5.大きな鉄の船長さん
電鉄の最終駅は港の駅。古い木造、白くてかわいいレトロな駅。
よくよく見ればこれって、瀬戸内ぽいじゃないと気がついた梓は、すぐにスケッチブックを開いて描きはじめる。
駅の目の前は古い車道、二台がやっとすれ違えるぐらいの幅しかない。でも横断歩道を渡ると、そこはもう港。
興居島へ行くためのフェリーが出ている港だった。
「本多さん、島へ行けといっていたよね……」
目の前の港からフェリーに乗り込めば、十五分ぐらいで蜜柑とレモンの島へ行ける。
島レモンマーマレードで名を馳せたレモンのおばあちゃんがいる二宮果樹園がある。こちら果樹園さんもクライアントさんと一緒に三好堂デザイン事務所にやってくることがある。
ころんとしたほのぼのしたおばあちゃまと、若いのに凛とした美人のお嫁さんがやってくる。といっても、真田珈琲の社員さんと再婚されたと聞いている。顔見知りといえば顔見知り。琴子先輩とも家族ぐるみで仲良くしているようだったが……。梓個人は事務所で会うクライアントさんという関係性しかなく、アポなしで訪問する勇気なんてない。
波の音と潮の香だけの港。フェリーはそこにいない。
――観光港行き、もうすぐ出発します。
スケッチしていたレトロな駅の脇からそんなアナウンス。
もうひとつの大きな港へアクセスするためのバスがここから出ている。
あの港なら、大型フェリーも水中翼船も着岸するはず。
「よし、観光港に行こう」
梓はそのままバスに乗り込んだ。
平日の昼間、乗客は数人。柔らかな陽射しが降りそそぐ窓辺の席。古い海岸線をバスが走る。
きらきら光る青い海の水面は綺麗で、色も青くて、なにもかもが穏やか。梓を包みこんでくれる。
なんであんなに避けていたんだろう? 遠く見えるタンカーやフェリーに高速船を何度も目にしたはずだったのに、港に立つとあの苦い思いをするに違いないと思って避けてきた。
こんなに優しいのに、綺麗なのに、爽やかなのに。
はやく来れば良かったかもと思いながらも、梓はまたスケッチブックを開いて、緑の島、きらめく海、水彩のような空、そして、目の前を往く小さな漁船を描いた。
「魚群レーダーて見てみたいな」
操縦席も見てみたい。浅黒い肌の漁師さんが勇ましく操縦席でハンドルを握るその姿を見てみたい、描いてみたい。そんな気持ちになってきた。
バスが走る時間は短い。港と駅を往復するためのシャトルバスはあっという間に港に着いた。
バスを降り、チケット売り場がある建物には寄らずに、そのままフェリー乗り場へと向かう長い道が続いている駐車場をゆく。
潮風の中、離れた桟橋に大型のフェリーは停泊していた。
「うん、さすがに大きい。小倉行きのフェリーだね」
ああ、双眼鏡もってくればよかった! 父が誕生日プレゼントに買ってくれた、自衛隊員が訓練でも使っているような本格的なもの。お月様のクレーターだってみえてしまう高性能な望遠鏡。
でもあれは重いし、今日は仕事でいきなり外に出されて持ってきていない。
このフェリーは夜間航行にて夜明けには九州についているスケジュールの客船だった。
朝到着し、夜の出航前準備なのかまだ静かにそこに停泊している。
「よし」
スケッチブックを開き、鉛筆で下書きをはじめる。
潮の香、やわらかな風、さざ波。青色、空色。そして太陽に白くきらめく船首とブリッジの窓ガラス。梓は夢中になってスケッチをする。
背景を入れるなら、ここは水彩で行こう。カラーコンテで色を塗り、水を含ませた絵筆で滲ませよう。いつもカバンに携帯している画材の中から絵筆とお水を入れた小さな容器を取りだす。水を含ませた絵筆でコンテの粉を水でなじませ絵の具のようにして色を伸ばす。
ひさしぶりだった。外の空気を吸って、何にも邪魔されずにこんなに気持ち赴くままスケッチが出来るだなんて。
「最高」
梓は思わず微笑んでしまっていた。
事務所に採用されてから数年。ずっと本多先輩のお手伝い。仕事の流れややり方を彼のそばでアシストしながら覚えて、でもそれだけ。いつまでも戦力になれない。
だからって辞めるわけにもいかない。やっとの思いで就職できたのだから。大学の同期生の中にはデザインの仕事は諦めて、他の職に就いた者もいたし、せっかく就けても辞めてしまって一般職に転職した者もいる。
へこたれてやめたら、それまで。でも梓もいつもそこで揺れている。辞めて、一般の職を手に付けた方が将来的にいいのではないか。デザインなんて先が見えない仕事だった。
でも……まだ、あと少し、あと少し。頑張ってみよう。そう繰り返して数年。
事務所の中でも戦争といえば戦争だった。クライアントとの衝突もあるし、納期との戦いもある。三好堂印刷は元は印刷会社で、いまもジュニア社長の先代が取り持ってきた工場と製版所が隣接している。納期ギリギリになると、そこからの催促も厳しい。デザインが仕上がらないと、製版も遅れ、印刷も遅れ、後に控えている工程班に負担がかかる。
繁忙期になると夜中まで働かねばならないことも出てくる。若いから出来る仕事、いつまで身体はもつだろうかと、本多先輩も琴子マネージャーもぼやいている時がある。
そんな忙しい仕事の時間と空気から離れて、こうして好きにスケッチができる楽しさ。梓はそれをいま味わっている。
数十分でさっと描いたスケッチが出来上がってくる。梓も満足。
瀬戸内の海、空、そして大きなフェリー。
「島もちょっと入れてみようかな。ちょこっと蜜柑を添えたいかも」
ああそうか。小物と背景のマッチングってこういうことなのかも? ようやっと本多先輩が言っていたことがわかってきたように梓には思えた。
蜜柑を書き添えるために、青系の色ばかりが絵筆に付いているので、色が混ざらないよう新しい筆をカバンから取り出そうとした時だった。
「あずさ、さん?」
え、こんなところで誰かに呼ばれた? 梓は顔を上げる。
向こうのチケット売り場から乗船するための桟橋へ向かう目の前の道に人がいる。濃紺のジャケットに金ボタン、袖には金のライン。そして白と黒の制帽をかぶった制服姿の男性。
知らない人だった。梓はその男性に呼ばれたため、ちょっと構えて声が出ない。
その男性が桟橋へ向かう道を外れ、駐車場の隅でスケッチをしている梓へと向かってきた。
「三好堂さんの、梓さんですよね」
はい――と言いたいけれど、誰?
背が高くて、凛々しい人。長い足でこちらに颯爽と歩いて近づいてくる。
でも、彼が近づけば近づくほど、梓にももしかして――という気持ちが湧いてきた。
そんな制帽をかっこよく目深にかぶっていたから、目元までよく見えなくて。それに全然、この前と違う!
「ま、松浦……様?」
かっこいい制服姿の彼が梓の目の前に到着。にっこりと微笑んでくれたその目元はよく覚えている。
「ここで、様――なんていらないでしょう。こんにちは、真田の甥の松浦です」
「え! あの、海運業って……タンカーとか貨物船とか!」
「の、経験もあるけれど。いまはあれ」
制服姿の彼が目線を向けたのは、梓がスケッチしていた大型のフェリーだった。
「ええ! あのフェリーの船員さん……」
いや、違う。船員にかわりはないが、この姿は間違いなく!
「そう、船長をしています」
彼が制帽のつばをつまんで、またにこりと笑った。
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