31.港町
緑の匂い、葉のさざめく音。そろそろ瀬戸内は初夏の気配。
圭太朗がまた二十日間の海上勤務の間にも、梓は石鎚の小さな酒造会社との打ち合わせや、イラスト制作に追われた。
春の夕は長いはずなのに、いつのまにか淡くなる空の片隅に金星が輝き始める。
「永野、そのへんにしておけよ。もう帰ってもいいから」
「いえ、もう少し……」
すぐ隣のブースにいる本多先輩もパソコンモニターに向かって〆切間際のオーダーの仕上げにに追われていた。
「暗くなるぞ」
「どうしたのですか。本多さんのアシストをしている時は、そうして夜遅くまで根を詰めている時だって、私は一緒にお手伝いしていたじゃないですか」
「あれはな。……俺が帰っていいぞというのを忘れていただけ」
思わず顔をしかめてしまう。やっぱり……、帰ってもいいのにすっかり言い忘れて無駄に遅くまで付き合わされていたんだと改めて知ってしまう。
だけれど本多先輩がペンタブレットを動かしながらも、溜め息混じりに言った。
「めんどくせーから正直に言うな。俺な、けっこう切羽詰まってる。隣におまえがいると気が散るんだよ。今夜はひとりで仕事したいんだよ。おまえまだ〆切に余裕あるんだろ」
ああ、そういうこと――と梓もやっと理解した。彼らしい感覚だった。でも、不思議だなと思う。
「いままで私がそばにいてもなんとも感じていなかったのに、どうしてですか。もう帰りますけれど!」
私もやっと集中してきたのに。でも彼の仕事が切羽詰まっているのも本当のこと。事務所エースのデザイナーの邪魔はしたくはない。でも納得できない。
「それはおまえが気にならない『ただのアシスタント』だったからだよ。いまは真隣にいて気になるんだよ。おまえの描いてやるていう空気がむんむん飛んでくるんだよ」
「ただのアシスタントだったんですか、私!」
気難しい先輩でも力になれるように努力してきたつもりなのに、居ても居なくても存在感なしのアシスタントだったから放っておいたと言われたと思い、梓は思わず言い返してしまった。
「でもな! おまえ、自分でそういう存在感をもてるようになったんだよ! 邪魔なんだよ、帰れ!」
うわー。本気で邪魔者扱いしてきた! もう梓も限界。でも彼の言いたいことがわかるので、憤りながらも帰る支度を始める。
デスクの上を片付け、ブースにセッティングされている機器のすべての電源を落として帰り支度をしていた。最後にパソコンの電源を落としてモニターが暗くなったその時。また隣から先輩の声が。
「イラストレーターが隣にひとり来た。そう感じているんだよ。おまえ、俺が気にしないアシスタントから、おなじレーターでおなじ空気を持って仕事しているとたまらないから帰れと言わせたんだぞ」
だから、さっさと帰ってくれ。
最後は少し申し訳なさそうな静かな言い方だった。そんな本多先輩の声で、梓の熱もさっとも冷えてきた。
ほんとうにこの人らしい。邪険にしているけれど、認めてくれている。ただのアシスタントというぞんざいな扱いのようで、ここぞという時に力を引き出してくれた。
「お疲れ様でした」
「おう」
デザインブースには彼だけになった。いつもの根を詰めるラストスパートの姿、背中だった。
古港の駅に着いた時にはもう空は暗くなっていた。でも見上げる空はまだほのかに薄い空の色を残していてる。まだ日が沈んで間もない。
駅を降りてそこの道路を渡ったら商店街。以前だったらちょっと気が向いたらふらりと立ち寄れていたのに。いまは気構える。
「あそこのイタリアンにも行きたいのに……」
シャッター街になりかけていた商店街だったが、近頃は若いオーナーが開業するために集まるらしく、小さなイタリアンレストランもあってそこにも時々足を運んでいたのに……。
行っちゃう? 素通りすればいいんだもの。定食屋さんの前は。
「よし、行っちゃおう。本多先輩にあんなに言われて、むかついたような、嬉しかったような。もう行っちゃう」
今日はぱっとしちゃおう。パパのような恋人がいないのを良いことに、梓は横断歩道を渡って久しぶりの商店街へ。
そうして商店街を歩いている間も、パパみたいな彼氏、圭太朗の声が聞こえてしまう。
いいか、梓。コンビニとかファーストフードとか外食ばかりの食事は控えろよ。冷凍してあるもの活用しろよ。
「ごめんなさい、今日はぱっとしちゃいます。ティラミス頼んじゃう」
てくてく歩いているうちに、定食屋に差し掛かる。
そこは離れて、顔を背けて、見ないようにさっと通り過ぎようとしたが、梓は立ち止まる。
店のガラス戸に【本日は遅れて開店予定。申し訳ありません】という貼り紙がしてある。
あれ。今日は定休日ではないはず。でも閉まってもいない。店の灯りはついている。遅れて開店? もういつもの開店時間より二時間も経っているのに?
なのに、暖簾の向こう、古いガラス引き戸ががらっと開いたからどっきりして顔を伏せる。
「陸、待って!」
「うるさい! もう帰ってくんな!!」
すらっとした若い男の子がリュックを肩にかけた姿でさっと走り去っていく。
「陸!」
梓はギョッとする。男の子を呼び止め飛び出してきたのは、エプロン姿の菜摘だった。彼女と目が合ってしまう。彼女も驚いた顔をして立ち止まってしまう。
「かまんけん、行ってこいや。なっちゃん!」
いつも厨房にいる親父さんも出てきた。その声に我に返った菜摘が駅がある方向へと男の子を追いかけていく。
今度は親父さんと梓の目が合ってしまう。
「ああ、最近、来んなと思うてたんや」
親父さんは梓のことを覚えてくれていた。だがもっと違うことを親父さんが言う。
「あんた、なっちゃんの別れた旦那といま暮らしているんだってな」
そんなことまで知っている。つまり菜摘の事情を良く把握していると梓は知る。
「なっちゃん、気にしとったで。せっかくの常連さん、私がここで働き始めたせいで失うことになってしもうたてな。ちょい、こっち来てみい」
手招きをされたが、梓は硬直していた。
「あの、いま……出てきた男の子、まさか……」
「ああ、なっちゃんの息子だってよ。今年、大学生になったばかりの長男。そら、会いにくるわ。お母ちゃんが帰ってこんのやけん」
いいから、こっち来いや――と手招きされてしまう。このまま結構ですと帰ることもできた。
でも梓は……、定食屋へと一歩踏み出していた。
店の中はきちんと食べ物の匂いが漂っていた。いつもと違うのは、いつだって満席のお客がいないこと。
それでもひとつのテーブルにアジフライ定食が置かれていて、食べかけだった。
「開店前に急に訪ねてきたんよ。遠くからひとりで来たみたいやったけん、下ごしらえ中やったもん食わせてやった。話が長引きそうだったから、本日は開店遅らせてる。ま、今から開店するわ。あんたも食べていき。おごるけん」
親父さんが厨房に控えている様子の奥さんをちらりと見た。おかみさんが頷いて厨房で動き出す。
「この子、食べ終わったら開店しよか」
「わかったよ。父ちゃん」
息の合った会話だったが、梓は慌てる。
「ま、待ってください。そんなお食事をいただく理由がありません。私は今日はそこのお店に行こうかと……」
「あんた、なんで来なくなったん。前は月中、月末になるとよう来てくれてたやんか」
「それは……、栄養が整っていて、夜遅く開いていたから……、残業後に……」
「前妻のなっちゃんがいたから来れなくなったんやろ。アジフライ食べていきよ」
困ったな。でも、菜摘がどうなったか気にもなった。圭太朗はもう関係ないと言っていたけれど。
迷っている内に、素早いおかみさんが梓が突っ立っているそばのテーブルの上にほいとお膳を置いてしまった。
「あんたも気になるんやろ。ほれ、肝据えて座りぃ」
親父さんがくわえ煙草でお膳を置いたテーブルをこつこつ叩いた。
「それでは遠慮なく、いただきます」
梓が座ると、その向こうのテーブルに残っていたお膳をおかみさんが下げた。
久しぶりの親父さんの魚フライだった。
「仕事をしていると自分でお魚料理はなかなか。だからここで揚げたてのフライを食べるの楽しみだったんです。〆切に追われる仕事で、夜遅くなることも良くあって」
「ここら港で忙しく働いて腹空かしている男共のために開店したんやけれどな。あんたみたいな若い女の子が最近ちょくちょく増えてきて嬉しかったんよ。なあ、母ちゃん」
「ほやね。最近の女の子は働く子ばっかやけん。ほやけど、昔も今もかわらんよ。働く若い子やおっちゃんたちの、お父ちゃんお母ちゃんの料理を食わせていきたいだけなんよ」
「だからよ。あんた、顔を見せなくなってどうしたんかと思って母ちゃんと話していたらな。なっちゃんが……、自分のせいだって。まあ、こういう港町やけん。訳ありのもんがよく流れつくんよ。そやから、訳ありの女が面接にきてもなんもおもわんかった」
親父さんたちから、梓がなにも聞かなくてもどんどん話してくれる。だがどれもこれも梓が知りたかった話。わかっていて勝手に話してくれている気になってくる。
「まあ、でも一目で『ええとこの奥さん』やてわかったよね、父ちゃん」
「そやな。品があってな、調理の手伝いはできるし、それなりの接客も会計もできるけれど、働いてきた女やないのはすぐわかるわな。どっかの奥さんやったのに、訳あって家族と離れて独り暮らしてな」
おいしい。さくっとしたアジフライを頬張りながら、梓も聞いてしまう。
「私が来ないことで、菜摘さんから話してしまわれたのですか」
「記憶をなくしたままいまの夫と結婚して、つい最近、転んだ拍子に思い出し、いつのまにか前の夫と離婚していた。訳がわからない状態だから家を出ていると教えてくれたよ。そんな経歴持ってきた女は初めてだけれどよ。まあ、俺たちもだいだいどんな訳ありでもそっとしとく主義。ただ、あんたが来なくなった訳だけ教えてくれたわ。その前の夫の今の恋人だって。別れた妻の自分がいるから来られなくなったんだって。お客様を失うことになって申し訳ないと頭を下げてくれた。きちんとしている奥様やってそれはようわかっていたんでな」
カウンター席に座った親父さんが煙草に火をつけた。厨房にいるおかみさんは少し渋い顔。
「でも。子供がおったらあかんわ、父ちゃん。どんな理由も子供を産んで十八年育てた以上、放るのはあかんわ」
煙草を吸った親父さんがふっと煙を吹いた。
「それ知った母ちゃん、そんとき激怒したんやわ。そら、いかん――て。忘れいてたことは言い訳にはならんて。自分から夫を突き放して離婚した事実も、いまの旦那と結婚して子供三人もうけて育てた事実もかわらない。拒否をするのは無責任だと怒った怒った」
「そう……、だったんですか……?」
いつぐらいのことかと尋ねると、里見氏と彼女と圭太朗の三人が会う約束をした少し前だった。
その時はもう、菜摘は第三者にどのように見られるか、その叱咤を受けていた。
「それでもなっちゃん言ったんよ」
激怒したというおかみさんだったが、やるせなさそうな溜め息をついて哀しそうな顔に変わった。
「理屈ではわかっている。何度も自分に言い聞かせた。でも、頭の中に、記憶を失う前の彼との夫婦生活の毎日しか流れ込んでこない。急に雪崩のように押し込んできて、現在の自分の家庭のことを思い出そうとしても、頭が熱くなってぐちゃぐちゃになる。イライラして誰かを傷つけたくなる。夫と子供を決定的に傷つけてしまう前に、すぐには会えないようなところで冷静になったほうがいい。だから今は――。そう言ってたよ。旦那さんもこの前、挨拶に来てくれてん。よう理解しとったけん。私も父ちゃんも、いつもどおり知らん顔することに決めたんよ。ここしばらくは、なっちゃんも落ち着いて仕事してたんやけど。そら……子供、会いにくるわな……」
菜摘がひとりで苦悩している姿を梓は知ってしまう。
アジフライを囓って、おかみさんのお漬物と、ほうれん草の白和えをほうばって。何故か、梓は腑に落ちたような、落ち着いた気持ちになっていた。
ずうっと胸の中にもやもやと残っていた『釈然』としないもの。そう、圭太朗だけが終わった気持ちに落ち着いてしまったことだった。
ほんとうにそれで終わり? やっとわかった。夫も妻もおなじように終わらないと、終わりじゃない。梓はそう思っていたのだって。
「なっちゃん、帰ってこんね。ちゃんと息子捕まえられたんやね」
「あれだけ必死に追いかけて、必死に捕まえる気持ちがあるんなら大丈夫やわ。息子もこーんな遠い港町まで会いにきたんじゃけん。大丈夫や」
梓もそう思えた。お母さんはいきなり十八年前に行ってしまった。いま、ゆっくりゆっくり帰ってきているんだよ。圭太朗がそうだったように。だって、あんな必死な顔で追いかけていった菜摘の顔は母親だった。忘れてなんかいない。記憶をなくしてしまった人間の苦悩は、誰にもわからない。その苦悩をひとりで噛みしめて、でも突然襲ってきた十八年前の自分に塗りつぶされそうになっていた『十八年の家庭の記憶』をなんとかひっつかまえて、ゆっくりゆっくり辿って帰ってくるはず。
そう思えた。
「あんた。なっちゃんのこと、怖がっているかと思ってたんやけど。ちゃうな」
親父さんが煙草を吸いながらふと笑ってくれる。おかみさんも。
「船乗りの女やけん。そりゃ肝座っとるがね」
「いいえ……。ほんとうは船乗りの彼をこれから待つ生活がどのようなものかわかっていません。私も……、菜摘さんのように待つだけでは辛くなるのかも……」
親父さんとおかみさんが顔を見合わせた。
「ほなら。そん時はうちに来いや」
「ほうよ。かっこいい船乗りの彼の代わりにはなれんけれどね。美味しいごはん準備してまっとるけん」
ここは港町。船乗りもいっぱいいる町。待つ家族をよく知っている顔に梓には見えた。
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