32.手伝いたいの!


 船乗りの海上勤務は長い。まだまだ彼が帰ってくるまで日まで遠い。

 それでも彼が新しく住むようにしてくれたマンションは快適で、彼のベッドで寝起きをしていると彼の匂いが残っているので安心する。

 港の定食屋でおいしいアジフライをご馳走になって、彼女と息子がどうなったのか気になりながらも、所詮他人……、どんなに気になっても梓が首を突っ込むことはできない。定食屋の親父さんとおかみさんが大丈夫だよ、またおいで。と見送ってくれたから、梓は梓の日常を過ごしていこうと帰宅。ぐっすりと眠りについた。

 でも翌朝、何故かいつもより早く目が覚めてしまう。

 唸りながら寝返りを打つと、そばに置いていた携帯電話の画面が光っていて、着信音が鳴っている。

 おもむろに手に取ると、表示は【 圭太朗 】だった。

 海上から電話をしてくるのが珍しかったので、梓は思わず起きあがって慌てて出た。

『梓、朝早くごめん。眠っていただろう』

「うん。でも、びっくり。なにかあったの」

 彼の机にある置き時計を見ると朝の六時前。小倉の港に到着したばかりの時間帯だった。

『菜摘や叔父さんからなにか連絡はなかったか』

「ないけれど……」

 菜摘の息子が会いに来ていたことをいま伝えるべきか迷った。いま切羽詰まっている圭太朗の声に余計なことは後に報告したらいいだろうかと考えあぐねていたら。

『乗船客の中に、里見陸という高校生か大学生くらいの男の子が乗船していたんだ。乗客フロアを担当しているフロアチーフがついさっき、その男の子が船長の俺に会いたいと言って下船しないと報告してきたんだよ。里見……て、まさか……』

 梓もびっくりして、すっかり目が覚めてしまう。

「ほんとうに、陸君という名前なの? 昨日、菜摘さんがいる定食屋さんまで息子さんが会いに来ていたのを見てしまったの。彼女、追いかけていったんだけれど。その後、私も知らなくて……。菜摘さん、その子のこと『陸』て呼んでいたよ」

 圭太朗の驚く息づかいが受話器を通して聞こえてきた。

『叔父さんから連絡は……』

「ないよ」

『俺から連絡しても、叔父さん、電話にでないんだ。だから心配になって』

「わかった。私から連絡してみる。その男の子……」

『大丈夫。未成年だから、こっちで保護しておくよ』

「うん。おじ様にすぐに連絡してみるね」

『頼む』

 俺からも叔父に連絡してみる――と、彼の電話が切れた。

 今度は梓から、輝久叔父へと連絡をしてみる。圭太朗は叔父が出ないと言っていたが、梓がかけた電話にはすぐに出た。

「おじ様! 圭太朗さんから連絡があって、」

『梓さん、ちょうど良かった。そろそろ連絡しようかと思っていたんだ。菜摘さんの息子さんがいなくなったと連絡があってひと晩あちこち探していたんだ』

 すでにこちらでも混乱状態だと知る。

『私に菜摘さんから連絡が入ったのは夜中だったんだよ。梓さんは今日も仕事だからと思って。朝になっても見つからなかったら連絡をしようといま準備をしていたところだったのに、すごいタイミングでかかってきて驚いているところだよ』

 おじ様の声も憔悴しきっていた。だから梓はさまざまな驚きは横に置いて、いちばん言わねばならないことを告げる。

「圭太朗さんから先ほど連絡があって。昨夜、松山から出航したフェリーに里見陸君という男の子が乗っていたそうです。圭太朗さんも小倉港に到着してから知ったようで、先ほど慌てて連絡してきてくれました」

 圭太朗から聞いたままのことを輝久叔父にも伝えると、こちらも非常に驚いた息づかいが伝わってくる。

『わかった。菜摘さんにすぐ連絡する。梓さんは安心して仕事に行きなさい』

 うんとは言えなかった。でも叔父との電話が切れてしまう。

 こんなの気になってしかたがない。ましてや昨夜、その男の子が母親に『帰ってくんな』と言い捨てて飛び出していく姿を見てしまっているから。

 しかもあの後、どのようにしてお母さんと別れたかわからないが、少なくとも21時に出航する圭太朗のフェリーに乗船していたことになる。

 いきなりお母さんが、子供達も知らない時期の記憶を取り戻して、現在の環境に馴染まなくなった。しかも自分達が生まれる前、父親と結婚する前の男を追いかけて家を出て行った。父親と話し合いをしても、母親は納得せずに戻ってこない。どうしても帰ってきてほしかっただろうから、東京から遠い四国までひとりでやってきた陸君。子供の自分と話せば帰ってきてくれると信じていたのに、菜摘さんは『帰らない』と言ったのだろうか? だから『もう帰ってくんな』。飛び出して、彼が向かった先は港。大きなフェリーが九州へと出航する前。そこに母親の心を引き留めている男が乗船している、勤務している。母の前の夫は船乗り。その男に会ってやる。そんな彼の執念が透けて見える。

 それでも仕事の邪魔をしないで、出航後もじっとひと晩、一人きりで夜の海を往く船の中で過ごして……。どのような思いだったのだろう。

 梓から圭太朗へと連絡をしてみる。彼もすぐに出てくれる。

『梓! 叔父さんと連絡がついたか? まだ俺のほうは繋がらないんだ』

「おじ様もあちこちに連絡して大変なんだと思う。やっぱり、菜摘さんのほうも一晩中探していたみたい。おじ様も夜中に連絡を受けて一緒に探していたって……。私、昨日……、商店街のイタリアンに行こうと思って……定食屋さんの前を通った時に偶然、息子さんがお店を飛び出して菜摘さんが追いかけていくところを見ちゃったの。その後、定食屋のご夫妻が私にご馳走してくれていろいろ菜摘さんのこと聞かせてくれて……。でも、私、他人だからって……、知らぬふりするべきと思って……」

 急に涙が出てきた。

「菜摘さんもおじ様も一生懸命探していたのに、やっぱり私は他人だから……、すっかりひとりだけ眠っていた……。ひとりだけ……!」

 あの時、おじ様に息子が会いに来ていたことだけでも知らせれば良かった。後悔の念が襲ってきた。

 それを圭太朗が黙って聞いてくれている。梓がひとしきり心の中に湧き出たものを吐き出したところで、いつもの落ち着いた彼の声が聞こえてくる。

『そう。梓は他人だ。俺たちの問題とは関係ない。だから、いいんだよ。それで』

「でも! 私は圭太朗さんと一緒に暮らしている。関係なくないよ!」

『迷惑をかけて、心配をさせて、梓の平穏をかき乱しているのは俺たちなんだ。逆に俺が謝りたい』

「そういうことじゃないよ。力になりたいんだってば……。わかってる。私は……、やっぱりまだ何もできない女の子なんだって……、子育てを全うしてきた菜摘さんとも、市民に認められている老舗珈琲屋社長のおじ様とも、大型フェリーの船長さんの圭太朗さんみたいに、築き上げてきたものなんてない。大変な思いをしたこともない。なんの経験もない子供みたいな……もんだもの」

 ただ、あなたの側にいて幸せな空気に浸るだけ浸って、遠くから眺めていることしかできないと思っていたが、違うのだと梓は気がつく。

『いや、梓は仕事をいま自分のものにしようとしている大事な時期だ。それは俺も叔父も、そして子供を三人育ててきた菜摘も、梓ぐらいの時には何もなくて、何かを自分のものにしようともがいていた時期だと思う。だから、仕事に行っておいで』

「いますぐ小倉に行きたい! 手伝いたい!」

『梓……。ありがとう。そう言ってくれるだけで、俺は……本当に嬉しいよ。海の上にいる時、俺も同じ事を思っている。梓をひとり置いてきてしまった。心配しないでほしい、安心して欲しい、俺がそばにいてあげる――と、いますぐ抱きしめてあげたいと何度思ったか』

 泣きそうな彼の声を聞いて、梓も我に返る。圭太朗も同じ思いを海の上でしていると気がついて……。

『だから。梓、大丈夫だから』

 でも梓はベッドから降りて、明るくなる窓辺に毅然と向かう。

「私、菜摘さんのところに行ってくる」

『え? 梓……?』

「陸君に伝えて。お母さんは私が会ってくるから大丈夫だよって」

 え、ちょっと待て。その声を最後に梓は電話を切ってしまう。

 急いで出掛ける支度をした。仕事に行くのではない。商店街に向かう。

 始発の電車が朝日の中をガタンゴトンと線路を走っていくそばを、梓も走って定食屋へと向かう。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 朝の暗い商店街、シャッターが閉まっているお店が並ぶ中、定食屋は暖簾をしまっていたが、案の定、店内の灯りがついていた。

「おはようございます!」

 梓は構わず、ガラス戸を叩いた。

 すぐに人影が見え、戸を開けてくれる。おかみさんだった。

「梓ちゃん! あんたも聞いたかね!」

 やっぱり。こちらも雇っている彼女の事情を把握してくれていた。

 店内には疲れ切って煙草を吸っている親父さんと、菜摘もいる!

「菜摘さん! 真田のおじ様から連絡きましたか」

 彼女も疲れ切った目元でテーブル席でぐったりしていた。彼女の片手にはスマートフォン。

「来たわ……。圭太朗の船に乗っていたんですって……ね。東京の夫にもいま連絡したところ」

「見つかってよかったやんか。ほんま、よかったって……。いま俺らもここに帰ってきたところやったんよ。あずちゃんのところにも連絡いったんか」

「船に乗っている彼から、叔父と連絡がつかないと私のところにかかってきました」

 おかみさんがカウンター席にお茶を入れた湯飲みを置いてくれ、梓にも座るよう促してくれる。

 梓が座ると、きっと一緒に一晩中探していただろう親父さんがぽつりと呟いた。

「お母ちゃんの、前の旦那が気になったんやな。母ちゃん取るなと言いに行きたかったんかな」

 皆、同じ事を思っているのか、女たちは黙ってしまう。

 おかみさんもふと呟く。

「取るわけないのにね。それか……、お母ちゃんの心を占めた男の顔を見たかったんやないの。あの子なりにお母さんを取り返しにいくためのやり方だったんかもしれんよ」

「事故にも遭うてないし、事件にも巻き込まれておらんかっただけで、よかったやんか。しかしな、行動力あんな、息子。ばっと家を飛び出してきてなっちゃんに案外、似とるんやない」

 親父さんがこんな時だからこそ? 急に笑った。だが、おかみさんがしかめっ面で睨んでいたので、すぐにその声がすぼんだ。

 菜摘は疲れ切って、でも安心したのかじっとしているだけ。いや、なにかじっと考えているように梓には見えた。

 まだ梓も迷っている。でも、彼女に会いに来たのには目的があって来た。それが良いのか悪いことなのかわからない。でも思い切って、茫然としている菜摘の前へと梓は向かう。

 親父さんとおかみさんがはっとした顔を揃えつつも、梓を見守って黙って行かせてくれた空気も伝わってきた。

 菜摘の目の前に来た梓は、スマートフォンを取りだし、彼女の目の前で圭太朗に連絡した。

「圭太朗さん?」

 梓が彼を呼ぶ声に、項垂れていた菜摘の頭があがった。

「いま、菜摘さんのところにいるの。お願い。そこに陸君がいるなら出してあげて……」

 戸惑っていた圭太朗の声が聞こえたが、彼も『わかった』と言ってくれる。

「小倉港にいるフェリーの中です。圭太朗さんのそばにいます。お母さん……、出てあげてください」

 彼女にスマートフォンを差し出した。戸惑いはなかった。彼女はすぐにそれを手に取り声を出した。

「陸、陸! そこにいるの、陸!!」

 一晩中かけずり回って、一睡もせずに案じていた母親の顔と声だった。

 陸君の声が聞こえたのだろう。菜摘が泣き崩れながらも、どれだけ心配したか、さらに皆さんに迷惑をかけたかと、母親らしい説教を言い放っていた。

「お父さんも今日、すぐ来てくれてるって。お願い、陸。帰ってきて、私たちのところに」

 『私たち』と言った。お父さんとお母さんのところにという意味だった。

「そこにいる『松浦船長』と代わって」

 菜摘の言うことを聞いたのかどうか。陸君が圭太朗に電話を返して、彼がどうするのか梓はドキドキしていた。

「圭太朗……、いえ……、船長さん。本当にお仕事中に申し訳ありませんでした」

 圭太朗も電話に出たようだった。でも菜摘は梓の手前なのか、母親としてなのか、いままでのように圭太朗を『自分の夫』とするような接し方をしなかった。

「はい。お願い致します。父親もすぐに迎えに来ます。お仕事の邪魔になるようなことは決してするなと母親の私が言っていたときつく伝えてください。はい……、ええ、わかりました」

 菜摘の手から、梓へと電話が戻ってきた。梓もそっと受け取り、耳に当てる。

『梓か』

「うん」

『遠い港からのお手伝い、届いたよ』

 いつもの優しい彼の声に、梓も泣きそうになってしまう。

 ずっと気持ちを乱していた陸も、母親の声を聞いて落ち着いたと教えてくれた。

『お母さんには内緒だけれど、少年はいま泣いている。もう大丈夫だと思う。菜摘には明日の朝の松山入港の時に港に迎えにくるように言ってあるから。あとは俺が船長としてきちんと連れて帰るよ』

 泣いていることは内緒な。お年頃の少年だからな――と念を押され、梓もそっと頷いた。

 電話を切ると、菜摘がそっと立ち上がった。

「息子の声を聞いて安心いたしました。梓さん……、来てくださって、ありがとうございました」

「いいえ……。私、なにもできない女の子みたいなものなんです……」

 彼女が『え?』と首を傾げた。

「ほんとに、私まだなんの経験も積んでいない子供みたいなものなんです。大人の圭太朗さんといると余計にそう思っちゃって……」

「でもお仕事をしているのでしょう。真田珈琲でいま売っている紅茶のパッケージのデザイナーさんだと叔父様から聞いていたのよ」

「仕事をしていると言っても駆け出しなんです。アシスタントばかりでふてくれされていた時期もあったんです。ようやっと仕事をもらえるようになりました」

「私は、そんな貴女を敬愛している圭太朗を見て、とても羨ましかったんだけれど……。若くて、ほんわりとかわいい顔をしていて、とっても癒されて愛しているのが伝わってきた。圭太朗の本気を目の当たりにしたのよ」

「私は、良き妻で良き母親で十八年……、お子様を三人育てて、ご主人を支えて、お母様を立派にされてきた菜摘さんのほうが、素晴らしい大人に見えます。近所の皆様にはとても信頼されている奥様だってお聞きしています。やっぱり……、圭太朗さんが結婚したほどの女性だもの。素敵な人、大人の女性だって……、私とは全然違うと羨ましかったです」

 菜摘が驚いた顔をした。

「ここで菜摘さんが働いていると知った圭太朗さんが、あまり働いたこともないのにちゃんとできているのかと心配していました。でも、私はここで食事をした時に、菜摘さんがテキパキとお勤めしている姿を見ています。きっとお母様としてのお仕事もそつなくされて、なんでも器用にできる方きたんだと思いました。そういうのが、まだ若い私には大人に見えるんです」

「そうね……、必死だったと思う……。でも……」

 でも。そこで菜摘の言葉が詰まった。

 でも? その後の言葉は聞けなかった。

「朝飯にすっかな。母ちゃん。んで、寝よう、寝よう」

「ほうやね。あずちゃんも食べていきなさいよ。晩も朝もうちのごはんになっちゃうけどさ」

 でも梓は笑う。

「嬉しいです。では、それを頂いて、ちょっと遅刻してから仕事に行きます」

「私、手伝います」

 菜摘もおかみさんのお手伝いへと厨房へと向かっていった。

 煙草のおかわりをする親父さんが煙を吐きながら言った。

「女もいろいろやな。ええ言い合いやったわ。あずちゃん、頑張ったな」

 あれ、言い合いになるの? 女の心の奥にあった澱を吐き出したみたいで、ちょっと恥ずかしくなって梓は頬を熱くした。

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