8.いまが旬
翌日からも梓はスケッチへでかける。
その足は自然と、彼と再会した港へ向かっていた。
穏やかな秋晴れの中、ガタンゴトンとのどかに進んでいく電車。やがて車窓には海が広がる。ひとつめの港を過ぎ、ふたつめの港が終着駅で下車。さらにバスでみっつめの大きな港を目指す。
その日も、大きなフェリーは桟橋に停泊していた。
折りたたみの椅子を持ってきた梓は、また駐車場の片隅に置いて座る。そのまま今日は違う角度から海を見据える。
今日は島が中心、その側にどのようなものが寄り添っているのか感じながら。
絵を描き始めると集中してしまうほう。しかし、一時間ほど経つと梓は筆を止めてしまう。
チケット売り場のセンターから伸びる桟橋への道。そこをじっと眺めたけれど……。いない。そして、フェリーのブリッジを見上げた。
そんな簡単にまた会えるわけないか。そう、知り合いに会っただけのこと。
船長さんの制服姿はかっこよかった。また会えるかもと思ってきた、そんな密かな気持ち。でもそう会えるものでもない。ただのクライアントの親戚。
「違う港に行ってみようかな」
狙っていたアングルでのスケッチを終えたことと、ここは昨日も描いたばかりだったため、梓は移動を決める。
バスに乗り、また港の駅に戻る。駅前の高浜港で、今度は島行きのカーフェリーをスケッチする。こちらは十五分おきの運行。小倉行きのフェリーとくらべると小型だったが、興居島(ごごしま)と市内を結ぶ大事な交通機関。
港の風景を切り取る。描き終え、この日、梓にはなにも湧いてくるものがなかった。
いつもどおりの手応えしかない状態で、この日は早めに事務所に戻ってしまう。
「はやいな。もう港は飽きたか」
事務所に戻り、さっそく本多先輩にスケッチを確認される。
終着駅にある島行きフェリーの港のイラスト。写生したものと、またデフォルメして絵本のような優しいイラストと二枚。
その後、梓はすぐに港から離れた。終着駅のすぐ隣の駅、海が見渡せる駅に降りて、その風景を描いてきた。
「梅津寺(ばいしんじ)駅か」
昔、そこには地元電鉄の小さな遊園地があったと聞いている。フェリーに乗ると、観覧車が見えたものだと地元の人がいうが梓は見たことがない。いまこの城下町で観覧車といえば、松山市駅の百貨店屋上にある観覧車がランドマークになっている。
でもその話を思い出して、いまはもうそこにはないけれど、観覧車を描いてみた。
「懐かしいな。子供のころよく行ったよ。親父の仕事で一時期、大阪に住んでいたことがあって、俺だけこっちに戻ってきたんだけれどさ」
本多先輩の意外な境遇に梓は驚く。
「そうだったんですか。てっきり、地元の方かと」
「俺も、永野とおなじだよ。といっても、俺の場合は大阪ではなかなか思うような仕事ができなくて、ローカルなら拾ってくれるかもという不純な動機があって、ひとりだけこっちに帰ってきたんだけれどな」
驚きはするが、すぐになにか言葉に出来なかった。都市部でうまくいかなくてローカル都市にやってきたのは梓もおなじ。ただ、拾ってくれるという自信はなく、とにかくチャンスがあればと藁にも掴む思いで面接に来た。
「……でも、いまはこの事務所の稼ぎ頭じゃないですか」
「そうやって言われるようになったのも、三好堂の社員になってからだよ。フリーランスでやっていた時の俺なんて酷いもんだった……」
「そう見えません。フリーランスの頃からセンスがあって三好堂印刷に見初められて来られたのですよね」
ほんとうにそう見えるのに。でも本多先輩はそこで嫌なことを思いだしたかのように眉間に皺を寄せ黙り込んだ。
「お帰りなさい、梓さん。今日はどうだったの」
また琴子マネージャーが様子見にやってきた。おそらく、真田珈琲という大事なクライアントの仕事を、新人のような梓に任せてからどうなっているのか気になるのだろう。
そして、この気難しくてプライドが高い先輩がほんとうにアシスタントを指導できているのかどうか案じているのだとも梓は思っている。
「今日はこれ。どうだ」
また本多先輩が梓のスケッチブックを差し出した。
「わあ、懐かしい!」
「だろ。俺も子供の時に行った」
「私も行った! 海水浴場からも見えたものね。海水浴に来たのに、目の前に観覧車が見えるからあっちにも行きたい行きたいと駄々こねて」
「言った、言った。俺も兄貴と駄々こねたこと覚えているな」
地元の方にはとても懐かしいもののようだった。
緑の海岸線にある小さな遊園地。絵本の挿絵のような雰囲気に仕上げている途中に感じていたもの、欧州のレトロな港町風にしてしまった。
「これ、いいわね。地元の人間にしかわからなくても、こんな世界がこの街にある。その世界観が伝わってくるわね」
「この路線で行ってみようかと思っている」
本多先輩の決意したようなひと言に、琴子マネージャーが一瞬目を瞠ったのを梓は見る。
「うん、いいんじゃない。これなら真田さんも気に入りそうよ」
「イメージラフから見てもらおうと思うんだ。それでこれも……」
梓のデスクでスケッチを眺めていた本多先輩が自分のブースに戻って、一枚のイラストを梓の昨日のスケッチの隣に置いた。
今度は梓が目を瞠る。それは昨日の帰り、本多先輩が梓が描いた港と島とフェリーの構図イラストを真似て描いていたものだった。
琴子マネージャーはその時に見ていたが、黙ってそのままにしていたこともあって驚かない。むしろ本多先輩がやることがわかって通じているような顔をしている。
「おまえのアイデア、俺が描くならこうなる」
構図は一緒。でも、イラストの雰囲気が違う。美しく整っていて綺麗なのはやはり本多先輩。色の塗り方ひとつにしても艶がある。逆に梓のイラストはどこか幼くて野暮ったい……。
やはり彼の作品のほうが商品になるのでは。こんな立派なプロのイラストと並べられると落ち込んでしまう……、そう梓が密かに胸を傷めて落ちこんだ時。本多先輩がそれでも梓のスケッチを手に取った。
「それでも、真田さんは今回はこの雰囲気を欲している。俺のこの雰囲気は意に添っていないということだ」
落ち込みそうだった頭だったが、その言葉に梓は顔をあげ、彼を見た。
「ですが、本多さんのこのイラストのほうが」
「あー、めんどくせえな。真田さんが言いたいことほんとは俺もわかってる。艶はいらない、もっと素朴で身近なものが欲しいと言っているんだよ。わかりやすくいうとな、田舎臭い、野暮ったいのが欲しいんだよ!」
クライアントの要望が田舎臭いもの野暮ったいもの? あまりの口の悪さに梓は唖然としてしまう。
「ちょっと、雅彦君。言い過ぎ」
琴子マネージャーも慌ててその口の悪さを差し止めようとしたが、『雅彦君』!? そんな親しげに彼を呼んだことにも梓は目を丸くした。
「わかってる。俺だって、そう言いたくはない。……そのつまり、今回のオーダーは永野の雰囲気がマッチしているんだよ。おまえ、いま旬なんだよ」
「旬?」
いまが食べ頃? 使い頃? どういう意味かまたわかりにくくて梓は首を傾げる。
「自分の旬とオーダーがマッチすることはそうはない。俺はこの仕事、俺にとって旬じゃない。そもそもおなじイメージで続けてきたが、そろそろ真田さんも新しい雰囲気を欲している。その欲しいものを永野のイラストの中に感じた。永野のイラストは俺にないものがある。女らしい感覚と、純真さだ」
田舎臭い、野暮ったいのが今回の仕事のポイントでそれがおまえに見出されたといわれたと思っていたが、今度は女性らしい、純真と綺麗な言い方に変えてくれる。それが梓の特長だとばかりに。
「おまえ、いま『旬』の仕事を掴もうとしているんだ。いいか、言っておくぞ。駆け出しのレーターだからと怖じ気づくな。俺のほうが巧いのは当たり前。でも今回は俺は望まれていない。めげてやっぱり本多さんがやったほうがいいんだなんていう甘えはここで捨てろ」
ガツンと言われ、梓は茫然とした。でも……、かあっと頬が熱くなるのも感じた。ううん、違う。胸かもしれない。いま梓は衝撃を受けている。
それに。この先輩……。プライド高いし、自己中だし、口も悪いけれど。本質の核心を決して手放していない人だと改めて思った。
女のくせに。俺より下手なくせに。そんな人ではなかった。気難しいし口も悪いしぶっきらぼうな人だけれど、仕事は本物だと梓も信じているそのまま。
「わかった顔だな。いいな。もっと本気でこういうのをかき集めてこい」
「わかりました」
「あとパッケージの型も俺が紅茶パッケージに合う候補をピックアップしておく」
そこは先輩にお任せすることにした。
「琴子。うちの印刷所でカッティングできるパッケージ型のデーターを頼む」
「わかった。後で持ってくるわね」
師弟のやりとりが滞りなく落ち着いたからなのか、琴子マネージャーもほっとした面持ちで事務室に戻っていった。
梓はおもわず、じっと本多先輩を見てしまう。彼も気がついた。
「なんだよ」
本多先輩は当たり前みたいに琴子と呼び捨て。マネージャー女史も通じあっているようと思っていたら親しげに『雅彦君』と呼んだ。
「あの、琴子さん。雅彦君と呼んでいましたよね……」
違和感を持ったのは梓だけ? そう思っていたら、先輩も照れくさそうにして顔を伏せ、ブースに戻ってしまった。
「……まえの彼女なんだよ」
「え」
「琴子は元カノだって言ってんだよ。いまはただの同僚、もう後腐れもないから一緒にやってるんだよ」
ええーーー! この気難しい先輩の恋人だった? それで扱いが上手いわけ? 何も知らなかった梓はあまりの驚きに固まったまま動けなくなってしまった!
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