16.男のお誘い
週末、約束どおり船長さんとおでかけ。この日は、梓が住むマンションの手前まで黒い車で迎えに来てくれた。
「おまたせしました」
「おはよう。さあ、乗って」
運転席でハンドルを握っている松浦船長の笑顔を見ただけで、梓も頬がほころんでしまう。
助手席に乗って、車が発進する。古い街の古くて狭い道を黒いスポーツカーがゆっくり進む。国道に出る手前で、電鉄の線路と踏切を越える。
国道を走り出すと、彼から今日の行き先を言ってくれる。
「岬に行ってみようと思うんだ。伊勢エビや貝の海鮮焼きを食べよう」
「ええっ! 伊勢エビ!?」
「そんなに驚かなくても。わりとお手軽に食べられるんだよ、あの岬なら」
「そんな、高級な……」
「おじさんがご馳走するって」
おじさんってと笑ってしまったけれど、松浦船長も伊勢エビで驚く梓がかわいいと笑っている。
「よく考えたら、ひとまわりも歳が違うのか」
「干支が一緒だったのびっくりでした」
「俺もショックだったなあ」
平日の会えない日もSNSで他愛もないやりとりとしているうちに、お互いの年齢と干支を知って驚いた時もあった。
日に日に彼との会話が増え、気易さも感じられてきて、今日のドライブも梓は楽しみにしていた。
この日も天気がよい秋晴れで、長い海岸線の色も綺麗で、その間ずっと彼との会話も途切れない。
風力発電の風車が見えるカフェでひと休みしたり、岬に到着したら灯台が見える展望駐車場でスケッチをさせてもらったり。その後、灯台近くの網元レストランで伊勢エビやトコブシ貝の海鮮焼きをご馳走になって楽しんだ。
「松浦さん、こんな遠くでも一人で来ることあるんですか」
スポーツカーを大事に乗っているので、ドライブで遠出をするのが好きなのではないかと梓は聞いてみる。
「んー、一度来ただけかな。十日の休暇が退屈でもなかなかここまではなあ。でも……」
松浦船長が、梓のために焼いた小さな貝をお皿にのせてくれる。
「ひとりではつまらないことも、こうして相手がいると、やっぱり楽しいもんだね」
なにも返せなかった。酷い別れ方をした離婚、その後、ずっと独りだっただろう彼の孤独が垣間見え、そして若い梓には安易に想像できない。
あんなに楽しそうな圭は久しぶりだったと安堵していた真田社長の顔も思い出してしまう。
「伊勢エビのおみそ汁、すっごいおいしいです」
伊勢エビの赤い殻がどーんと入っているお椀の汁をすすりながら、梓は笑ってみる。
松浦船長もほっとした微笑みに戻ってくれる。
「また二十日間、海の上なんですね。この辺りも通ります?」
梓は灯台が見える向こうへと視線を馳せた。
「ううん。むしろ宇部のほうを通るよ。周防灘を通過して、北九州の関門海峡へとカーブして入り込むと緊張が高まってくる」
「地図でみても急に狭くなっていますよね。なのに船がいっぱい」
「そう、こうやって双眼鏡を持って、少し先の船がどう進行しようとしているか確認。大型船は急には止まれないから早めに進路を決めないといけない」
「ブリッジの操縦とか松浦さんがあの制服姿で望遠鏡を持ってお仕事の顔みてみたいです」
いや、それ恥ずかしいと船長さんが困った顔をしたので、また一緒に笑ってしまった。
食事もまたご馳走になってしまう。なんでも先へ先へとリードしてくれるし、梓が気にしないような雰囲気を素早く作ってくれるし、長い時間のドライブの間もひとつも嫌な思いをしなかった。
むしろ。こんな……男性と一緒にいて、こんなに楽しいの久しぶりだと梓の心が弾んでいる。
帰り道。長浜の長い海岸線から市街へと向かうころには、海は黄昏れていた。
セリカのフロントが少しずつ薄暗くなっていく。梓も気がつく。あんなに楽しく会話が続いていたのに。いまは切れている。梓からなにか話そうと思ったが、ハンドルを握ってまっすぐ伸びる海岸の国道を見据えている彼の横顔が、とてつもなく寂しそうなものに変わっていた。
信号待ち。ハンドルを握ったままの彼がようやっと口を開いた。
「また二十日間の乗船だ。次の休暇も、会えるかな」
「私は会いたいです。でも明日からも携帯にメッセージしますね」
「うん。海の画像も送るよ」
信号がもうすぐ青になる。その信号を過ぎると市街の大きなバイパスに出る。市街を抜けると梓の自宅がある。もうすぐお別れ。
どうしようなく硬い表情になった彼を見ていると梓も胸が痛い。見るからに別れを惜しんでくれていると思ったから……。
「今日は遠くまで運転してくれて、岬まで連れていってくださって、楽しかったです。また行きたい……」
「そう、楽しかったならよかった。俺も楽しかったよ。楽しすぎて……、久しぶりに陸に想いが残ってしまいそうだ」
「お休みの日にまた、どこか連れていってもらっていいですか」
ようやっと彼が梓のほうを見てにっこりと笑う。
「じゃあ、来月はしまなみ海道へ行ってみるか。瀬戸大橋もいいなー」
「はい。楽しみです!」
信号が青色に変わり、彼がギアを手にクラッチとアクセルを踏んで、黒いセリカを発進させる。あっという間に陽が落ちて、道路にはセリカのライトがあたっていた。
「でも、久しぶりの遠出で疲れたな。梓さんにもらった入浴剤を入れて、ゆったり風呂に入るとするか。もう今夜で最後のひと袋だ」
「気に入って頂けたなら、私、今度はボトルでプレゼントしますよ」
「うわ、お言葉に甘えてしまおうかな」
「もちろん。今日のお礼です!」
梓もお礼のキッカケが出来たので嬉しくなって笑顔で応えただけなのに。その梓の笑顔を見た彼の眼差しが重く翳った。
「あの……」
「一緒に入る? オレンジの風呂」
え……? 聞き間違いかと思って、梓は茫然とした。
もう一度、彼が言った。
「オレンジの風呂、一緒に入る? 俺はそんな気分……」
いきなり、男と女にならないかと誘われている。
さすがに戸惑った。
「いや、冗談だって。でもさ、あのいい香りがもう梓さんを思い出すものになってしまって……、ちょっと寂しくなっただけだから」
「どこの、お風呂?」
静かに尋ねると、運転している松浦船長も信じられないという顔になっていた。
「ごめん。ほんと、俺の戯言だって流してくれていいから」
我に返って、梓を大事にしてくれる大人の男の顔に戻っていた。そんなふうに自分の気持ちを押し込めて来たのかな、この男性はと初めて感じた。女性と関わるための防御がいきなり入った気がした。
でも、それは梓も同じ。また男性と一緒にいる日々を選んで、前のような気持ちになって塞ぎ込まないか。それを随分と長い間、避けてきてしまった。
それでも。松浦船長と出会ってからの日々は、オレンジの匂いに、海の色あい、船の輝き、大人の船長さんの優しさ。それらに彩られ包まれていた。
ときめきの毎日だった。それを梓もここで迷って手放せる?
急発進した恋はとめなくていいと思うの。琴子先輩が言っていたことがいまわかる。いま、梓の心はアクセルを踏んで発進している。
「私は、まだ一緒にいたいから……」
「ほんとに」
まだ信じられないという彼の顔。
「わかった。俺の部屋でいいかな」
「はい」
梓もそっと頷いた。
日暮れた古い国道、港沿いの道へと向かっていく車内。それまで和やかだった会話が途切れ、初めて、男と女を意識した空気が漂っている。
港近くの古いマンション。そこが客船フェリー会社の社宅になっているとのことだった。
海沿いにあるから、潮の匂いがそのまま。
駐車場に車をとめて、彼の後をただただついてきた梓は、いま彼の自宅に入った。
「風呂、入れてくる。くつろいでいて」
秋の夕は少し冷え込む。でも窓辺が海側に向いているせいか、陽射しが落ちてしまっても日中に暖められたのか、部屋は寒くなかった。
寂しい独身男、ほとんどが海上での日常。だからもっと質素に暮らしているかと勝手に想像したけれど、そうでもなかった。
リビングにはテレビとソファーセット、ダイニングにはテーブル。テーブルには、さすが珈琲屋社長の甥っ子さん、コーヒーミルとサイフォンが置いてあった。
社宅というから家族で住む分だけの部屋数があるようだった。リビングの隣がベッドルームらしく、海側に窓があるもう一部屋にゆったりとしたベッドが見えた。
奥のバスルームから湯を張る音が聞こえて、彼がリビングに戻ってくる。
「さすが、真田さんの甥っ子さんですね。コーヒー豆から挽くのですね」
「そういう豆ばかりくれるからだよ。タダより高いものはない、自分でうまく淹れろとか言って、豆をくれるんだよ。淹れようか」
緊張がほぐれるだろうかと梓も思ったが、やはり首を振る。
「船の本もあるから、見ていいよ」
「ほんとうですか!」
本気で喜んだ梓を見て、彼も緊張していただろうに、いつものふんわりとした微笑みを見せてくれた。
でも、それがベッドルームだった。
窓際にパソコンデスク、壁には大きな本棚があり、そこには彼が教えてくれたとおりに、たくさんの海運、商船、内航船の本が並べられている。
「すごい。こんなに」
うわー、どれから見よう、どれにしようと貼りついてしまった。
本棚を眺めている梓のすぐ後ろに、背が高い船長さんが立った。
「1級とか、2級とか。教科書みたいな書籍も多いですね」
「船乗りも階級があるから勉強して上に行かなくちゃいけなんだ」
「ずっと勉強してきたんですね」
「大学卒業時で3級海技士、試験や勤務経験の資格をクリアしながら2級海技士、船長になるには1級海技士の試験が必要になるんだ」
じゃあ、松浦さんは1級海技士に合格しているんだと微笑むと、梓のすぐ後ろ、真上に彼の顔があった。
「勉強する時間だけはあったからな。独りが長かったから、それはそれで有利だったかもな」
離婚してからもずっと海の上、そして女性と疎遠になり試験に励んできた男性の姿が梓にも見える。彼の黒い瞳にその誇りと寂しさが入り交じっているように感じた。
「これ、タンカーの写真がある……」
だいぶ上、背表紙にタンカーや貨物の写真がある本へと手を伸ばしたけれど届かない。つま先立ちをしても……。でもすぐ後ろにいる背が高い彼がひょいと取ってくれた。
「持って帰っていいよ。返すのもいつでもいいから。ゆっくり読んでみたら」
「ほんとうに? うわ、楽しみ」
本物の船乗りさんが持っている船舶の本なんて、鉄子の心くすぐりすぎる――と梓は嬉しいまま、その本を胸に抱いた。
そんな梓をそっと見つめている彼が静かにそこにいる。
男性の自宅に来て、緊張していたはずなのに。つい……、好きなものがあって……気が緩んでいた。そこにもう見慣れてきた柔らかい男性の眼差しがある。
「ほんとうに好きなんだね。船乗りとして嬉しいよ」
いままでどおりの船長さんの返答なのに、梓を見下ろしているその黒目が熱っぽく揺れた気がした。
彼の手が梓の額に触れる。黒髪、前髪をすっとかき分けて、露わになった額、そこに彼の唇が落ちた。
初めて触れてくれたのがキスで、そんな柔らかで、優しくて。急に胸が狂おしくなって目をつむってしまう。
大事にしてくれているのは、梓が歳が離れて若いから。まだ彼の中では『女の子でお嬢さん』だから。女ではないから。
女にならなくちゃ。そう思ったけれど。自分からはなにもできない。
そうして固まっていると、船長さんがさらに身をかがめ、今度は梓の唇に――。
「んっ」
優しく押しつけてきたその感触、でも急激な男の匂いも迫ってきた。
「嫌なら、いまのうちだ」
「私のこと、まだ子供みたいに思っているの?」
やっと目を開けて言えたのがそれだった。自分から大胆なことはできないけれど……。梓からも、見下ろしている彼を見つめ返した。
梓もきっと彼とおなじ目をしているはず。女の熱にほてった濡れた目を。男もそれだけでわかるはず。
「梓、愛しく感じている。だから大事にしたいと思って……」
まどろっこしく子供扱いみたいになってしまうと言いたいらしい。
本棚を前に男と女の空気が急激に濃くなる。胸に抱えていた本が床に落ちる。梓の唇はもう彼の唇とあわさって、彼に愛撫されている。
久しぶりのキスに梓はどうすることもできず、ただただ彼の舌先に任せて愛されるだけ。やっぱり子供かもしれなかった。
セックスなんてそれほど好きでもなかった。大学時代の彼氏としてきたことは『男の人と付き合うのに必要だから』と思って、彼に嫌われない程度に身体を預けただけ。
梓から欲しいと思うことはなかった。いつも彼に嫌われないか、身体を見せる時もいつもなにかを気遣っていて、気疲ればかりしていた記憶しかない。
だから、世に言われる『とろけるセックス』なんて知らない。欲しいと思ったことがない。
「あっ、せ、せんちょ……う……」
なのに自然と声が漏れてしまった。頬が熱くて、初めて……男の人の舌先を甘く感じてしまった。
経験ある大人の男だから? それとも、やっぱり梓も大人の女になっているから? 違う、梓も彼を欲しているし、心から受け入れているんだと思えた。
「おいで」
ひとしきりの熱いキスの後、梓はそのまますぐ横にあったベッドに連れて行かれた。
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