33.正真正銘、船乗りの女
翌朝の五時。観光港にフェリーが着岸する。
春のほの明るい夜明けでも、ブリッジの灯りは煌々としている。だけれどそこに圭太朗の姿は見えなかった。
まだ着岸したばかりで、すぐに人は降りてこない。乗用車を降ろす船のハッチもまだ降りてこない。
桟橋には陸の作業員が忙しく配置について、掛け声や笛の合図で下船の準備に取りかかり始めた。
桟橋にいる梓の隣には菜摘と里見氏が並んで待っている。
乗用車が出入りをするためのハッチが開いた。中から出てきた作業服船員が手合図と笛で大型トラックを上陸へと誘導する姿が見え始める。
フェリーの甲板からは乗客が降りるためのタラップが取り付けられる。甲板には荷物を持って下船待ちの乗客の姿も見えてきた。
「梓さん、あれでは」
大型のトラックを次々と港へとあげていく誘導の笛の音が響く中、甲板ではなく、大きく開けられたハッチ口から制服姿の男とジャンパー姿の男の子が並んで歩いてくるのが見えた。
里見氏と菜摘が声を揃える。
「陸!」
「陸――」
ゆっくりと桟橋へと向かってきた男の子が、バツが悪そうにうつむいている。
その躊躇う背中を、制服姿の圭太朗がそっと優しく押したのも見えた。
両親の前に、男の子が辿り着く。
「ごめんなさい……、でも、俺……」
菜摘が怒るかと梓は思ってはらはらしていたが、菜摘も里見氏もなにも言わず、そろって息子を抱きしめていた。
陸が自分の背へと振り返る。
「船長がずっと一緒にいてくれた。操縦する時も俺も一緒に傍に置いてくれたんだ」
その陸がまた、圭太朗をそっと見上げる。なにか通じたようにして圭太朗が頷いた。
「母さんが再婚だなんて知らなかった。俺たちが生まれる前に好きな人がいて忘れてしまったことも、今回初めて知った。父さんより前に母さんが結婚して好きな男がいたなんて、受け入れられなかったんだ、俺たち……」
三人兄妹でどうしたら母親を取り戻せるか話し合った結果、長男で大学生になったお兄ちゃんが会いに行くことになったらしい。
「母さんがダメなら、その男に絶対に会う。まだ独身で一度も再婚をしていないと聞いて、もしかして母さんが思い出すのを待っていたんじゃないかって、俺も弟も妹も焦っていた。だから、母のことは嫌いになったと突き返して欲しいと頼みに行くことにしていたんだ……」
定食屋で会ったお母さんが『まだ帰れない』という返答をした。だから次の作戦、お母さんの元夫に直訴しに行こう。だから圭太朗の船に乗り込んだ。そして会おうとした。
「船長さんからもいろいろ聞いた。俺、母さんが落ち着くまで待っている。俺がふたりの面倒もちゃんと見ておくから」
圭太朗とどんな話をしたのだろう? 梓はそう思った。でも陸の心はもう穏やかに落ち着いている。弟と妹と一緒に待っているという気持ちに。
「夜の操縦室、ブリッジでずっと船長と一緒だった。暗い海の中でも、どの方向に進むかを知らせるライトを点けた船があっちにもこっちにもいた。松浦船長のフェリーは夜航行だから、いつもこんなかんじだって言いながら、それでもぶつからないよう、船の小さな灯りも見逃さないようにしていた。俺には真っ暗で方向がわからなかった。どうやって進んでいるのかわからなかった。なのに、朝になるとちゃんと……港が見えた」
さらに陸は母親菜摘の目を見つめて言う。
「きっと母さんも、いまそんななのかなって……。急に暗くなってわけがわからなくて方向を見失って、でもわかる情報を頼って、なんとか帰ろうとしているのかな――そう思うことにした」
だからいいよ。慌てないで、ここでじっくり整理して帰ってきて。
陸の言葉に菜摘のまつげが震えているのを梓は見る。
「陸、ありがとう。ほんとうに、ごめんね。どうしようもなかったの」
「十八年も前の自分が入って来ちゃったんだろ。そりゃびっくりするよな」
理解ある息子の言葉に、ついに菜摘が泣き始めた。
「ごめん、陸。お父さんと待っていて。船長さんとお話があるから……」
里見氏が息子の肩を抱いて、圭太朗には「ご迷惑をおかけしました。大事に届けてくださってありがとうございます」とだけ告げると一礼をして去っていく。
梓の目の前で、菜摘が圭太朗に向かった。
制帽をかぶっていない、濃紺ジャケットの制服姿。その圭太朗と菜摘が向きあう。
「ありがとうございました。息子が落ち着くようにお話してくださったようで……」
「別に。お母さんも混乱しているだけだよ。俺はもう大好きな恋人がいるから、お母さんは取らないと言っただけだし……。あとは、一緒に夜の操縦室で内航船の話に夢中になってくれたよ。ひと晩ブリッジにいただけで、あれだけのことを感じてくれるだなんて……、俺のほうが嬉しくなっちゃったよ」
「酷いことを言わなかったかしら」
圭太朗が笑って首を振る。
「お母さんは渡さない――と言われただけ」
菜摘が驚いて、そして頬を染めた。
「いい子じゃないか。いい子に育てたんだなと思った。菜摘の面影があって、ちょっと気の強いところも、思いきりがいいところも、菜摘を思わせた。ああ、菜摘の子だなと何度も感じたよ」
いい子に育った。おまえにそっくりに。元夫から、別れた後の彼女がどう生きていたかを息子を通して知ったという言葉に、また菜摘の目が潤んでいた。それは圭太朗も彼女の生き方を受け入れられたように梓には聞こえた。
「俺も思った。そうだよな。俺も、もしかしたら……、これぐらいの息子がいてもおかしくないんだよなって。もし、菜摘とあの後上手くいっていたら、こんな息子がいたかもしれない。俺の息子ではないけれど、でも、菜摘が育てた子がどんな子か知れて良かった」
最後に、圭太朗も少し憂う眼差しで菜摘に告げた。
「もう、終わりにしよう。俺はこれで良かったと思えた。菜摘も、きっとそうだ」
別れてこそ、俺たちは自分達が望む幸せを手に入れられたのではないだろうか。圭太朗のその言葉に、ついに菜摘が泣きじゃくりはじめた。
「俺も、暗い海を抜けて、朝の港に入るよ」
その視線が梓へと向いた。
俺の港はそこにいる女。そう言ってくれている……。梓も熱くなる目で見つめ返す。
「菜摘も、港……あるだろう」
十八年築いてきた家庭。そこに帰れと仄めかしているその言葉に、また菜摘がうつむいた。
まだ心の中では消しきれないものがあるのだろうか。この港町で独りで暮らすと決意ができたほどのことだったのだから。
「私は……、ほんとうにあなたの帰りを待っていたの。そして帰ってきたあなたを海へ送る日は狂いそうだった。そして行かせたくなかった」
その思いがまだあるようだった。でも彼女も顔を上げて、圭太朗を見上げた。
「彼女は港になれたけれど、私は港になれなかったのね」
そして彼女が辿り着いた港はきっと里見氏だったのだろう。それに気がついたのか菜摘が先に行った夫と息子へと視線を向けた。
「お世話になりました。松浦船長」
それだけ言って、頭を下げると、菜摘はさっと踵を返し夫と息子が待つ車へと行ってしまった。
さっと行ってしまったから、圭太朗も最後に挨拶もさせてもらえなかったとばかりに唖然としていた。
「なんだよ。よくわからないな」
制服姿の圭太朗がこれで終わったのか、まだ彼女の中では終わっていないのか判らないと首を傾げている。
「いいんじゃない。菜摘さんが気が済むまでこの街にいてもらっても。いつまでも帰ってこなくても、お迎えがちゃんとあるみたいだしね」
里見氏が乗ってきたレンタカーに親子三人が乗り込んで発進するのが見えた。
そうして梓も落ち着いた気持ちで車を見送っていたら、上からじっと見つめている圭太朗の視線に気がついた。
「え、なに。あ、お帰りなさい……はまだ早いけれど、お疲れ様でした」
まだ不思議そうにじっと見つめられている。
「え、なに? 私、どうかした?」
「いや、頼もしい彼女だなあと思って……」
梓も振り返る。大人のパパ兄さんみたいな恋人はすっごく優しく大事に甘く愛してくれるけれど、そのぶん一緒にいられる時間は短くて、留守の間もいろいろある。その間はひとり。陸にいる親しい人がいても自分ひとりで考えなくてはならないこともいっぱい。そして周りの人達の言葉。『船乗りの女も甘くないで』、『船乗りの女やけん。そりゃ肝座っとるがね』。そうなっていくんだと思った。そして梓は船長さんと出会って、そうなっていた。これからも、きっと。
「だって。船乗りの女だもん」
自信を持って言ってみた。これからも彼を待つ女でいたいから。
気がつくと、後ろから圭太朗が抱きついていた。梓の目の前には、紺色ジャケットの袖口、四本の金色ライン。後ろから回ってきた長い腕が、梓の身体をぐっと抱き寄せてくる。
「俺はいま、港に辿り着いた気分だよ」
暗い海を抜けて、頼りない灯りと遠い灯台の光をもとにして、なんとか朝、その港に戻ってくる。俺はそうするよ。別れた妻に、わだかまりがあった女性と、彼が本当の意味で決別をした瞬間だと、梓も涙が出てきた。
「おかえりなさい、圭太朗さん」
ほんとうは梓だって心許ない。甘えたい腕が帰ってきたらこうして泣いてしまう。でも帰ってきたらいっぱい甘えさせてくれる。
「梓、本当の船乗りの女になってくれないか」
耳元で囁かれた。でも梓はちょっと後ろに振り返って首を傾げる。
「もう船乗りの女のつもり……なんだけれど?」
「正真正銘の、一生、船乗りの女になって欲しいと言っているんだよ」
暫くして。意味がわかって、梓は彼の腕の中で『え!!』と飛び上がった。
それって、それって。また船乗りは突然言い出す!!
『おらあ! 船長よー、いつまで彼女といちゃついているんだよ!!』
甲板からまたあのしゃがれた声が聞こえてきて、ふたり一緒にビクリと固まった。
「うわ、こんな時になんなんだよ。機関長は……」
「怒られちゃう、行って、行って。だってまだ業務中なんだから」
彼の背中をぐいぐいとフェリーへ帰るように向けた。梓がそうして慌てて彼を返そうとしたのは訳がある。
甲板にいたのは機関長だけじゃなかった。彼の同僚の若い船員たちも並んでいて『船長の噂の恋人!?』、『どれどれ、見えねーよ』、『船長~、俺たちにも紹介してくださいー』なんて、いつも以上に賑やかな声が聞こえてきたからだった。
それに気がついた圭太朗も、大事な話だったことを忘れて頬を染めながら『行ってくる』と駆けていってしまった。
『あんたは船乗りの立派な女やわー!』
機関長のそんな声が聞こえてきて、梓も頬が熱くなる。
やがて船の男たちは真顔で散っていく。梓がいる桟橋も静かになる。
「え、待って。一生……て、け、結婚ってこと!?」
今になって心の中、頭の中が大騒ぎになってしまった。
でも――と、梓は圭太朗が乗船するフェリーを見上げる。
ここに来た時。なにもなくて、なにも自信がなかった自分を思い出す。
いまは頑張りたいことがいっぱいある。
仕事も、恋も、船乗りの女も。頑張ったらきっと自信になる。
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