23.私は妻
船長制服姿の圭太朗から、彼女が離れない。
別れた妻が突然訪ねてきた。引っ越したばかりの新居に。しかも、忘れたはずの夫『圭太朗』のことを思い出している。
そんな彼女の目線が、すぐそばにいる梓へと向かってきた。とても鋭い恐ろしい目。
「圭太朗、だれ、この女」
彼が黙ったままなにも言わなかった。ここで『俺の恋人だ。いま好きな女だ』と言って欲しい、本当ならば。でも梓にはわかる。圭太朗の目に『危機感』が現れていた。
「誰なの! 私以外の、妻以外の私に女がいたの? やっぱりそうなの!! だから私の目の前からいなくなってしまったの?」
気性が激しい女性だったことは聞かされていた。狂ったように泣き叫び、制服姿の圭太朗に抱きついてすがって離れないその姿はとりつく島もない。
「ナツ。旦那はどうした」
圭太朗は落ち着いていた。すがりついている彼女の細い肩を掴んで、そっと引き離す。それでも彼女は圭太朗をじっと見上げて離さない。彼しか見えていない目。
「夫はあなたでしょう。気がついたらあなたがいなくて探したのよ。知らない家に居てびっくりしたんだから」
圭太朗が『ああ』と絶望したように、目元を覆って溜め息をついた。
「子供たちは――」
「知らない! 知らない! どうして私を置いてここにいるの!! 三ヶ月もかかった!!」
記憶が戻って三ヶ月、必死に圭太朗を捜し当てたということらしい。
「それでも、子供たちが待っているだろう。それはどうするんだ。三人いるんだろう!」
「高校生がふたり、中学生がひとり。もう自分達でなんでもできそうだから大丈夫だと思って出てきた」
また圭太朗が気が遠くなるように目元を覆って、わずかに車へとよろめいて項垂れている。
梓もショックだった。子供たちのことすら、捨ててきてしまった? すっかり十八年ほど前の、事故で記憶を失ってしまった時そのままに戻ってしまっている?
「ねえ、圭太朗。私たち、夫婦でしょう。ね、お願い。私と一緒にいて」
また彼女がぐっと力強く船長姿の圭太朗に抱きついた。
「嬉しい、圭太朗の匂い。変わってない……」
「いいか。ナツ。俺とおまえはとっくに離婚している。夫婦ではない」
静かに諭そうとする元夫を、彼女がまた『信じられない』という驚きで固まったまま見上げている。
「おまえは、里見一成という男と再婚した。子供が三人、いちばん上の男の子はもう十八歳、高校を卒業する頃だ。二番目の子供も男の子、末は女の子、中学生のはずだ。まだ母親が必要だろう。帰るんだ。俺とのことはまたその後だ」
「嫌!! そういってあなた、どこかに行ってしまっていたじゃない!! 絶対に離さない、今度こそ、離れない!」
「仕事なんだ。また海上勤務なんだ。時間がない。とにかく、おまえの夫に連絡する」
「嫌ー、嫌ー!! 海になんか行かないで!!!」
しばらく茫然としていた圭太朗だったが、すぐに青ざめている梓に気がついてくれた。
「部屋に戻っていろ」
「でも、」
嫌、この人と一緒にいるあなたなんて見たくない。梓の心が密かにそう叫んでいる。
そんな女の空気は同性にはすぐに伝わるもの。彼女がキッと初対面の梓へと敵対する目線を向けてきた。
「この女のせい!? 人の夫に手を出すなんてどうなるかわかってるの!!! 許さないわよ!!」
圭太朗の危機感が、梓にも通じた。いまはなにを言っても、彼女を錯乱させるだけ。なにごとも起きないよう、圭太朗が梓を安全な場所に行くよう願っているのが伝わってきた。
「あとで連絡する。待っていてくれ」
彼がなるべく感情的にならないよう、努めて落ち着いた口調でいるからこそ梓にもわかった。黙って頷いて、梓はそこを静かに去った。
急いでエントランスに入ってエレベーターに乗って、彼と住み始めたばかりの部屋に戻った。
玄関に入って、鍵をかける。息が切れていた。そして手が震えている。そして……、涙も溢れてきた。
「うそ、うそよ。なんで、いまごろ……」
どんなに時が経っていて、どんなに圭太朗だけ十八年時間が進んでしまっていても、彼女は止まったまま。そして動き出す。
梓の脳裏に、片袖をひっつかまえられ、船長の制服姿のまま十八年前の時空にひっぱり降ろされていく圭太朗が浮かんでしまった。
どうなるの? 彼女のために彼が連れて行かれてしまう? もう平穏な私たちの穏やかな時間は戻ってこないの?
涙が溢れて止まらない。いや、いなくならないで。私の船長さんなんだから。
まだ夜が明けて間もない。それでも春の朝はほの明るい。
ひとりきりになったリビングのソファーで梓はブランケットにくるまってじっとすることしかできなかった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
じっとしている梓の目の前、携帯電話が鳴ったのはその一時間後だった。
ディスプレイの表示は圭太朗。慌てて手に取った。
『梓、大丈夫か』
おさまったはずの涙が溢れてきた。
「う、うん」
『驚いただろう』
「圭太朗さんこそ……。奥さん、思い出したんだね……」
彼からすぐの返答はなかった。
『輝久叔父に連絡した。前の弁護士を通じて東京にいる夫に連絡してもらっている。俺は船にもう乗らなくてはならないけれど、海上にいる間は叔父が対応する。梓のことも頼んでおいたから』
「大丈夫? 圭太朗さん……。船……」
『仕事は仕事、家族にどんなことがあっても船からは帰れない。そう教わって乗ってきた。大丈夫だ。それに……、俺には梓がいる』
もうそのひと言だけで、梓のきつく縛られていた心臓がふっと優しく解きはなたれた感覚、安心感が広がった。
「嫌、元に戻らないで……。私のところに帰ってきて」
『もちろんだよ。どうして、もう俺と別れた妻は終わっているんだから』
「彼女は終わってないみたいだったよ……」
『記憶が戻って混乱しているだけだろう。あちらの家族もきっと探しているはずだ。なによりも子供が、特に末の子はまだ中学生の女の子だ。このままというわけにはいかないだろう』
「う、うん。そうだね」
『俺とあちらの家族のことだから梓は関わらなくて良い。でも叔父に連絡させるから』
では俺は乗船する――と、男らしい声で電話が切られた。
大丈夫かと思いつつも、人知れず不本意な離婚を噛みしめながら孤独を生きてきた人だからきっと、船の仕事は船の仕事と割り切れるのかもと梓は安心できるようなことを一生懸命に探した。
圭太朗との電話が切れるとすぐに真田社長からも連絡が来る。
『梓さん、輝久です。大丈夫ですか。圭太朗から聞きました』
また頼もしいおじ様の声に、梓はほっとして涙が滲んでしまった。
「圭太朗さん、いま、港に行きました。こんな、状態で……」
『大丈夫ですよ、あいつは。常日頃、長と名の付く役職に就いたなら、責務をいちばんに優先せよと伝えています』
さすが船長さんの叔父様、社長さんだと思った。
『圭太朗は仕事がありますから、私が陸のことは対処します。圭太朗が彼女を私のところに連れてきました。いま私が預かっています。東京のご家族、ご主人にも連絡済みです。あちらも彼女が急にいなくなったと大騒ぎだったようで……。あちらでなにがあったのかわかりませんが、すぐにご主人が迎えに来てくださるそうです』
引き渡すまで私がなんとかするから、梓さんは案じないように。
そう言われ、安心して仕事にでかけるように言われた。
真田のおじ様からの連絡が切れても、梓は釈然としなかった。
「三ヶ月も探したと言っていた……。なにもかも置いて、子供も置いて……」
家を飛び出して圭太朗の胸だけを目指して駆けてきた女性。
あの狂うように感情的なわめき声と鋭い目を思い出すだけで、梓はゾッとする。
ほんとうに家族に知らせて引き渡すだけで終わるの? 終わるの?
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