったまま待ってみたけれど、よくある一般的な流れにならなかった。
やがて、彼が梓の胸元に額をひっつけて項垂れてしまう。諦めたようだった。
「ごめん。その……、今日は絶対にいけると自信があったんだ」
梓は茫然としていた。どう答えていいかわからないから。
「ちゃんと感じていたんだ。梓に触りたい。梓の肌を知りたい、ちゃんと感じていた。男として」
梓の胸元で言い訳をしている男性を寝そべったまま梓は見下ろした。艶やかで柔らかい黒髪、そこに初めて触れて、彼がそうしてくれたように梓も優しく撫でる。
「私、なんとも、思って……ません……から」
そうして梓は起きあがってしまう。胸元から外れてしまった男が、情けない眼差しで梓を見上げている。それは男のプライドが砕けて、絶望に追い込まれている男の顔だった。
「いいんだ。もう、俺はこれで。梓さんも、俺のことはもう」
こうして女性と別れてきたような気がした。結婚していたのだから男として正常な時もあったはず。いつからかわからないけれど、わからないけれど、……。
もうなにがなんだかわからなくて、梓の頬には涙がぽろぽろと落ちてきた。
そうして梓は声を漏らして泣いていた。
「ごめん。嫌な思いをさせて、こんなことなら、梓さんをこんな姿にすることもなかったよな」
「違うの……」
「違う? なにが?」
梓は涙をぽろぽろ落としながら、涙声で答える。
「私も、だめだったみたい」
梓も自分の股の間に指先を差し込んで、自分が女としてどんな状態か確かめた。ほんのちょっとしか潤んでいない。
「いや、これぐらいなら」
「同じだから。圭太朗さんと同じ。私、女としてちゃんと感じられるか、すっごい不安だったの。嫌われるんじゃないかって思って。大人の船長さんに応えられる素敵な女性じゃないもん」
彼が『はあ?』と困惑する表情に歪んでいた。
「梓、ひとこと言っていいかな」
「はい。なんですか?」
「だめなのは俺で、梓は……、脱ぐとけっこう凄いよ。男は堪らないと思う」
「おっぱいでかいね――は時々言われます。だから必死に隠しています」
「だよね。急に艶っぽい女に見えて、男としてズキュンとなったし、俺、今日は絶対いけると思うぐらい、エロい気持ちになっていたんだけれど……」
「私だって、圭太朗さんが脱いだら凄く男っぽくて、男の人の色っぽい匂いがして、だから余計に同じように大人の女になりたいと思って……」
待って待って――と、大人の彼が額を抱えて唸った。
「だめなのは俺だよな」
「私もだめなんですってば」
「セックスができない男なんだよ、俺」
「セックスなんてなくていいです。私、ただ船長さんと一緒にて嬉しくて、楽しくて。そして、すごく気持ちが安心しているから。それだけでいいの」
また彼が『はあ?』とどうしようもない困った顔になっていた。
「ええっと。こんな俺と、まだ一緒にいる気あるってことかな」
梓は涙を拭きながらこっくり頷く。
「ええっと……。なんだろ。俺、いま、いろいろどうでも良くなった感がある」
素肌の梓の肩に掴まるようにして、彼ががっくりと項垂れた。梓の鼻先に、彼の黒髪の匂いがくすぐる。そして彼の口元だけが見える表情が、とてもほっとして、いつもの優しい船長さんの笑みに戻っていた。
彼がやっと顔を上げると、また、梓の額の黒髪を分けて、そこにキスをしてくれる。
「梓、好きだよ。俺がまだ一緒にいたい」
梓も涙顔のまま、キスをしてくれた彼を見上げる。
「私も、それじゃだめなの?」
「だから。そういう、かわいい顔がその気にさせるんだって」
彼の目線が、だめだったのに少しだけその気になった男の自分を見下ろした。
「でも、今夜はもう」
「いいの。私、いまの圭太朗さんのままでいいの。前になにがあったかなんて……、いいから……」
梓、ありがとう。
裸の男に、素肌の梓は強く抱きしめられる。この時、どうしてだろう。初めて自分の身体に女性を感じた。そして彼の皮膚にも男を感じた。
自然と見つめ合えば、もうキスは自然だった。ちゅっと濃密なキスの音が静かな部屋で繰り返され、熱い男の手は梓の素肌を欲しそうに撫でている。
この人は思った以上に傷ついている。心だけではなくて身体も。そんなの嫌いになる理由じゃない。セックスなんていまはいらない。
梓もそう伝えたくて、でも言葉ではない、キスで応えて、指先は彼の頬と黒髪に触れる。
ただ、それだけで充分。熱い。
「風呂、入ろうか」
「うん、一緒に入る……」
長い腕に囲われているまま、梓も彼の腕にもたれた。
灯りを消したバスルーム、オレンジとリモーネの香りが漂う中、ふたり一緒に湯船に入った。
圭太朗に後ろから抱きしめられている形で、梓もくつろぐ。
「俺がどうしてこうなったか。気になるだろ」
「ううん。でも離婚がそうしちゃったのかなと思ってる」
「うん。あれは始まりではあるけれど、俺が船乗りだったせいでもあるかな」
そうなの? 肩越しに彼を見上げた。
ただただ自分の身体の上に、裸の梓を乗せて彼もくつろいでいる。暗いバスルームにうっすらと見える湯気を仰いで、少し彼が思いを馳せている。
「その時は貨物船だったから、三ヶ月帰らないのは当たり前だった。その上で結婚したんだ。彼女もそう覚悟してくれていると思っていた」
「奥さん、待っているの辛くなっちゃったの?」
彼が薄笑いで『そう』と頷いた。よくある話かもしれなかった。これがどうなるとあの真田社長を泣かしてしまうほどの離婚となったのだろうか、梓は不思議に思う。
「待てなくて、寂しくて、気が狂いそうになって。でも俺も仕事だから待たせるしかなくて。一ヶ月の休暇が終わりに近づくと彼女がおかしくなる。出掛ける時になると気が狂ったように離れてくれなくなる。それでも、なんとか言い聞かせて……俺は海に出るしかないから、彼女を置いて乗船する。結婚して二年目、海上で仕事をしている時に陸から連絡が入った」
――奥さん、事故に遭ったらしい。車だ。
「事故? それで圭太朗さんはどうしたの」
「次の港まで日数があったから、すぐには駆けつけられなかった。そういう仕事なんだよ。でもとにかくついた陸の港で降りて、東京へ戻った」
彼の眉間に深い皺が刻まれる。声も絞り出すように苦しそう。梓も見ているのが辛くなる。でも圭太朗は続きを伝えてくれる。
「怪我はたいしたことなかった。でも、記憶がなくなっていた。俺のことだけすっぽり」
彼に背中から抱かれていた梓は驚いて、振り向いてしまう。
「夫のことだけ、すっぽりってこと?」
「そう。俺のことだけ全部。結婚していたことすら、いや、俺の存在などどこにもなくなっていた」
「それが離婚……の?」
彼が首を振る。
「事故をした時、車は別の男の車で、運転もその男。彼女は助手席。つまり男と一緒だったんだ」
「浮気――ってこと? 寂しくて?」
「寂しくては合っている。でも、浮気は追及できなかった。男も彼女の愚痴を聞いていただけと言い張っていたから」
酷い! 梓はそういいたかった。でも堪えた。それは圭太朗目線の場合。奥さんの気持ちはどうだったのだろうか。好きで堪らない夫がいつまでも海の上で寂しくて、つい、親しい男性を頼って愚痴を聞いてもらってなんとかやり過ごすことも女としてあったかもしれない。
そして、圭太朗がさらに、今度はその哀しみを滑稽に笑い飛ばすように吐露した。
「いまはその男と結婚して、子供もいる。いまも俺の存在はどこにもない」
存在を忘れられたままの離婚――ということらしい。
だから? 裏切られていたかもしれない状況だけ残して、圭太朗のことをすっかり忘れてしまったから? 真田社長があれほどに哀しんでいたのはこういったことだったのだろうか。
梓の脳裏に『腸が煮えくり返る』とまで言っていた真田社長の声が蘇る。
梓がふとそう感じていたことを、知ってか知らずか、圭太朗が最後に、あの憎しみを込めた眼を見せた。
「納得できないから何度も話し合いを申し込んだだけなのに。最後には相手の男と彼女が弁護士を連れてきて、ストーカー扱い。接近禁止の要求までされたんだよ。もうこっちが悪者」
「ストーカー扱い? だって、圭太朗さんが旦那さんだったんでしょう」
今度こそ、梓は『酷い』と言い放っていた。
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