15.船長さんは甥っ子だから

 その日の仕事が終わり、梓はフェアレディZの助手席に乗せられていた。狭い後部座席には本多先輩が。

 フェミニンな働く奥様のお洒落をしてる琴子先輩が、ショートブーツを履いている足でブウンとアクセルを踏むそのギャップ。

 ほんとうにいまでも琴子さんが、こんなスポーツカー運転しているなんてイメージがなくて、見るたびに驚いてしまう。

 彼女の運転で、旦那さんが行き着けという点心屋さんに連れてきてもらう。

「俺、この前、おまえの旦那と一緒に食べに来たばかりだよ」

 四人がけのテーブルに、梓と琴子先輩が並んで座り、目の前には男一人本多先輩が座った。

「私だって食べたかったんだけど。いつも英児さんと雅彦君と男ふたりだけで食べに行ってずるいと思っていったの」

「そういうの、旦那に言えよ。英児さんになら言えるんだろおまえさ。俺にはぜんぜんそういう口の利き方しなかったのに」

 ビールジョッキを傾けながら、元カレとしてぐちぐち言い始めた本多先輩とそれに文句を言う琴子先輩を見て、男と女では上手くいかなかったのが良くわかってきた。

 きっと滝田社長が琴子さんのいいところを上手に引き出して、そして琴子さんも自然体でいられるようになったのだろう。それが本多先輩の時にはできなかった。いや、この気難しいプライドの高そうな男では、琴子先輩でなくても同じことになるかと悟ってしまう。

「でさ。俺と琴子の昔話はどーでもよくて、永野と真田さんのことだろ」

 来た、前置きも遠回しな探りもなくストレートに。梓は黙り込む。確かに、クライアントである社長のプライベートを喋るつもりもないが、仕事場の先輩に心配もかけたくない。

 茉莉花茶を頼んだ琴子先輩が、いい香りのお茶を口にした後、ふと呟いた。

「あの社長さんがプライベートの話をしたいなら、私とか本多君には知られないよう、見えないところに上手く梓さんを誘ったと思うのよね。それを、あんな取引先の事務所で、梓さんの先輩である私たちに見えるようにお願いしたの、おかしくない?」

「それもそうだな。知られたくないなら、外で会う手はずをあの社長なら上手く取り付けるよな。ということは? 俺たちにもある程度は見られてもよかったということか」

 梓も先輩たちの見解を聞いて、初めて気がついた。そうだ。あの凄腕社長さんがあんな人前で涙を見せてしまうほどの環境で梓と向きあったのには意味があったのかもしれない。

「梓さんが若いことと、あと私と雅彦君にも先輩として心に留めておいて欲しいということだったのかも」

「知られるの前提か。だったら、言えよ、永野。なんの話だったんだよ」

 目の前でビールジョッキを突きつけて迫ってくる本多先輩や、じっと梓を仕事の時のマネージャーの厳しい目線を向けている琴子さんを見て、梓はとうとう観念してしまう。

「真田社長の甥っ子さん、このまえ事務所に連れてこられた男性と、その、会ったりしています」

 『え』 二人の先輩が揃って目を見開き静止した。

「お、お付き合いしているってこと? 真田社長の甥っ子さんと」

「いいえ。まだ。ただ気が合うことがあったので、船から下りている日に会っただけです」

「船? あの甥っ子さん、船の仕事しているのか」

「はい。客船フェリーの船長さんです。港でスケッチをしている時に、三好堂で会いましたよね――と船長さんから気がついてくれたんです」

 そこで本多先輩が『ああっ』と何かが急に繋がったと閃いた顔。

「さては、おまえ、船のスケッチしたとか言っていたけれど。気に入られたからあげたとか言っていたの、その船長か」

 梓もこっくり素直に頷く。

「それがキッカケでお話しするようになりました。でも。ほとんどが海上で船に乗っている日々なので、しょっちゅうではないんです。先週、ようやっと下船して陸に帰ってきたので、また約束してお会いしたのが真田珈琲の本店でした」

「もしかして、そこで真田社長に気がつかれたの? 甥っ子さんと梓さんが会っていること」

「松浦さん、あの船長さんは、陸に上がると叔父様のところに無事に還ってきた報告がわりに来店されて、叔父様が淹れる珈琲を飲むのが休暇の楽しみなんです。そして、叔父様の真田社長も、甥っ子さんが長い海上勤務から帰ってきた労いをしたくて甥っ子さんに自ら珈琲を淹れてあげたくてお店に出ていらっしゃるんです。その時に社長に気がつかれました」

 琴子先輩と本多先輩が顔を見合わせた。その目線だけで、別れたはずの男女なのに、妙に息があう相棒同士のような様子を見せている。きっと同じ事を思っていて確認しあっていて、どちらがそれを言うのかを探っている? 言葉を発したのは本多先輩だった。

「それで、どうして真田社長があんな顔になったんだよ」

「甥っ子さんが女性とお付き合いすることを案じているからです」

「永野との付き合いは認められないって? そんな顔ではなかったよな」

「松浦船長は離婚されています。随分昔のようなのですけれど、酷い別れ方だったとのことで、真田社長も酷く嫌な思いをされたみたいなことおっしゃっていました。だから、甥っ子さんが楽しく過ごせることを祈っていると私に……。まだお付き合いはしていませんと伝えたけれど、甥っ子さんとお付き合いするなら、大事にして欲しいという願いと心配が含まれていたようです」

「そう、そういうことだったの。甥っ子さんが傷ついてきたのを見てきたというわけなのね。そう聞けば、情が深い真田さんらしいと思えるわ。ねえ、雅彦君」

「そうだな。厳しい人だけれど、優しい人だよあの社長は……。そっか、甥っ子の心配をしていたわけか」

 無表情だったけれど、そこで本多先輩がほっとひと息ついてビールを飲んだ。

「でも。あの真田社長があんなに心配するほどに、嫌な別れ方だったということね。だから梓さんともしお付き合いするなら、またどうなるかと案じているってことなんだわ」

「どんな別れ方したら、あの頑丈な狼社長を泣かせるんだろうな」

「雅彦君、そういう言い方やめてよ。言ったでしょ。情が深い方なの真田さんは」

「はいはい。さようでございますね、マネージャーさん」

「もう! 相変わらずなんだから」

 こちらはちゃんと別れられた男と女なんだなと梓は思ってしまった。

 小龍包のせいろがやってきて、他にも海老焼売に春巻きなどなど。本場の上海からやってきた職人さんが手包みして作ってくれるこのお店の点心が並んだ。

「梓さん、話してくれてありがとう。だいたいわかったわ」

 琴子さんが銘々皿を梓と本多先輩の前に配り始める。さすが気遣いできる女子だなと梓は感心するが、本多先輩は人妻であっても琴子がやってれるのは当たり前といわんばかりの顔で礼も言わない。でも琴子先輩も平気な顔をしている。

 しかしそんな本多先輩だが、一人だけ面倒くさそうにゆるい姿勢でビールを飲んでいたが、急にきちんと座り直した。

「なーんも関係ないと思っておく。それでいいよな、琴子」

「もちろん。梓さんと真田さんのプライベートだもの。ただし、」

「ただし、何かあれば必ず報告する。大事なクライアントだ。プライベートのいざこざで仕事をふいにするようなことがないよう、よく考える。わかったな、永野」

 本多先輩の釘刺しに、梓も素直に『わかりました』と返答する。

「真田さんも取引先の社員と甥御さんが関係あるとわかったから、ある程度は私達に仄めかしてくれたんだと思うの。まったく隠すわけにもいかないと判断されたのでしょうね」

「問題は。その真田社長すらも心を痛めている『離婚の経緯』てわけだな。ここは俺たちも首突っ込めない」

「そうね。だから知らぬふり。でも、梓さん。あなたの後ろで私と雅彦君が控えていること、忘れないで。真田さんというクライアントの筋とプライベートでも関係を持ってしまうことがどのようなことかよく考えてね」

 いろいろ詮索されるかと思ったが、やはりこちらの先輩ふたりは何事も仕事目線のみだった。そして心強い。大事なクライアント真田珈琲とプライベートの狭間で揺れることがあっても、なんとか相談できそうだと思った。

 もしかして――。これもあの叔父様の考え? やっぱり百戦錬磨の社長さんは思慮深い。梓はそう思ってしまった。

「それにしても雅彦君は、仕事のことになるとこうして必死になってくれるのねー」

 それぞれ好きな点心をお皿に載せて食べ始めると、琴子マネージャーが『雅彦君』をからかうように笑った。それでも本多先輩はけろっとして『だからなんだよ』とビールを飲み続けている。

「そりゃな。三好堂デザイン事務所が潰れたら、俺なんか働けるところなくなるだろ。……恩もあるしさ……」

「雅彦君が来てくれて、才能を発揮してくれて、私も結婚しても依頼管理の仕事ができているんだけれどね。ほんとう、ジュニア社長の事務所、大きくしてくれたの雅彦君だから」

 今度は感慨深そうで、琴子先輩がうつむいてしまう。元恋人同士のはずなのに、いまは戦友に見える二人。

「雅彦君ね、梓さんが面接に来てイラストを見せてくれた後、すごくイライラしていたのよ」

「え、そうなんですか」

「やめろよ、琴子」

 本多先輩がまたぶすっとした顔になり、ビールジョッキ片手に横座り、女二人との対面を避けてしまう。

「自分がどんなにいろいろな雰囲気のイラストをかき分けようと頑張っても、梓さんのような女の子らしいものは描けない。全部、自分がなんとかしようともがいている時に、若い女の子が自分が絶対に出せない感性のイラストを持ってきた。雅彦君、その時に観念したの。自分に描けないものは、描けるものにやらせる。クライアントに沿えるものを描ける者がやるべき。それを梓さんに見出したのは本多君なのよ。これから事務所でいろいろな作風のイラストレーターを揃えたほうがいいからと社長に言ってくれてね」

 ジュニア社長でも琴子先輩でもない。いちばんに推してくれたのは、この気難しい先輩だった。

「自分が一番でなくちゃ気が済まなかった雅彦君がね、自分が傷つけられることや嫌なことはすっぱり切り捨てていた雅彦君がね」

 もう横座りどころか、背を向けちゃった本多先輩に、琴子先輩がふふふと笑っている。

「それだけ、雅彦君はいまの仕事にすべてを賭けていて、誰よりも三好堂デザイン事務所を守りたいと思ってくれているの。だから梓さんを自分と同じように仕事を依頼されるイラストレーターに育てたいと思ってくれているのよ」

 だからこそクライアントとのおつきあいも考慮してね――と琴子先輩からも優しくやんわりと釘を刺されてしまった。

 本多先輩は暫くは背中を向けたまま、それでも小龍包をちまちま食べていた。こんな無愛想な先輩だけれど、梓を大事に育ててくれようといていたことがよくわかった。

 松浦船長とこれからどうなるかわからないけれど、クライアントの甥というのも忘れてはならないと肝に銘じた。

「でも。急発進した恋はとめなくていいと思うの」

 茉莉花茶を飲んだ琴子先輩の頬がふっとぴんくに染まる。元ヤンだった滝田社長とは本当にロケットのよう電撃婚だったと三好社長が言っていたことを梓は思い出す。

 ロケットのような激しさはまだ感じられない。でも、心の中にはもう『船長さん』がいる。


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