オレンジ・ロンリネス
市來 茉莉
1.鉄子、スイッチオン
芸術家は気難しいというけれど、梓(あずさ)の上司にあたる先輩がまさにそれ。
クライアントから依頼されたイラストの仕上げにかかると、時間も気にならなくなるらしく、食事もしない水も飲まない、周りがハラハラする。
そんな彼が今回も渾身の作品を仕上げ、本日、クライアントにお披露目をする。
ああ、ここ二日。疲れた。せめて水分補給をと気遣って彼専用のブースに入ろうとすると『邪魔をするな』と怒鳴られる。でも彼の指示がないとアシスタントをしている梓の仕事がなにもない。
上司といえばわかりやすいから上司と知り合いには紹介するが、どちらかというと見習いイラストレーターである梓の指導先輩といったほうがいい。
でも彼はもう、この三好堂デザイン事務所にやってきてから数々の実績を上げていて、いまやこの事務所の稼ぎ頭でエースと言われている。なんでもこの事務所に来てから才能が開花したらしい……。だから、彼の仕事の邪魔をしてはいけないという暗黙のルールみないなものがあった。
このような状態だったため、梓の仕事が数日なにもなかった。マネージャー女史が『好きに作品でも描いて、溜めておきなさい』と言ってくれ、仕事でもないのに途方もなくイラストを描いてすごしていた。
こんな、クラブみたいに好きなイラストを描けるのは楽しいけれど、まったくもって仕事ではない。他の仕事もさせてもらえないということは、戦力でもないということだった。
先輩がまた指示をしてくれるまで、梓はなにもしなくていいデザイナー。いまは、そんな状態……。
「梓さん、そろそろ真田さんがいらっしゃるから準備をお願いね」
滝田琴子マネージャーに言われ、梓も返事をして接客テーブルへ向かう。
そこに彼が仕上げたイラスト原稿をテーブルに並べる。お客様は『真田珈琲 真田輝久社長』。この街でいちばん人気の老舗カフェを持つ。その自社で売り出す製菓の広告にパッケージをよく依頼してくれる。社長が指名するほどのお気に入りデザイナーが本多雅彦、梓の上司。
今回も彼が〆切直前になって、なにかが乗り移ったかのようにして仕上げたばかり。その原稿を真田社長が座る席から手にとってすぐに眺められる位置に置いた。
「本多君、そろそろ真田さんがいらっしゃる時間だから、ちゃんとして」
滝田マネージャーに促され、本多先輩がふらっと薄暗い部屋から出てきた。
「今回もギリギリだったね。相変わらず」
「うるさいな。最後までイメージが固まらなかったんだよ。こう何度も指名されるとワンパターンになりそうだ」
「大丈夫よ。今回も綺麗に仕上がっていたじゃない」
「そうかな」
グレンチェックのタイトスカートに白いブラウス、そしてスカーフという季節に合わせたお洒落な滝田マネージャーが、本多先輩を上手に部屋から連れ出す。もっさりしていた本多先輩も身なりをきちんと整えて出てきた。そんな不機嫌そうな男の『ご機嫌を取る』かのように大事に扱って持ち上げて、上手く扱えるのはこの琴子マネージャーだけ。
あんな子供をあやすように彼を上手に扱うその様子を見ると、さすが琴子さんと感心、そして、お疲れ様ですと頭が下がってしまう。
窓際にある商談用のテーブルへと、琴子マネージャーと本多先輩が辿り着くと、窓の向こうの駐車場に黒いスポーツカーが入ってきた。
「あら……、あの車?」
「ん? セリカT200だな」
琴子マネージャーと本多先輩が一緒に窓の外へと見入る。
「うちの社長のセリカではないわね。三好社長のセリカは白だし、」
「真田社長は白のアルファロメオだろ」
そこで本多先輩が呆れた顔で琴子先輩を見下ろした。
「まさか、また旦那が新しい車を買ったとかさ」
「えー、そんなことないもの! 確かに思い立ったらロケットのように即実行しちゃう旦那さんだけれど、あの人は日産車好きだし、買うなら私にもひと言言ってくれるはずだもの」
「トヨタ車ならレビン86は持っているのにな。セリカも欲しくなったんじゃないのか。だってさ、琴子の誕生日にフェラーリを借りて乗せてくれたんだろ。買ってなくてもあれ、滝田社長だろ」
見慣れない真っ黒なスポーツカーが入ってくるとなったならば、乗ってやってきそうな男は、琴子マネージャーの『車の整備屋』を経営している旦那さんしかいないと、やいやいとふたりが言い合っている。
梓はそんな先輩ふたりを後ろから眺めていていつも思う。すごい牽制し合って仕事の言い合いを激しくするふたりは、どこか戦友のようで同級生のようで、息が合いすぎている。でも男と女の匂い一切なし。どうやってこの関係を築いてきたのかなと不思議だった。
だけれど、梓も興奮!
「黒のセリカ――!」
そばに置いていたスケッチブックを開いて、窓に目を懲らして描き始める。
「おいおい、鉄子のスイッチがはいった」
本多先輩が呆れて、でも笑ってくれる。
琴子マネージャーもくすっと優しく微笑んでくれる。
だが、その黒いスポーツカーから降りてきた人を見て、また本多先輩と琴子マネージャーがハッとした顔になる。
「え、真田社長よ。いつもと車が違う……」
「もうひとり。運転席から降りてきた」
クライアントの真田社長が助手席から降りてきて、運転席から降りてきた男性は誰も知らない人。
真田珈琲の社長の車は、白のアルファロメオ。なのに今日は見知らぬ男性の運転で、その男性の車でデザイン事務所にやってきた。
本多先輩と琴子先輩が急に仕事の顔になる。ふたり一緒に事務所の玄関まで迎えに行く。梓もそのあとをついていく。
ガラスドアが開き、真田社長が現れる。
「いらっしゃいませ、真田様。お待ちしておりました」
琴子マネージャーが恭しく出迎える。普段は接客など我関せずの本多先輩も、真田社長には丁寧にお辞儀をする。
「お久しぶりです。真田社長」
梓も一緒にいらっしゃいませと頭を下げた。
「お邪魔します。出来上がりを楽しみにしてきましたよ」
白髪交じりの短髪頭に縁なしの眼鏡、そして年齢の割にスタイリッシュでお洒落、そしてニヒルな笑み。渋いおじ様である真田社長は老舗の社長とあって、そこにいるだけで重厚感がある。
「申し訳ない。本日は甥も一緒に連れてきました。宇和島に嫁いだ姉のところの息子です」
その社長が、後ろに控えている背が高い男性を『甥です』と紹介した。さきほど、黒いセリカの運転席から降りてきた男性。
真田社長ほどお洒落ではないけれど、シンプルなデニムパンツスタイルで爽やかな男性だった。それでも梓から見れば『三十後半、四十歳ぐらいかな』と感じる中年男性。
「真田の甥、松浦と申します」
彼も楚々とお辞儀をしてくれる。琴子先輩も本多先輩も、真田社長が親戚を連れてきて戸惑っていた。
「私のアルファロメオが故障してね。いまディーラーに出しているんだよ」
琴子先輩がやっと驚いた顔をして、本多先輩も『それで違う車で来られたんですね』と納得した顔になる。
「足がなくて困ってしまいましてね。婿の孝明もカフェを経営しているのでそうそう店から離れられないもので、久しぶりの郊外電車かバスかタクシーで行こうかと思っていたところ、ちょうど甥がうちの珈琲を飲みに来店していたので、連れてきてもらいました」
「まあ、そうでしたか。お車がないのなら、私がお迎えに行きましたのに」
琴子先輩がご苦労さまでしたと労うと、真田社長が笑う。
「そうでした。琴子さんのフェアレディZに乗せてもらえば良かったですね。たまたま甥が仕事が休みでうちの珈琲を飲みに来たものですから」
「叔父様のお店の珈琲がお好きなんですね」
琴子先輩がそう微笑みかけると、真田社長の後ろに控えている甥御さんは照れたように少しだけ笑み、会釈をするだけの静かな男性だった。
「そんな訳でして。帰りも足として連れて帰ってほしいので、本日は甥も一緒です。よろしいでしょうか。商売やデザインなどには無関心な男なのでそばに座っているだけです」
「もちろん、かまいません。さあ、どうぞこちらへ」
琴子マネージャーが事務所内へと案内をする。真田社長も慣れているから、自然とテーブルへと向かってきた。
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