22.動き出す時間
よし。こことここ、どうかな。梓の好みと通勤の都合を教えて。
駅からちょっと遠いかな。駅さえ近ければ、私は古港の周辺でもいいよ。
部屋はこれどうかな。あと、ソファーも。
海が見えたら嬉しい。社宅の窓辺はすっごく海が近くていい雰囲気だったから、あれもったいない。もう灯台の窓辺見られなくなっちゃうんだ。
その分、電車やバスとは離れているからなあ、あの港は。海が近いのはそれが引き替えみたいなもんだ。
ほんとうだね、残念。
だったら、ここどうだ。上階だと見えると思う。
高いよ……。
いいんだって、いずれ引っ越そうと思っていたんだから。梓は遠慮しない。これから俺と一緒にいるなら、遠慮しない。わかったな。
まずは見学してからだよ。
うん。船から下りたらさっそく。楽しみだよ。
私も……!
この街の春を告げる、椿祭り。一月の末から二月の間に行われる。このお祭りが終わると、少しずつ春を感じることが多くなると地元の人は言う。
その頃に圭太朗がまた船を降りて帰ってきた。
乗船中もこまめに連絡を取って、どこに住むか、どんな部屋にするか、どの物件を一緒に見に行くか、引っ越しはどうするかを話し合った。
いままで一人でなんとか自活してきた小さなマンションから引っ越すため、宇部の両親にも報告しなくてはいけなくなった。
実家に帰省した時に母には『そのうちに紹介したい人がいる』とだけ伝えておいた。父と祖父はまだ梓を子供みたいに思っているところがあるので動揺するだろうと、帰省時に伝えることが出来なかった。
そこは大人の圭太朗が梓よりもこだわっていて、母にだけは挨拶をしたいからと、電話をしてくれた。梓と真剣な交際をさせて欲しいということと、きちんとお嬢様を預かります、一緒に暮らします、僕に任せてくださいませんか――と真摯に説得してくれたせいか、母も『梓ももういい大人なので、うるさくは言いません。ですが大事な娘ですから、よろしくお願いします』と了承してくれた。
圭太朗が船乗りの大学出身でいまは船長をしていて、叔父様が全国でも有名なレモンマーマレードをヒットさせた真田珈琲の社長であることで、母も信用してくれたようだった。
すべてを整えるための、圭太朗の手際もすごかった。十日しか陸にいないことを考慮していたため、部屋が決まるまではハードスケジュール。梓とゆっくりすることができなかった。
彼も心機一転したかったのか、部屋が決まると、インテリアにも拘って、でもあっという間に決めてしまい、それらを一括購入。引っ越しの準備も整えてしまった。
冬の間は、圭太朗と一緒に暮らすための準備に追われた。
一月の休暇、二月の休暇は、そのための準備で終わった。
でも、その間に、あちこちで食事をしたり、買い物をしたり。ふたりの間で影を落としそうになるセックスもない、でもセックスなんて気にしない日々で充実していた。
もう、海は春の色。
街中は椿の香りがほのかにする。
「梓、荷物片づいたか」
「カーテンがつけられないの」
フローリングの小部屋。梓がもらった新しい部屋だった。
もう窓を開けていても、暖かなそよ風が入ってくる。角部屋のため、窓を開けると海が見えた。
古い港町に越してきた。新しい賃貸マンションだったため、利便性も叶えられていて、電鉄の線路も見えてオレンジの電車が走っているのまで見える。
デザイン事務所は遠くなってしまったが、通勤は苦にならなかった。むしろ『そうか。毎日、電車に乗れるんだ。線路に来れるんだ』という、新しい楽しみを見つけてしまった。
「どれ、貸してごらん」
カーテンレールが高くてもたもたしていたけれど、背が高い彼がさっと器用に取り付けてくれた。
新しいカーテン、花の匂いがする風、新しい春。それだけでもう梓の心は躍っている。
「梓らしいカーテンを選んだな。やっぱりここだけ女の子の空気があるな」
梓の好きに使っていいよ。イラストの仕事をするために、一人部屋も必要だろう――と、彼がそこもこだわって選んでくれた物件だった。
上手くいくのかな、途中で嫌になって、ふたりで暮らす家を出て行きたくなったらどうしよう。最初はそんな不安もあった。でも、部屋が決まって、圭太朗がまたたくまに素敵なインテリアを搬入して整えてしまうと、嬉しさだけしか感じられなくなっていた。
こんなしあわせある? 大人の船長さんが大事に大事に愛してくれて、仕事も応援してくれて、料理や家事もやってくれて。素敵な家まで準備してくれた。もうシンデレラみたいな心地だった。
圭太朗も自分の部屋を持った。でもそこは社宅にいた時と同様、梓と一緒に眠るベッドルームでもあって、彼の勉強部屋でもあった。
海色カーテンの向こうには、貨物船や漁船が行き来している海が青く光っている。緑の島も綺麗だった。夜は灯台も見える。
「ふう、無事に引っ越し完了だな」
彼も穏やかな横顔で、梓の部屋から見える海を望んでいる。
「ありがとう、圭太朗さん」
彼の腰に抱きついて、梓は彼の胸に顔を埋めた。
「俺も嬉しいよ。ここに帰ってくれば梓がいるんだし、これで一緒にいられる」
「うん。ここで待っているから、安心して海に行ってね。そして、ちゃんと帰ってきて」
『もちろんだよ』。彼も梓を抱きしめてくれる。
一緒に選んだ新しい食器で夕食を一緒に作って、朝ご飯を食べて、彼が自宅で休暇の時は車で事務所まで送り迎えしてくれることもある。新しい家具の匂いに囲まれて、新しいタオルの手触りが嬉しいように、ベッドのシーツも新しくなって、春の匂いが濃くなるほどに、彼と始めた同棲生活も花開くような日々だった。
三月の休暇は、ようやっと引っ越して落ち着いた生活を堪能するものとなった。
それでも、新しいバスルームでも、ふたりを結んでくれたバスソルトは変わらない。
オレンジの匂いがする湯気に包まれて、ぬるめのお湯で、汗がじんわりと滲んでもふたりで肌を愛しあう入浴はかわらない。
あたたまった身体を、新しいシーツのベッドに横たえて、オレンジの匂いがする肌を密着させて。愛したいところを愛して、愛されて、甘酸っぱい果肉をほおばるような夜にはもう遠慮はなかった。
自分の身体が大人の女に染まっていくのを梓は感じていた。そして自分も、大人の女になっていく、もう羞恥心はない。あってもそれはもう圭太朗に捧げた。梓も、初めて男の皮膚や身体を欲しいと思う感覚が備わってきた。
愛したい。あなたの皮膚に男の身体を。子供のような思考しかなかったのに、怖かったのに、梓は自分から望む。最初は遠慮していた圭太朗も、梓を受け入れてくれるようになってきて……。やがて、彼の男の機能が少しずつ戻ってきて、少しの間ならば、梓とひとつに結ばれる時間も生まれてきた。
男の機能が不完全なぶん、圭太朗はとことん梓の肌を愛撫してくれる。そのたびに梓の身体は女の甘美を覚えていく、開いていく、敏感になっていく。
そして梓は愛撫されながら、うわごとのように呟く。
「圭さん……じゃないと、もうダメなんだからね……」
こんなこと他の男の人としたくない。こんなはしたなくて淫靡なこと。許した男の人にしかできないよ。圭太朗さんだけだよ。
「そういう梓を愛しているよ」
彼が嬉しそうに微笑んで、梓を満足させてくれる。
もう狭いベッドではない、知り合いがいる社宅でもない。帰る時間を気にしなくてもいい。眠くなったら彼の隣で彼女の隣で眠ってしまえばいい。目が覚めたら、そこには恋人がいる。ひとりではない、熱い皮膚がすぐそばにある朝。
好きな男性との暮らしが、こんなに素敵なものだなんて知らなかった。
春の気怠い朝、梓は裸のまま、毎朝彼の黒髪にキスをする。
ふたりがくるまるブランケットの中も、ほんのりオレンジの匂い。
春の海は水彩画のように、ぼんやりと優しい色。
リビングからもちらりと見えるその海を背に、船長の黒い肩章がついた白シャツの上に、彼が濃紺のジャケットを羽織る。
また出航する日がやってきた。この新居に越してきて、初めてのひとりでのお留守番になる。
「なにかあったら、輝久叔父さんに必ず相談すること。わかったな」
「うん。大丈夫だよ。いままで独り暮らしちゃんとしてきたんだから」
「だから。そうやって、周りに迷惑かけないようにとひとりで頑張るなと言っているんだよ。宇部のお母さんから預かった大事な娘なんだから」
律儀でこういうところ凄く気にする人だなと、一緒に住むと決めて、改めて感じた彼の性格だったが、時々お父さんみたいにして梓に接することも増えていた。これも船長さんらしい責任感だと梓は思っている。
「残業で終電に間に合わなかったら、叔父さんを呼びつけても良いからな。俺、お願いしておいたから」
「もう~、おじ様にそんなことさせられないよ。仕事の時はクライアント社長さんだもの」
「仕事が終わったら社長ではなくて、梓にとっても叔父だからな。遠慮しない!」
『はい』と言うまで、しつこく言われそうだったので、パパ兄さんみたいになっている圭太朗に『そうします』と梓も観念した。
「は~、やっぱりその制服、かっこいいよ」
毎回、彼が出航する日になる度に惚れ惚れしていた。
「それでも、春の瀬戸内は濃霧が発生するからな。時間どおりのダイヤで出航できないことも出てくるかもしれない。その時はまた連絡する」
「うん。安全第一だから、帰る日が遅くなっても、無事に帰ってくること祈ってるの。事故を起こさないように、いってらっしゃい」
金ボタンを全て閉じた制服姿の彼に梓も微笑む。笑顔を見せて安心して出掛けて欲しいから。
「行ってくる。楽しかったよ」
新しい家での恋人との新しい生活を、圭太朗も堪能してくれたようだった。
「これからは……、帰っていてもずっと一緒だよ」
梓から、背が高い船長さんにキスをする。いってらっしゃいのキス。
圭太朗もちゅっといつもよりきつく吸うお返しをしてくれた。
梓の胸元には、銀色のペンダントが光っている。
朝早く港へとセリカででかけようとしている圭太朗を、梓はマンションの駐車場までお見送りに出た。
圭太朗がいうように、港町も少しだけ春のもやでかすんでいる。
「黄砂も来てるな。視界が悪そうだ」
船長の金ラインが入っている袖口からすらりと伸びる腕、手で目元を覆う圭太朗が空を見上げている。
白い制帽を助手席に放り投げ、ついに彼が運転席に乗り込もうとした時だった。
「圭太朗、圭」
誰かがそう呼んでいる。
運転席に乗り込もうとしていた制服姿の彼が、ドアを開いたまま振り向いた。梓も一緒に声がしたほうへ。
「圭太朗、やっと見つけた」
しっとりしたボウタイのワンピースにジャケットというシックな大人の女性がそこに立っていた。
「ナツ……」
制服姿のままたたずんでいた圭太朗のその声に、梓の胸が一瞬でずきんと痛んだ。そういう声で梓を優しく呼んでくれるから。それを、違う女性を呼ぶ時にも使った。
でも圭太朗の顔色が見る見る間に蒼白していくのを梓は見てしまう。
そして、ついにシックな大人の彼女がお洒落なハイヒールの音をカツカツ鳴らして真っ直ぐにこちらに駆けてくる。
「すごい、圭。船長になったの! すごい!」
梓と圭太朗がいるそこに、彼女は梓など見えなかったかのようにして押しのけ、制服姿の圭太朗に勢いよく抱きついた。
「探したんだから。探したんだから!」
ぴったりと圭太朗の首に両腕を巻き付けた彼女は、そのまま彼に抱きついて離れなくなった。
梓の胸の鼓動が早くなる。とても嫌なことが頭の中に浮かんでしまったから。
まるで力を抜かれたかのようにして、圭太朗が彼女に聞いた。
「おまえ、思い出したのか……、俺のこと……?」
その艶やかな女性は、記憶をなくしたはずの別れた妻。
梓も足下から力が抜けそうになる。
いつかの機関長の言葉が急に浮かんだ。
時間が止まった男。片方だけが動いていてもしかたがない。
梓は思った。止まっていた時間が動き出した――と。
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