9.オレンジ・バスソルト
本気を出せ!
師匠の喝を胸に、梓は街へ港へ空港へ公園へとスケッチ三昧の日を送り始める。
事務所で座りっぱなしで仕事をしている時とは異なり、毎日毎日、乗り物で移動をし足で歩く。手や指先が鉛筆やコンテの粉で汚れていく。
疲れ切って伊予鉄道の帰り道、こっくり眠ってしまい事務所近くの駅を乗り越してしまったこともあった。
その日も本多先輩に持って帰って来たイラストを見てもらい、いいところ悪いところ忌憚無き批評をもらいつつ、真田珈琲さんに見てもらう候補のイラストが増えていく。
港にも何度か通ったけれど、船長さんには会えなかった。いつもそこにフェリーがあるのに。
船長さんも交代でシフトが異なっていて会えないのかもしれない。
スケッチを始めて二週間ほど経った。
毎日、毎日移動に次ぐ移動で、もうくたくた。
事務所の仕事を終え、近所の小さなアパートに部屋を借りている梓は帰宅をする。
「だめだ、もう……疲れた」
疲れすぎて、食欲もない。そのままベッドに倒れ込んだ。
郊外のアパートは静か。秋は日も短くなりもう外も暗い。梓はそのまま眠ってしまう。
でも充実している。こんなに絵が描けて、描いた絵を指導してくれるプロの先輩がいて、やっと仕事ができている気がしている。
「明日はどこから行こう――」
眠りに落ちるその瞬間、やっぱり港が浮かんだ気がした。
目覚めると、外が薄明るくなっている夜明けだと気がついた。
昨夜、帰ってきてそのまま眠ってしまった! 梓は慌てて起きあがる。
「いやー、お風呂なしの出勤なんて絶対に嫌ーー!」
シャワーを浴びたいけれど、身体が疲れているから絶対に湯船に浸かろうと昨日帰宅する時には考えていたのに!
「おなかも空いてる……」
料理をしたくない日のために、冷蔵庫に簡単に食べられるものを常備していたため、それを食べることにする。
食べている間に湯船に湯をはる。
簡単に食事を済ませ、湯船も満タン。入る前にと、梓はお気に入りの入浴剤を手に取る。
「これこれ。これの香りに包まれて温まりたかったんだから」
帰ったらまずこれをしようと思っていたのに、眠ってしまった。
バスソルトの入浴剤。香りはオレンジとリモーネ。柑橘系。ソルトを湯に混ぜると、バスルームが華やかな香りに包まれる。
さっそくその湯船に肩まで浸かり、梓は香りも堪能する。
「はあ、気持ちいいーー。この香り大好きーー」
足も腕もぐっと伸ばして、リラックス。
「よし、今日も海に行こう」
ちょっと寄りたいカフェもあって、今日はまず港、そこから街に寄って事務所に帰るコースを思い描いた。
朝風呂の香りが残っていた。そのオレンジの香りに包まれているせいか、それだけで梓は元気に出掛けられる。
オレンジの匂いが漂う中、オレンジの鉄道に乗って、ひとつ目の港駅を過ぎ、ふたつ目の港が終着駅。みっつめの観光港にはバスで向かう。
その日も小倉行きのフェリーが停泊していた。おなじ光景。でも梓はもう、会えるとは思っていなかった。
それよりも仕事。真田珈琲に提示するイラストも幾分か決まっていたが、本多先輩の要望はあと二点、違う雰囲気のものが欲しいとのこと。
港、空港、公園に、道後温泉。郊外から見える石鎚山。いろいろスケッチした。もう思いつく場所がない。
――海のものがもう少し欲しい。それも本多先輩の指示だった。
だからこうして港に来てしまう。このあたりの港を三つ渡り歩いて、港の周囲の建物なども気にしていろいろな目線で描いてみたが、最終OKがでない。
折りたたみの椅子に座って、梓はスケッチブックを開いた。
でも、もう。今日は……、なにも描きたいものがない……。
だって。もう何度目? ここに来たのは?
「描き尽くしちゃったよ……」
なんだか急に、泣きたくなってきた。自分の力のなさ、至らなさ。やりたいことをやらせてもらえるようになったのに……。経験が浅くて、考えも浅くて、どう立ち回ったらいいかわからない。おなじところを何度も行き来していて、変化を感じられなくなっている。そこでやっぱり気に入らないと言われたら? なんの自信もないし、本当は真田社長が見に来る約束の日が近づいて来て怖い。でも、この仕事はそれをやっていかなくてはならない。
もう、描けない。
真っ白なスケッチブック。そして梓は鉛筆を握りしめたままうつむいてしまう。
もう、無理!
心が叫んだ、ちぎれそうになったその時。
「梓さん」
折りたたみの椅子に座ってうつむいている梓が顔を上げると、またそこに濃紺金ボタンの制服の男性。今日は制帽がないけど、船長さん!
「ま、松浦さん」
「今日もスケッチなんだ」
涙が滲みそうになっていたが、ぴたりと止まった。でも目頭は熱いままだったので濡れているかもと目線をあからさまに逸らしてしまった。
だから。大人の彼には気がつかれてしまう。
「どうかした? なにかあった?」
「いいえ。なんでもないんです」
「嘘だな。ほら、スケッチブックが真っ白だ。ここに来たらいつも『一時間は描いていく』だっただろう。いつもならもうある程度は描けている時間じゃないかな」
いつも来たら一時間はここにいて描く。なんで、なんでそんなこと知っているの? 驚いて梓は目が濡れたまま、船長さんを見上げてしまう。
大人の男性の優しい眼差しがそこにあり、彼はやわらかに微笑んでいる。
「どうして、ご存じなのですか。あれから一度もお会いしていません」
「俺は梓さんがあれから港に何度か来たのは知っているし、見かけている。あそこから見えていたから」
彼が指さしたのは、またあの大きなフェリー。
「え、あの? 私がこの港に来た日がお仕事の日で、偶然重なっていたということですか。その時に乗っていたということですか」
「梓さんが来た日というよりかは、梓さんとこの前会った日からずっと乗っているだね」
さらに梓は仰天して、涙がすっかり乾いてしまう。
「あの、待ってください。ずっと? 先日、偶然にお会いしてからもう半月は経っていると思います」
「うん。今日で乗船十五日目だ。あと五日で上陸」
「十五日目……?」
わけがわからなくて、梓はただただ聞き返し、彼を見上げるだけになってしまう。彼もにっこりしているが、でも致しかたなさそうに微笑んでいる。
「だよね。陸(おか)にいる人にはあり得ない勤務態勢だからね。でも海運では当たり前なんだよ。フェリー勤務だと二十日間乗船、休暇が十日というサイクル。内航船の貨物になると三ヶ月乗船、一ヶ月休暇がほとんどなんだ」
聞いたことがない勤務態勢に、梓は茫然とする。そして気がついた。
「では……。お会いした日から……、私が港に来た時も、松浦さんは船の中にいたということですか」
「そう。港に着岸したからと言って、一便ずつ交代とかは船にはないんだ。船の中でシフト制勤務。おなじメンバーで二十日間、航海をする。ブリッジからいつも見えていたよ。梓さんがスケッチしている姿が」
ずっと会えないと思っていたけれど、それは梓だけで、船長さんは梓が来るたびに知っていたという。
「業務報告とかで船長の俺はそこの会社の事務室まで行くのに外に出ることはあるんだけれど。今日は梓さんが、その、ちょっと辛そうというか。描かないなあ、手が動いていないなあと思って、気になって降りてきてしまったよ」
描けない姿を見られていた。知られてしまった? それだけ梓は力が抜けてしまった。
我慢していた涙が出てきてしまった。
彼が困った顔をするかと思ったのに。折りたたみ椅子に座っている梓の隣に、彼が紺制服姿のまま座り込んだ。
「真田の叔父の仕事、大丈夫? そのために描きに来ていたんでしょう」
まだ本格的な仕事をしたことがない梓が、初めてクライアントの仕事を受けることをこの人は目の前で見ていた。取引先のクライアント社長も彼の叔父様だから、どれだけ厳しい目線を持った社長かもよく知っているだろう。
「やっぱり怖いよな。初めての仕事が、あの叔父が相手だもんな」
「いえ、そんな。でも本当は嬉しいんです。ただ、力がなくて……」
「ほら、あの人気デザイナーの彼がいたじゃないか。おもいっきり寄りかかってしまえばいいんだよ」
「寄りかかっているんです。あの先輩なしでは何も出来ません」
「最初なんだから、仕方ないじゃないか」
そこはどこか厳しい言い方に聞こえ、梓の涙がようやっと止まる。
仕事をする男のシビアさ。それに触れた気がした。
そして、隣に椅子もなしに座り込んでいる彼を見た。怒ったような声に聞こえたけれど、でも彼は柔らかな眼差しで梓を見ている。
「やらなきゃいけないだろ」
「はい」
「とにかく。やらなきゃ。結果はともあれ」
「はい……、すみません。ちょっと糸が切れちゃったみたいです」
でも泣いたら、急に軽くなった気がした。そして恥ずかしくもなってきた。
「すみません。みっともなかったですね。忘れてください。お仕事の途中、なんですよね?」
「梓さんも仕事中でしょ。気持ちが落ち着いたならいいんだよ。描けないのなら、今日はもうここではないのかもね」
「そうですね……。港ばかり歩いていたものですから」
「逆に大好きな鉄道でも描きに行ってみたら。今度、その絵をまた見せて欲しいな」
元気づけてくれているんだとわかっている。まるで大人の男性が、幼い女の子をあやしているようなかんじだった。
でも梓は素直に頷いていた。そして微笑んでいた。
「そうしてみます。ありがとうございます」
彼もにっこり微笑んでくれ、そこでやっと立ち上がった。
「さて、そろそろ戻らないとまた機関長にどやされるかな」
そう言って黒髪をかいた彼の顔が、ようやっと疲れている顔に見えた。
「あと五日は海の上なんですね」
「うん。陸にあがったら、また叔父の店に珈琲を飲みに行くのがいまの楽しみ。叔父が航海中に自分で淹れろとコーヒー豆くれるんだけれど、やはりベテランバリスタの叔父が店で客のために淹れたものが、いちばん美味い」
その言葉を聞いて、梓も心を改める。プロの男にはプロの男の仕事が響くものなのだ。梓はそのプロの船長さんが惚れているプロのバリスタ社長と向きあわなくてはならない。
二十日も海の上にいる男が陸に上がって待ちこがれる珈琲とはどんなに美味しいのか。松浦船長の男の目元には少ししわがある。疲れたように見えて、仕事の男が刻んだものだと思えた。
「私、まだ甘いですね」
「そんなこと言っていないよ。新人らしいとは思うけれど」
そう、新人なんだ。新人だからそれだけのことしかできないんだ。そう思えてきた。
「ふっきれました。今日は帰ります」
お礼のお辞儀を彼にした。頭を上げると、彼が不思議そうな顔で梓をじっと見ていた。
「あの、さっきから気になっていたんだけれど。この匂い、梓さんだよね」
「匂い、ですか?」
「うん? 違う?」
そういった船長さんが、制服姿で梓の目の前に来たかと思うと、その背丈がある身体を曲げて、梓の黒髪をくんくんかいでいる。
そんな近くまで、大人の男性が近づいてきて梓はドキリとする。
「あ、そうだ。このオレンジみたいな匂い」
「あ、それ。私が愛用している入浴剤の匂いだと思います。えっと、昨夜は疲れて寝てしまったので、朝、入ってきたんです」
「すごく懐かしい……匂いだな」
懐かしいのひと言で、梓も同じように感じることがあって伝えてみる。
「デパートでみつけたお洒落な入浴剤ではあるんですけれど……。これを選んだ理由が、昔、家で使っていた入浴剤に香りが似ていて、すごく馴染みがあって安らぐんです」
母がそらへんの入浴剤を入れてくれていたはずだけれど、オレンジの芳醇な香りが似ていて選んだんだと、彼に伝える。
すると彼もハッとなにか閃いたのか、目を見開いた。
「あれだ。おばあちゃんちの入浴剤だ。あのすげえ明るい色の!」
「そうです。きっとそれです! うちの母もそれを使っていたんだと思います!」
子供の頃から馴染んでいる懐かしい匂い。商品名も出てこないけれど、きっとおなじものを思い浮かべてくれているという確信で二人一緒に『あれだよな』、『あれですよね』と意気投合してしまう。
なのに、船長さんが急に『あはは』と笑い始めた。
「ご、ごめん。女の子のいい匂いなのに……。おばあちゃんちの入浴剤だなんて申し訳ない……」
でもまだひとりでクスクス笑っている。抑えきれないほど可笑しかったよう。
梓も笑ってしまう。
「いえ、私もおばあちゃんちの入浴剤で、それそれと通じてしまったから」
「でも……」
笑いをひそめた船長さんが、今度は梓の耳元に鼻先を近づけてきた。
「でも、こっちのほうが甘くていい匂いだ」
また……、今度はドキドキしてきた。梓には海の上にいる男の制服から潮の匂いを感じた。
「いいな、やっぱり船の匂いと違う。陸でゆっくり風呂にはいる時に包まれたらほっとする匂いだな」
「船では入浴剤は使わないですよね」
彼の鼻先がやっと離れる。
「なんでも共同生活で共用だからないね」
「よろしかったら、ご自宅で使えるようお試しでお持ちしますよ」
「ほんとうに?」
松浦船長が少し躊躇った顔になったから、梓は思わず言ったとはいえ図々しく出しゃばってしまったかと焦った。
なのに目の前で、彼が携帯電話を取り出した。
「じゃあ、次の陸での休み。一緒に珈琲に付き合って。そこでもらっていいかな」
今度は梓が固まる。この港でさらっと渡そうと思っていたのに。男の人からカフェで会う約束を申し込まれて……。
「あ、ごめん。俺、図々しすぎたか。休みは叔父の店に必ず行くものだから。そのついで……、あ、ついでも失礼か……えっと」
大人の船長さんが、凛々しい制服姿なのにあたふたしはじめた。そんな姿を見てしまったから、梓も肩の力が抜けてしまう。
「いいえ。私も真田さんの珈琲は好きですから。船長さんがよろしければ」
梓もスマートフォンを取りだして、お互いの連絡先を交換した。
「また、スケッチみせて」
「私は船のお話をもっと聞きたいです」
船長さんが嬉しそうに微笑んでくれる。
「女の子がそんな話に興味を持ってくれるだなんて……」
――こら! 圭太朗! なにやってるんだ!!
二人で話しているとまた向こうから、あのしゃがれた怖い声が響いた。
「うわ、また機関長に見つかった」
――女と遊ぶのは陸(おか)にあがってからにせんかい!
船長さんなのに、彼が『こええ、俺、行くね』と苦笑いしつつ梓から離れていった。
また桟橋に向かう道で、彼と機関長が合流する。でもその怖い機関長さんが、梓ににっこりと手を振ってくれた。
潮の香だけが残って、また梓はひとり、さざ波に包まれるだけ。
でも。熱い頬が。鼻先に彼が纏っていた海の匂いも残っている。
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