24.夫は誰?


 それでも梓は仕事へと電鉄の駅に向かった。

 あんな状態で圭太朗が船長として仕事に立ち向かったのだから、梓もそうしたい。

 でも、頭の中が沸騰するように熱くて、混乱している。こんな時、頼りたい彼の胸がそばにないのは確かに辛い。ひとりで待つとはこういうことなのか、初めてその不安を実感している。

 瀬戸内フルーツ紅茶のパッケージも仕上がり、あとは真田社長からOKをもらうばかりになっていた。

 事務所に出勤すると、三好社長が朝一ミーティングで周知する。

「明日は、真田珈琲の社長が訪問予定でしたがキャンセルとなりました。振り替えの訪問日は未定ですが、スケジュールの都合に合わせ変更日を連絡してくれるとのことだった」

 琴子マネージャーと本多先輩の目があったのを梓は見てしまう。もうスケジュールギリギリなのにどうして――と訝しそう。そして三好社長は梓を見ていた。でもなにも言われなかった。

 この事務所で、梓と真田社長の甥っ子が恋仲になったことは誰も触れないけれど、知れ渡っていると梓は思っている。

 みな、素知らぬふり。でも真田社長が事務所に打ち合わせに来ると、最後はいつも梓が車まで見送るようになってそこで少しプライベートなことを話して見送るのも恒例になっていた。

 三好社長は『あの社長が父親みたいな顔をしていた』と言い、本多先輩は『もう家族同然ってやつか』とぽつりとこぼして深くは触れてこず、琴子先輩に至っては『船長さんのセリカも龍星轟で見てみたいて英児さんが言っていた』とさりげなく恋人といらっしゃいみたいなカマをかけてくるだけ。もうそれだけで『知られている』と梓も肌で感じざる得なかった。


 昼休みの時間になって、近くのカフェでランチをしていると梓のスマートフォンが鳴る。真田のおじ様だった。

『梓さん、申し訳ない』

 第一声が疲れていて、梓は胸騒ぎがした。

『菜摘さんを見失ってしまった。どこにいるかさっぱりわからないんだ』

「おじ様のところからいなくなった……ということですか」

『仕事の連絡があり、私が電話で目を離している隙に。まあ、でも朝から喚いていたのでそうそう抑えつけられないとは思っていたけれど迂闊でした』

 輝久叔父も忙しい中、手に負えない精神不安定の女性をひとりで面倒を見るのは限界がある。彼女の凄まじさを目の当たりにした梓にも良くわかったから仕方がないとも思った。

「圭太朗さんには……?」

『まだ松山の港で出航準備をしているところだから市内にいるが、出航前だからこそ伝えていない。ただ越智機関長には』

 ここで圭太朗の背後で出てきたおじ様ネットワークが役に立っていた。でも梓はもしかして……と思った。

「奥様、港へ圭太朗さんを捜しに行ったのではないですか」

『そう思ったが機関長は姿は見えないと言っている』

 機関長は東京の商船会社時代からの知り合いとのことで、圭太朗の別れた妻のこともよく知っている男性だと輝久叔父が教えてくれ梓は驚く。

『同郷ということで親しくしていたようだよ。圭太朗を船長として叩き上げてくれたのも機関長だと聞いている。あの人がそばにいれば大丈夫だとは思う。ただ、彼女が何処に行ったのか……』

「船のお客様として乗船していませんか」

『チケットの販売はまだ開始していない。その頃に現れるかもしれないと機関長と汽船会社社長が監視してくれるらしい』

 社長まで巻き込んで良いのかと思ったが『汽船会社社長は、圭太朗の故郷の同級生です。彼が圭太朗を船長として誘ってくれたのです』と教えてくれた。

 圭太朗の周辺は彼の過去を熟知した男たちが固めているから大丈夫。彼等も船の安全な航行が第一の職務、その船長が職務出来るよう守るのも大事な仕事、やってくれますよ――と叔父様の言葉に梓は安心する。

『東京のご主人が夕方、空港に到着します。私が迎えに行きますが、梓さんもお仕事が終わったらまっすぐに自宅に帰りなさい。鍵を閉めて一切外に出ないように。ご主人を迎えたら心当たりを一緒に探します。それまで、なにかあれば真田珈琲の本店まで私を訪ねに来てもいいからね』

 やさしい叔父様の声で言われ、梓はますます安心してランチを取り終えた。

 午後からはいつもの集中力が戻ってきて、新しいチラシの仕事に没頭することができた。


 春の夕はほのかなレモン色。あたたかい春風の中、新しい帰り道を梓はゆく。

 出航前はいつも圭太朗がたくさん作り置きをしてくれるので、今夜も冷蔵庫には温めて食べるだけの食事がある。

『残業で遅くなっても、これがあるからちゃんと食べるんだぞ』

 パパ兄さんみたいに梓を心配して、でもきちんと労ってくれる彼の優しい声が蘇る。

 海辺のマンションに辿り着いて、梓はエントランスでドアを開ける暗証番号を押そうとした。

「圭太朗はどこ」

 ドキリとして梓は振り返る。

 朝と同じ服装の彼女、菜摘が立っていた。でも、朝ほどの形相ではない。

 ここで答えるべきか答えないべきか梓は迷う。

「あなた、圭太朗のなんなの」

 ここでも梓は答えられなかった。本当は答えたい。『いま一緒に住んでいる女』だと。彼と愛しあってるんだと堂々と言いたい。

 でも言えばどうなるか目に見えている。精神不安定な彼女が目をつり上げて、梓に詰め寄ってくるに違いない。

「お、奥様、ですか」

「そうよ。妻よ」

「結婚されて、どれぐらいになられたのですか」

 彼女の表情が少しだけ歪んだ。こめかみに指を当て、眉間に皺を寄せ苦しそうに考えている。

「さ、三年……?」

 結婚して二年、三年で別れた。圭太朗はそういっていた。そのまんま、やはり時が止まっている。

「松浦さんはいま船の中です。ここにはいません」

「いつ帰ってくるの」

「二十日後です」

「どこの港」

「松山観光港」

「行き先は!」

「小倉港、客船です。夜間航行で夜から朝の往路復路で二十日間です」

 『客船?』、また彼女が理解しがたいとばかりに首を傾げている。

「貨物でしょう。大きな貨物! 三ヶ月も乗っていて帰ってこないのよ。その間、私のことはほったらかしよ。連絡できないのよ!」

 二十年前ならば通信もまだいまほどではなかったことだろう。きっとほんとうに、待つだけの生活だったに違いない。

「前は貨物に乗っていたようですが、いまは客船です」

 なるべく彼女の時間にあわせ、梓は返答する。彼女が少しだけ、ぼうっとしている。

「知らなかった。転職したのね。だから、田舎に帰ってしまったのね。ああ、そうなのね。私があれだけ船乗り辞めて陸勤務を志望してと繰り返し言って喧嘩になったけど、二十日間の客船にしてくれたのね。まあ、いいわ。それでも。でも、私、どうして連れていってもらえなかったの?」

 彼女なりに今の状況と自分が知っている状況をなんとか摺り合わせているのがわかる。

「失礼致します」

 そっとなんとか去ろうとした。急いでボタンを押したが、その腕をついに彼女に掴まれていた。

「それで、あなたとここに一緒に住んでいるっていうの。私を置いて、新しい会社と土地で新しい女と楽しく暮らしているっていうの!? 裏切りよ!!」

 絶対に許さない!! 

 朝、見たままの彼女が降臨し、梓は後ずさる。

「離してください!」

「いやよ、こっちに来なさい! あなたの両親はどこにいるの! あなたの親に報告する。他人の夫を取るような娘を育てた責任を取れって!! 訴えるわよ!」

「やめてください」

 新居で家主の彼がいない時に騒ぎを起こしたくない。もう仕方がない、新居にこの人を入れたくないし彼女も入ればさらに怒り狂うかもしれないけれど、それしかないと覚悟を決めた。

「菜摘、離しなさい!」

 スーツ姿のがっちりとした男性が華奢な彼女を後ろから抱いて、梓から引き離してくれた。

 そして梓の目の前には、春のトレンチコート姿の輝久叔父がさっと抱いて彼女から遠ざけてくれる。

「おじ様……!」

「空港で彼を迎えたら、梓さんに会いたいというので連れてきたんです。ちょうど良かった。圭太朗ではなくあなたに会いに来ていたとは……」

 しかし目の前ではまた彼女と彼がすったもんだ騒ぎ始めている。

「しつこいわね! 私はね、やっと夫を捜し当てたところだったのよ!!」

「菜摘、彼はもう夫ではない。十八年前に離婚しただろう」

「そんな嘘ばかり、もう、うんざりなのよ! わからないのよ!」

「こちらにご迷惑をかけてはいけない。帰ろう、帰ってから、圭太朗君のことを話そう。子供達も待っている」

「嫌よ!」

 そして彼女が、スーツ姿の彼に叫んだ。

「あなたが夫だというなら離婚して! 私は圭太朗と再婚するの!」

 スーツの夫が愕然とした顔をした。

 梓もだった。梓を守ろうとそっと抱いてくれているおじ様はどうしようもなく哀しい目で彼と彼女を見つめているだけ。

 その男の顔はきっと、十八年前の圭太朗の顔に違いない。

 どうして繰り返すの。この女性が悪いの? でも彼女は元に戻っただけ。元に戻らない彼女を圭太朗から奪ったのはそこにいる男。でも彼も本当に悪いの?

 もう梓にはわからない。


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